10 ③

 この事件で、ビルを包囲する任務のために駆り出されてきた警官隊だ。ここはビルの入り口の七つあるうちのひとつで、そこから出てくる者、入ろうとする者を阻止するために固めていたのだ。

 だが彼らはすぐ前に穂波顕子が立っているのに制止しようとはしない。と言うよりも、できないのだった。


「──で、でもこれって……どういうこと?」


 そう、彼らは、どういう訳か、全員が気絶していて、ひっくり返ってのびていたのである。

 そのすぐ側に、なぜか女性用と思しき黒いベレー帽がひとつ落ちていたが、彼女たちは気がつかない。


『訳は知らんが、チャンスであることは間違いないんじゃないのか』


 エンブリオが静かに言う。


「そ、そうね」


 顕子はおずおずと、シャッターが閉じてしまっている入り口の、脇の方に小さく設置されている非常口の扉を押し開けた。

 内部にはかすかに、ガスの異臭が残っていたが既に効力はないようで、別に不快感は顕子には感じられなかった。

 唾をごくりと飲み込むと、顕子はゆっくりと〝スフィア〟の中を高代亨を捜すために進み始めた。

 だがそのとき、彼女の眼がひとつのものを足元に見つけた。

 ゴキブリだった。

 ガスを吸ったのか、腹を向けてぴくぴくとけいれんしている。人間にはもう無害でも、昆虫にとっては殺虫剤をくらったようなものなのだろう、あきらかに死にかけていた。


(──あれ?)


 そして、いつものようにその虫から〝死〟がこぼれていくのが見える。見えるのだが……なんだか、それが今までと比べてピントがぼけている。いやぼけていく。どんどん薄れていくのだ。

 そして、とうとう見えなくなってしまったのだが、それが虫が完全に死んだためなのかどうか、彼女にはいまひとつ自信がもてなかった。


「これって……?」

『……能力が弱まっていて、消えかかっている、のか?』


 エンブリオも呟いた。


『し、しかしそれなら俺との会話もできなくなると思うんだがな』


 そういう〝声〟それ自体は極めて明瞭に聞こえる。


「……わからない。わからないけど」


 顕子は自分に言い聞かせるように言う。


「でも、もう前と同じ間違いはしたくない。今、私がどうなっているのか、どうなっていくのかわからないけど、でも──私は亨さんに会うと決めたんだから、捜し出す──それしかない」


 そして彼女はまた歩き出す。


『…………』


 エンブリオは、そんな彼女に何も言わない。


「……どうしたのよ?」


 逆に顕子の方から訊いてきた。


「いつもみたいに『おやおやゆうかんなことで』とか言ってからかったりしないの?」


 笑いながら言われて、エンブリオは人間であればため息にあたるような声を出した。


『……いや、なんか……あんた立派になったよ』

「なによ、気持ち悪いわね?」

『いや本当に。今、どこから来たのかわからないが、そういう気持ちが急に湧いてきた。確かにあんたは、昔と比べて大きくなったんだな』

「昔って、あんたと私はずっと一緒じゃない。そういう科白は何年も別々だった人たちの間で使う言葉でしょう?」

『……ま、それはそうだな』

「でも、ありがと。あんたに誉められると、なんだか勇気が湧いてきた。どんなに難しいことでも、今ならできそうな気がするわ。ふふっ」

『へへへ』


 少女と卵、何も知らない二つの存在は、閉じこめられた空間の中でひそやかに、ささやかに笑い合った。

 そしてまた、ずずん、と何かが破壊される振動が伝わってきた。

 彼女たちはその震源地と思われる方向に向かって走り出す。


    *


 血飛沫しぶきが飛び散る。


「──っ!」


 腰の太刀を抜かずに押さえている高代亨は、すでに飛び散る無数の破片を受けてさつしようだらけになっている。だがそれでも彼の動きは鈍ることなく、迫るフォルテッシモから一定の距離をとり続けている。


