10 ④
だから油断もしてしまうし、感情にまかせて取り返しのつかない失敗もしてしまう。だがそれ故に、今、ここに立っている──もしも本能が最強を彼に命じているのならば、とっくに逃げ出しているだろう。自然における強さとは如何に生き延びるかということに他ならないからだ。
だが彼はそうではない。
だから逃げない。
だから、まだ戦っているのだ。
動かないことで、戦っている──。
「…………」
羽原健太郎が用意し、それに基づいて彼が考えた〝策〟によれば待つのはあと少しでいい。このまま攻撃させ続けていても、ダメージが深刻になる前になんとかなるはずだった。
しかし──ここで亨にはまったく予想外の出来事が起きてしまった。
「…………?!」
彼の眼が、そのときはじめてフォルテッシモから外れた。
敵の向こう側の、劇場入り口の方に向いた。
そこには一人の少年が立っていた。
穂波弘だった。
隠れさせられていた場所からこっそりと近寄ってきていたのである。
そして彼から見ると、フォルテッシモが高代亨を一方的になぶっているようにしか見えなかった。
「た、高代さん!」
彼はつい、大声を上げてしまった。
その声に、しかしフォルテッシモはそっちの方を向かない。そんなことは彼にはささいなことだったからだ。
だが亨にはそうではなかった。
今ここに無関係の者が残っていては駄目なのだ。
彼は飛び出した。
弘の方に、戦いの間合いもへったくれもなく走った。
(なにっ!)
フォルテッシモには、それはいきなり逃げ出したとしか取れなかった。
その瞬間、かっ、と来た。
ここまで来て──とそう思った。
「──ざけんじゃねえっ!」
怒鳴って、見境のない一撃を亨が向かった方向にぶっ放した。
劇場の床や天井が、ずたずたに引き裂かれて衝撃波を放ちながら爆散した。
「──わっ?!」
弘は、亨に抱きかかえられながらも、爆圧に吹っ飛ばされた。
二人はかたまって、ごろごろと転倒する。
そして亨はすぐに跳ね起きた。
「──動けるな?」
前置きも何もなく、いきなり弘にそう言う。弘はこくこくとうなずく。自分には確かに怪我はない。しかし……亨の方は、何やら顔の半分が血でべっとりと濡れている。頭に、飛んできた破片が直撃したのだ。
「た、高代さんは──」
「いいか、すぐに逃げろ! ここはもうすぐ──」
「で、でも姉ちゃんが捕まってるんだよ!」
亨の言葉の途中で弘は叫ぶように言った。
「なんだと……?」
亨の顔が
そのとき背後で、じゃり、と破片を踏む音が響いた。
二人が振り向くと、そこには動かない少女の首を掴んでぶら下げたフォルテッシモが立っていた。
「……それは〝こいつ〟のことか?」
冷ややかな声で言う。
「貴様……どういうつもりで?」
まったく予想外の事態に、亨は完全に虚を突かれていた。人質を取るなどということをフォルテッシモがやるとはとても信じられなかったのだ。
「ね、姉ちゃん!」
弘が悲鳴を上げる。
「おめでたい奴らだな……おまえら、本気でこいつが穂波顕子だと思っていたのか?」
ついに言った。
「え?」
「なんだと……?」
「ほれ、正体を見せてみろよ、ええ〝パール〟よ……!」
そして、少女の身体がびくんびくんと痙攣を始める。
そして──ああ、なんということだろうか。その手足が、胴体がみるみる縮んでいくではないか。
亨と弘は絶句している。
とうとう少女は、弘よりも小さい、七か八歳ぐらいの大きさになってしまった。
そう──これが合成人間〝パール〟の正体なのだった。あらゆる人間に化けるために、基本形はコンパクトサイズに設定されている──強化骨格の間にかさ上げする機構を組み込むのは難しくないが、強化骨そのものを縮めるのは至難の業だからである。彼女や、その同類すべての〝
顔も、完全にあどけない子供のそれだ。髪型だけが、まだ穂波顕子のそれと同じだった。だがその色も、みるみる脱色されていきキラキラと光を反射する銀髪になる。その上にさまざまな色を乗せるための髪だった。
「…………」
弘は口をぽかーん、と開けている。目の前で起こっていることが理解できないのだ。ただなんとなく──なるほど、と思っていた。
あれなら、体重が軽いのも当然だなあ……と。
「…………」
亨は、その表情はどんどん険しくなっていく。そしてとうとう
「──やめろ……!」
言われて、フォルテッシモはぽい、とパールの身体を捨てた。
パールは口から
「がふっ、がぶふっ……」
と唇の端から泡を吹いて、ひきつっている。
全身の神経を、あちこち〝切ったり付けたり〟されたので変身を持続することができなくなり、そして今は人事不省に陥ってしまっていた。
「……どういうことだ?」
亨は、パールではなくフォルテッシモを睨みながら言う。
「どうもこうもない。そいつは偽者だよ。本物の穂波顕子はエンブリオを持って未だに姿を隠したままだ。こいつはおまえを利用しようとして穂波顕子に化けたはいいが、途中で俺に見つかってしまって、俺がとぼけたら、はっ、ごまかしきれるとでも思っていたのか、そのまんまでいたというわけだ。あるいは俺の一瞬の隙をついて襲ってきたりして、歯ごたえのある時間が過ごせるかもとか思って見逃していてやったんだがな……それも飽きた」
フォルテッシモはつまらなさそうな口調で言った。
「貴様……!」
亨の眼に、それまで浮かぶことのなかった怒りが浮かび始める。つとめて冷静でいようとしていたのに、少女の姿をした者に無惨な仕打ちをする相手に、本来の激情が浮かびそうになっていた。
フォルテッシモもそんな亨を睨み返す。
だが──このとき、この場所で真に状況を支配していたのはこの二人ではなかった。
(……来た!)
パールは、ほとんど身体が動かなくなってしまっていながら、はっきりと意識だけは明敏だった。
(ついに……来た! 私はこのときを待っていたのだ!)
彼女の口からはごぼごぼと吐瀉物が溢れ続けている。
どう見てもそれは、彼女の身体の機能不良から内臓の未消化物が排出されているようにしか見えない。だがそれは実際はそんなものではなかった。
ずっと、彼女が体内で貯え続けてきていたそれは、彼女のモデルたるマンティコアにもあった能力──体内で特殊な薬物を合成できる、その能力によって生成されていた劇薬なのだった。
その効果は単純にして明確──侵食し、腐敗させ、破壊する……!
既にこの〝薬品〟はたっぷりとカーペットに染み込み、そして上からは見えないが、その下の床にどんどん拡散していっているのだ。
(……そうとも、たとえどんなに惨めな姿をさらそうと──どんな屈辱を受けようとも、それがなんだ)
パールは、お互いを見ているため彼女の方に注意を向けていない亨とフォルテッシモを
腐敗した床を崩れさせるのに、力はいらない。ある間隔でわずかに叩けばいいだけだった。
(生き延びれば、それがすなわち〝勝利〟に他ならぬ……!)
そしてパールがその動作をしようとしたそのとき、彼女は自分を見つめている穂波弘と眼が合った。
この〝弟〟に彼女は、にやり、と笑ってみせた。
「……あばよ」
囁いた