11 ①
そこには何もなかった。
フロアの一画が、そこだけ削り取られたように空っぽだった。そしてまわりにあるテナントのデザイナーズブランドの店などが、崩れてきた瓦礫に埋もれたり、逃げ出していく途中の人々によって踏み荒らされたりしているのに対して、元から何もなかったそのスペースは例外的に何の変化もなかった。フロアを見渡せば、さっきのパールによる崩壊現象で穴がいくつもあいているが、その空間だけはそれすら免れている。
そこだけがこの騒動から切り離されているような、そんな場所にブギーポップはひとり立っていた。
「……しかし、結局君は死にたいのかな」
ひとりのくせに、ブギーポップはそんなことを言っている。
『……それは』
そしてひとりのくせに、その言葉に対して返事が返ってきた。
その手に握られているエンブリオの声だった。
「あんなことを言われて、それでもまだ死にたいと言うならば、君の意志というのも本物かも知れないがね」
ブギーポップは意地悪い口調で言う。
『…………』
喋る際に何の外見的変化もないエンブリオが、そのときだけは沈黙する気配が外にまで伝ってきたかのようだった。
「──それは私のせいだわ!」
その穂波顕子の叫びに、しかしブギーポップはまるで動じずに、
「君のせいだというのなら、君になんとかできるのかな」
と言った。
「このエンブリオのもたらすであろう
「そ、それは……」
顕子は口ごもりそうになるが、だが下を向いたりはしない。
「それはできないわ。でも……だったらエンブリオを殺せば何の問題も起きなくなるってほんとうに言えるのかしら?」
するとブギーポップは「ふむ」とかるく唸って、
「確かにそれは言えないね」
と簡単に納得した。
「エンブリオがあろうがなかろうが、問題というのはその都度起こるものでしょう? たとえば──そう、あなたは過去にこのエンブリオと接触して、そういう風になったのかしら?」
聞きようによっては非常に無礼な質問だった。だがそんなことにはブギーポップはまるで反応せずにさらりと言う。
「残念ながら違うようだね」
「あなたは自分がどうして存在しているのか、自分でもわかっているの?」
「……自動的な身なれば、なかなか答えづらい質問だね」
「いいえ、難しくもなんともないわ」
「ほう?」
「あなたや私がどうして存在しているのか……それはそのことが〝奇蹟〟だからよ」
「存在していること、それ自体がかい」
「そうよ、どんなものでもそれがこの世にあるというだけでそれは一つの奇蹟なんだわ。存在理由だとか生きるに値する価値なんてものはぜんぶ、後からのこじつけなのよ」
顕子は、まるで何かが乗り移っているかのようにすらすらと喋っている。
「だから?」
「だから──エンブリオについても、それは同様──エンブリオに生きている意味がないとか、生かしておいては世界のためにならないとか、そういうことはすべて、その〝存在していることの奇蹟〟よりも優先度としては下──そう〝よほどのこと〟がないかぎり」
その端正な口調は、これまでのおどおどしていた少女とは別人のようだ。だが、顕子に何が乗り移れるというのだろう?
水乃星透子のことは既に彼女の中にはない。エンブリオも既に彼女の胸元から離れている。特殊な能力ももう消えかけている。いま彼女に取り
「エンブリオには〝よほど〟はないと?」
「エンブリオが引き出すのは本人の中にある眠れる才能だけ。だから必ずしもエンブリオのせいなのかどうかわからない。あってもなくても一緒。そんなことなら、私には、これと逆のエンブリオが存在しているべき理由を知っている」
「何かな?」
「私がエンブリオには生きていて欲しいと思う。それが理由だわ」
その理由すら彼女には
「なるほど」
ブギーポップはうなずく。
「確かに〝君のせい〟というわけだね。よくわかったよ。つまりエンブリオをどうこうするには君を倒さなくてはならないということだが──」
ブギーポップが見つめてきたが、顕子はその視線をまっすぐに受けとめる。黒帽子は肩をすくめた。
「──そっちの方こそ、ぼくには理由がない。仕方ないから、この件は棚上げということにしよう」
「……どういう意味よ?」
「他の者に
ブギーポップは言うと、笑っているような、
そして身をひるがえした。あっと思ったときにはもう遅く、その黒い影は一瞬にして角を曲がって
……そして今、空っぽの空間にブギーポップとエンブリオは立っている。
『オレは……ずっと誰かがオレを殺してくれる、そのときだけを待ち続けてきていた』
その声は、それまでのような冷笑的な響きは感じられない。
『いつからなのか、それはよくわからない。あるいは、オレの前身──この〝エンブリオ〟の元となった〝本物〟のときからそんなことを考えていたのかも知れねえ』
「するとそれは君自身の意志ではなく、やはり借り物ということだったのかい?」
『……さあな。本物の方とて、別にオレが考えていたような形で殺されたいと思っていたのかどうかわかりゃしねえしな。ただ……』
ここでエンブリオは言葉を途切らせた。
「ただ、なんだい?」
『鏡とか、その辺にあるか。あったらそっちを見てくれねえか」
鏡はないが、ガラス張りのショーウインドウがあった。そこにブギーポップが目を向けると、その視覚と同調しているエンブリオがため息と共に言った。
『ああ……やっぱりだな。オレはなんとなく、あんたのことを知っているような気がするよ』
「会うのははじめてだがね」
『それでも知っている。あんたみたいな〝死神〟がオレの前に現れることを、どうしてかオレはずっと知っていたんだ。それで、どうせそういう者が現れるだろうから、と、それでオレはさっさと死んでしまいたかったのかも知れない』
エンブリオの声はどこか微笑んでいるかのようだった。
『これまでオレと関わってきた人たちには、そういう意味で悪いことをしたと思う……オレの勝手な認識を押しつけていたわけだからな。特に顕子には、すまないことをしたと思う』
「なかなか殊勝だね」
ブギーポップの口調はあくまでもとぼけている。
「しかしぼくもその穂波顕子さんとの話し合いの結果、君を殺せないことになったわけで、その辺はどうするんだい」
『──しかたねえさ。卵は、卵らしく殻の中でおとなしくしているよ。あるいはいつか、誰かがオレを殻の外に連れ出すかも知れない。それがオレを殺すことになるかどうかは、その時になってみないとわからねえ……卵を見ただけでは、それが受精卵なのか無精卵なのかわからないよーにな』
「待つことが、それが卵としてのプライド、というわけか」
ブギーポップは感心しているのか、馬鹿にしているのか、はっきりしない態度でうなずいた。
『……しかし、おまえはなんなんだ?』
あらためてエンブリオが問う。
『どうしてオレの声が聞こえるんだ? おまえもまた〝目覚めかけている〟のか? あるいは〝あらゆる声が聞こえる〟力でも持っているというのか』
「さあね、なにしろ自動的なんでね。ぼくにもその辺は定かじゃないのさ」
本気なのかふざけているのか、その口調から推し量ることはできなかった。
『もしも目覚めかけているのなら、オレを殺せばその能力は確立するかも知れないぜ』
エンブリオが挑発的に言う。
「なるほど、ぼくにも〝理由〟ができるわけか。それで君はそうして欲しいわけかな?」