10 ⑤

    *


「──い、今のは……?!」


 通路を歩いていた穂波顕子のところにまで響いてきたその音は、さっきまでのそれに数倍した。

 そして音だけではなかった。

 たちまち彼女の足元にまで、ひび割れが走ってきたからだ。そして床が傾いていく。


「わ、わわっ……!」


 手近の柱にしがみついた。それが彼女の生命を救った。一秒前まで立っていたところに天井もまた崩れてきたからだ。

 パールが破壊した床は、その下に建物の力学的な支点を持っていたのだ。それ故にそこが崩されたことで〝スフィア〟の各箇所が連鎖的に横に引っ張られ、そして崩れてしまっていく。建築物の構造材は上下方向の衝撃には強くとも横からの衝撃には弱い。何階分ものフロアが重層的に崩れ落ちていこうとしていた。


「ひ、ひいっ……!」


 崩れていく箇所と崩れない箇所があるようだ。乱雑に並べたドミノ倒しで、あちこちが倒れないでそのままになっているところにそれは似ていた。

 天井が抜けた穴から、何やら上からこぼれ落ちてきた。床材や鉄骨やらの切れ端に、ブティックでも途中にあったのか、手足の抜けたマネキンが何体か埃にまみれて積み重なる。上が全壊しているのなら落ちてくる量はこんなものではないだろう。やはり破壊は状に起こったらしい。

 そしてまだあちこちから連鎖的に崩れる音を耳にしながら、顕子は奇妙なことに気がついた。


「……あれ?」


 落ちてきたマネキンの一体が、ポーズが不自然なのだ。

 子供服用の小さいマネキンのようだが、まるで床に寝転がっているような姿勢なのだ。地面にちゃんと接していて、これではまるでそういう風に造られた彫刻か、あるいは……


「──きゃああっ!」


 悲鳴を上げてしまった。

 それは本物の子供だったのだ。

 全身にはほこりを被って灰色になっている。だがその下の髪の毛の色は銀色をしているように見えた。ぴくりとも動かない。


「だ、大丈夫?!」


 彼女はあわてて子供を助け起こした。

 その瞬間、その子供の身体がと跳ねた。

 ごきっごきっ、と身体中からきしむような音を上げて、一瞬動かなくなったと思うと、熟睡中にいきなり目覚まし時計が全開で鳴り出したかのような態度で飛び起きた。


「──!」


 そして、顕子を見開いた眼で見つめてきた。


「おまえ──」

「げ、元気みたいね……」


 と顕子が言いかけたところで銀髪の少女──身体が回復したパールは満面に笑みを浮かべて叫んだ。


「──穂波顕子! おまえがこんなところにいるとはな! ということは、つまり──」


 そして、顕子には信じられないことが起こった。

 パールの腕が倍近くの長さに伸びて、彼女の胸元からゲームの端末機をむしり取ったのだ。


「……ついに!」


 パールは腕を伸ばしたのと同じ速度で縮めながら、顕子を突き飛ばして立ち上がる。


「ついに手に入れたぞ! 資格ある者に〝世界と戦う力〟を与えるという〈ジ・エンブリオ〉をこの手に!」


 高らかにこうしようした。


「ざまあみろ! サイドワインダーにフォルテッシモめ! やはり最後に勝つのはこの私だ!」


 得意の絶頂で、身をり返らせて大笑いしている。


「……え?」


 顕子は状況が把握できず、ぜんとしている。

 そんな彼女を無視して、パールは笑いながらエンブリオを見つめた。


「私に能力はあるか? まあ、なければある奴を捜すまでだが──」


 と言っているその途中で、パールに、そのとき変化が生じた。

 意外そうな顔になり、顕子の方を見つめてきたのだ。


「……なに?」


 その顔は、完全に虚を突かれてぼうぜんとしている人間のそれだ。


「……なんだ、これは? なんなんだは?」


 訳のわからないことを呟いている。

 そしてよく見ると、その視線は顕子自体を見ているのではなかった。その背後を見ている。


「……おまえは──そんな馬鹿なことが……おまえの〝未来〟なのか? は──」


 よろよろと後ずさる。


は──〝さながら世界中のすべて敵となるような〟──だと……?」


 意味不明のことを言いながら、どんどん顔が青ざめていく。なにかを見ているのか? いや、エンブリオに触れたことで〝なにかが観えるようになって〟それでなにかを感知しているのか?


