10 ②

 フォルテッシモはひとり劇場の扉の前に立つ。

 そしてポケットに無造作に手を入れると、まるでそれが合図でもあったかのようなタイミングで大扉がとひとりでに開いた。

 そして歩き出す。その前には劇場内部に通じる扉がもう一つあるが、そこに向かってただ歩いていくと、鼻先でまたと向こう側に開く。

 劇場内部は客席が並び、そして静まり返っている。いつもならば、華やかな照明と音響、そして客の拍手と歓声に彩られているそこは、今はただ、空っぽの空間を無言のうちにさらけだしている。

 そして──いつもとは逆の現象が起こる。

 普段ならば、それは客席からのみ聞こえるはずだ。だが、今それは舞台の方から響いてくる。

 拍手だ。

 たった一人の手になるそれが、舞台の上からここに入場してきたフォルテッシモを迎え入れる。


「──ようこそフォルテッシモ」


 そいつは静かに言う。今度は侍しようぞくは身につけていない。だが代わりに、腰のベルトには一本のさやに収められて、差し込んである。

 フォルテッシモはゆっくりと歩いて、そいつの数メートル前まで来て、立ち停まり、睨みつける。


「高代亨──念のために聞いておいてやる。おまえ、何のためにここに来た?」

「────」


 彼は答えない。


「閉鎖空間を作ったり、ガスき散らしたり、なにやらを用意したようだが──本気で、どうにかできると思っているのか? それともただのやけくそか?」

「────」


 彼はしばらく無言だった。だが、やがて口を開いた。


「こっちも──ひとつだけ訊かなくてはならないことがある」

「あ?」

「あんたの能力がつけた傷──塞ぐ方法はあるのか? あの傷を治すにはどうすればいいんだ?」


 するとフォルテッシモの表情がいぶかしげなものに変わった。


「──おい、まさか……なのか?」

「…………」

「おまえ……あの生死の境をさまよっているはずの友人の生命を救うために、わざわざこんなおぜんてまでして俺を呼びつけたってことなのか? 殺される覚悟で、か?」

「答えてくれ」


 詰め寄ることなく、むしろ穏やかな口調で言う。

 そして反対に、フォルテッシモの顔の方はだんだん不快さが露になっていく。


「──こころめてやるが、しかし残念ながらそんなものはねーよ……!」

「──ほんとうにないのか」

「くどい! 生命とは、俺から視れば空間のひびという網に引っかかっている綿わたぼこりのようなものだ。あいつはその生命そのものを斬られたに等しい。それを塞ぐことなど誰にもできない。誰かが新しい生命をやっこさんの身体に継ぎ足して、傷を埋めてやれば別だろうがな……!」

「方法はないのか──」


 彼はかすかに首を下に向け、息を吐いた。

 そのつぶれている右眼の傷痕から血が一筋、つうっ、と流れ落ちる。


「ならば道は、やはりひとつしかないか」

「〝道〟だと?」


 フォルテッシモの声には怒りが混じっている。期待を裏切られた怒りだ。


「おまえに……ここで俺にぶち殺される以外にどんな〝道〟があると言うんだ、高代亨!」


 その怒声に、だが彼は静かに返した。


「さっきから──間違っているぞ」

「なに?」

「その名前はもう意味がない」

「名前? なんのことだ」

「救うことができないとはっきりしたところで、なおさら意味が無くなった」

「だから、何を言っているんだ!?」

「名付けたのはおまえだ。おまえが言ったんだ──おまえの相手をするしかないのだから、もう俺にはしか残っていない」


 ここで、やっとフォルテッシモにもその言葉の意味が飲み込めた。


「……なるほど」


 そしてポケットから両手を出す。


「とりあえず、覚悟はあるということか。よかろう、その覚悟とやらを見せてもらおうか、ええ〝イナズマ〟よ……!」


 そして一歩前に踏み出すと、それまで見られなかったことが起きた。

 太刀を腰に差している彼が、後ろに下がったのだ。

 フォルテッシモとの距離は、五メートルほど──その距離を、縮めようとはしない。

 フォルテッシモはまた一歩近づく。

 やはり下がる。


「……!」


 フォルテッシモの目つきが急に鋭くなる。


「どうして後退する?」

「その理由は、おまえが一番よく知っているはずだ」


 彼は静かに言う。それは確かに、あの直情一直線だった高代亨とは思えぬ口振りだった。


「フォルテッシモ、まさか最初の戦いで俺が何も見ていなかったとは思わないだろう?」


 そう、そして考えていた──あの留置場でずっと、そのことばかりを考え続けてきたのだ。あのときの戦いの様子を何千回も頭の中ではんすうし続けてきたのだ。分析し、推測し、そして想像し続けてきたのである。


「…………」

「俺がうかつには近づかないのは、おまえの〝有効射程距離〟がこの間合いだからだ。これより離れると、おまえは正確な攻撃ができないんじゃないのか?」


 淡々と言われても、フォルテッシモの表情は動かない。無表情だ。


「…………」

「そしておまえの能力のもう一つの特徴は、いったん発動させたら自分でも停めることができないということ……だから自分自身をその圧倒的な破壊に巻き込まないために、攻撃それ自体は細かく慎重にやらなくてはならないということだ。だから……一見、無防備の状態でどんどん相手に近づいていくのは、度胸があるからでも能力に絶対の自信があるからでもない──そうしないとおまえは攻め込むことができないんだ」

「…………」


 隻眼の男の言葉に、フォルテッシモは無表情のままだ。


「──だからなんだと言うんだ?」


 このあっさりとした反応に、しかし相手もかすかに首を振って穏やかに返す。


「無論、この程度のこと、見抜いたのは俺が最初というわけでもないだろう。それに、それでおまえの絶対的な防御が崩れるわけでもないしな。たとえ千回、対等の立場で尋常の勝負をしたら千回とも俺が負けるだろう。だが──」


 ここで彼は刀に手を掛ける。


「特別な環境下で、特殊な状況での勝負であれば──おまえが勝つのは九百九十八回だ」

「──二回は勝てる、とでも言うのか? そして……とでも言うつもりか?」

「…………」

「おまえ──本気で俺に……このフォルテッシモに勝とうと思っているのか?」

「俺が勝つんじゃない──おまえが負けるんだ」


 言い放った。


「…………」


 フォルテッシモはこの不敵な宣言に、しかしこれまでのようにニヤリとしなかった。笑わない。能面のような顔のままだ。


「……おまえにわかるのか?」


 押し殺したような声を絞り出す。


しよせん、何度も何度も負けたことがある負け犬のくせに、一度も負けたことのない俺のことが貴様ごときにわかるとでもいうのか……?」


 また一歩前に出る。

 しかし相手は、今度は下がらなかった。

 代わりに横にずれた。

 立ち合いのスタンスが微妙に変わる。

 そして睨みつけてくる相手に、イナズマと呼ばれる男は静かに言った。


「俺にはおまえのことはわからない。そしておまえだって俺のことはわかるまい。だから──それに関しては俺たちは対等だ」

「ならば、遠慮もようしやもいらんな!」


 フォルテッシモが床を蹴って突撃してきた。

 物質がはじけとぶ破壊音が辺りにとどろいた。


    *


「……!」


 びくっ、と穂波顕子は顔を上げた。

 目の前の〝スフィア〟からなにか──絶叫のような音が聞こえてきたように思ったからだ。


『なんだ、どうした?』


 エンブリオが訊いてきた。


「……う、ううん。なんでもない。たぶん気のせいだわ」


 彼女は頭を振る。そしてあらためて、目の前の光景を見る。

 そこには警官たちがいる。