「どうしたイナズマ! その腰の刀は飾りか!」


 フォルテッシモが挑発する。

 劇場は、既にその座席のほとんどがばらばらに粉砕されていて、まず攻撃を受けた舞台に至っては跡形もない。


「だいたい──あくまでも俺に近寄らないつもりらしいが、それでどうやって攻撃するというんだ?」

「…………」


 亨は太刀の柄に乗せている手を、しかし動かそうとはしない。

 そして隻眼の視線も、一瞬としてフォルテッシモから逸らさず、その表情にもあせりやおびえというものはじんもない。


(こいつ──何かを待っているというわけか?)


 フォルテッシモも、いったん連続攻撃を停める。


(あくまでも剣を抜かないということは、抜きはらう速度を利用し、剣の軌道を相手に読ませない居合いか? だがあの剣の長さではしょせん俺の射程距離を越えて攻撃することなどできまい──それ以前に何かが接近しただけでも俺にはそれを破壊できるのだから、剣撃だろうが銃弾の連続射撃だろうが何だろうが、無意味……それを知っていて、こいつは何を狙っているのだ?)


 訳がわからないが、しかしはっきりしていることがひとつある。

 ヤツが何かできるとして、それは一瞬だけのこと──勝負はせつで決する。


「…………」


 動かなくなったフォルテッシモを前に、亨の動きも停まる。

 そうして、時だけがゆっくりとカタツムリのような速度で動いていく。


「…………」


 そして、ひゅん、という奇妙な音がしたかと思うと、亨の右肩がいきなり裂けて、血が吹き出した。

 フォルテッシモが、その間合いぎりぎりで空間を切断し、故に生じた真空波が亨を切り裂いたのだ。

 だが亨は動かない。

 ひゅん、ひゅん、と音が連続し、その度に傷が増えていくが、まったくひるまないで動かない。

 亨には見えているのだ。

 この真空波攻撃ならば、その〝線〟がはっきりと見切れるのだ。致命傷にも大したダメージにもなっていない。ただの軽いジャブだ。受け続けたらまずいのではないか、と彼に思わせるためだけの攻撃だ。これで勝負を決めようとはしていない。

 そして、フォルテッシモも亨の静かなる眼光から狙いを読まれていることを悟らざるを得ない。


(──しかし、それでもこれを続けていけばいずれにせよ出血多量で動けなくなるときが来るぞ。それとも俺に単調な動きをさせて隙をつくらせるために、わざと避けないのか?)


 よかろう──受けて立ってやる、とフォルテッシモはあくまでこのけんせいをやめず、続行する。

 フォルテッシモ自身、半ば誤解していることであったが、実際のところ彼の最強たるゆえんは能力にとどまらないのだった。油断ということを本能的な、体質と言ってもよいレベルで、のがフォルテッシモの任務完遂という事実を支えているのだ。これは訓練や経験でつちかわれたものではない。生まれついてのもの──おそらくはこの能力すらその性質の付随物。そういう風に彼はできているのだ。だがそれは必ずしも彼の望んだものではない。

 だから、この敵〝イナズマ〟の強さも彼はもう無意識では知っている。谷口正樹に一撃を喰らったのも、そのときの相手がこのイナズマだったからだ。他の者を相手にしていた時であれば、正樹の接近に気がついていたはずだ。それほど集中してしまっていたのは、おそらく──


「…………」


 だが、彼はまだそのことを認めたくない。

 何故かわからないが、そのことを認めるとこの後でものすごく辛い気持ちになるのではないか──はっきりと認識しているわけではないが、そんな感じがしてならないのだった。

 もしや自分は、その強さはもしかしたら唯一のものではなく、孤独ではないのではないか、などと……


「──ちっ」


 フォルテッシモは攻撃しながらも、かすかに舌打ちする。

 対して亨は、その能力は生まれついてのものではない。