「じょ……冗談じゃない! に巻き込まれてたまるか!」


 悲鳴のような甲高い声を上げると、パールはせっかく手に入れたエンブリオを投げ捨ててしまった。そして壁に向かって走り出した。ぶつかる、と思った瞬間彼女の口から霧吹きのように薬品が噴出されて、もろくなった壁にそのまま体当たりして突き破り、そして逃げ去った。

 あっという間のことである。


「…………」


 顕子は呆然としている。何がなんだか、まるで理解不能だ。

 しかし、はっきりしていることがひとつあった。

 今の銀髪の少女は、彼女を見ていなかった。その向こう側を見ていた。そっちに向かって喋っていた。ということは……


「…………」


 おそるおそる後ろを振り向いた彼女の前に、いつの間にやって来ていたものか──はたしてそいつは静かに立っていた。


「やあ──穂波顕子さん。会うのは二度目だな」


 黒い帽子に白い顔、全身は黒いマントで覆われている。

 しかし、彼女はこんな変な奴のことなど知らない。


「覚えていないか。まあ、そうだろうな」


 黒帽子は「ふん」とかすかに鼻を鳴らすと、歩き出し、彼女の横をすり抜けて、そして落ちていたエンブリオを拾い上げた。


「これが〝たまご〟か」


 あっさりと懐にしまってしまう。

 顕子はそいつのことを知らない。そのはずだ。こんな奴、一度でも会っていれば絶対に忘れないだろうからだ。そのはずなのだが……。


「う、ううう……」


 そのはずなのに、彼女の本能とでも言うべき何かが恐怖によって彼女の全身をかなしばりにしていた。

 そして唐突に思い出す。誰だったか忘れたが、学校の友達が噂話で言っていた。

〝そいつはその人が最も美しいときに、それ以上醜くなる前に殺してくれる、そういう存在なんだって。黒い帽子に黒いマントを付けた、そいつの名前は……〟

 ああ──そうだ。

 どうしてその話を真剣に聞かなかったのだろう? なんだかうわそらで聞き流してしまったのだ。しかしそれでも、そのときに聞かされた不思議な名前の方は、確か──


「〝ブギーポップ〟……」


 するとそいつが「ん?」と振り向く。だが彼女の顔色を見て、


「思い出したわけではないようだな、穂波さん。もっともその方が〝彼女〟としても望むところだろうけどね」


 と、この〝ブギーポップ〟は言った。


「あ……あなたはなんなの?」

「ぼくが何なのかなどというのはどうでもいいことだ」


 ブギーポップはあっさりと言った。


「当面の問題は、君のことだな。君に取りいたままになっていた、その能力のことだ」

「え……?」


 顕子はと胸を突かれるような気がした。


「ところで君はここ数日、どこに行っていた?」


 いきなり訊いてきた。


「え、い、いやそれは」

「君のことは、ぼくだけじゃなくて霧間凪も捜していたんだぜ。街中に行き届く彼女の目から逃れて隠れられるような場所を、君はどうして知っていた?」

「そ、それは」

「まさか君は、自分は霧間凪よりも抜け目のない性格ですとでも言うんじゃなかろうな」

「わ、私はその」

「君はもう、そういう安全な隠れ場所が必要だったようなことを過去にしていたんだよ。ただしその〝やっていたこと〟に関する記憶はなくなっているので、どうしてそこを知っているのか、誰に教えてもらったのか、自分でもわからなかったんじゃないのか」


 ブギーポップは、さっ、と何かをはさんだ指先を立ててみせた。

 それは虫だった。一匹のコガネ虫だ。だがそれはぐったりと動かず、死んでいるか、死にかけているようだった。