11 ②
するとエンブリオは「ひひひ」と笑った。それはあの、皮肉っぽい口調で穂波顕子に話しかけていた、あの口調であった。あの調子に戻っていた。
『誰に殺されたくないって、今はおまえに殺されたくねーよ。それじゃあオレは、自分でもなんだかわかんねー予感に従うために生まれたことになっちまうからな。それだけはゴメンだよ』
「それはそれは、アマノジャクなことで」
『おめーに言われたくねーよ!』
そしてエンブリオはさらに笑った。
それに対してブギーポップは返答せずに、建物の、上のフロアに通じている階段の方を見つめながら呟いた。
「さて……そろそろ来る頃だな」
『しかし、やっこさん本当にのると思うのか?』
「彼が話にのるかどうか、それはぼくには関係がない。君の運命だからね」
『ひでえなあ。まーいいけどよ』
二人が訳のわからないことを言っていると、はたしてその方角から音が響いてきた。上から降りてきた足音だった。
その人影はブギーポップを視界の隅に入れたところで、びくっと身を引き締めるようにした。臨戦態勢に入った。
そのさほど大きくない身体を、やや汚れてしまっているが薄紫の綺麗な服で包んでいる。その少年のような顔にはやや疲れも見える。先刻の転落で、ひとり離れたところに落ちていたのだ。
「──なんだ貴様は……? なんでこんな所にいる?!」
彼はブギーポップに怒鳴った。
「もちろん君を待っていたのさ、フォルテッシモ君」
ブギーポップは静かに言った。
*
顕子ははっとして上を見上げた。
しかし遅かった。そのときには、すでに崩れかけていた天井が彼女めがけて落ちてくるところだった。
「……あ」
とっさのことなので、身体が反応してくれない。彼女はその場に立ちすくんだ。
あっけない死が彼女の目の前に迫ってきた。
だがそのときである。
「──危ねえっ!」
叫び声が聞こえたかと思うと、彼女の身体は横から飛び出してきたなにかにぶっとばされて、弾き飛ばされていた。
床の上に落ちる、そのすぐ横に天井瓦礫が地響きと共に落ちてきた。
「…………!」
彼女は息を呑んだ。
その瓦礫の下敷きになっているのは、彼女がここまで捜しにきたその本人──高代亨だったからだ。
「た、高代さん!」
彼女はあわてて亨を助け出そうとした。瓦礫の下から必死で引っぱり出す。
ぎくりとした。
亨の片目がなくなっていることにも驚いたが、それだけではなかった。
亨の身体の周りには、もはや彼女にはほとんど見えないが、それでもまとわりつく〝死〟がにじんでいたのだ。
顕子は、その亨の〝生命〟をなんとかつなぎとめようと、残された最後の力で生命が集中しているように見える左の手首に手を伸ばした。
だがその瞬間、いきなり亨が逆にその手をつかんだ。片手で、彼女の両手首を一緒に握ってしまったのだ。まるで
気絶していなかった。意識を保っていたのだ。
「と、亨さん……」
「──やめろ、穂波さん」
亨は静かに言った。
「俺には見える──あんたが何をしようとしているのかはわからないが、あんたがそれをすることで〝死線〟を越えかけていることだけは、俺にはわかる」
言われて、顕子は言葉に詰まる。そうかも知れない。ただでさえ能力は本来自分のものではないのだ。しかも今はそれすら消えかけている。ここで無理に使うことは確実に彼女の生命を削ることになるのだろう。
だが、だがそれでも……
「そ、それでもあなたの生命がこうしてこぼれ落ちそうなのを目の前にしたら、そんなこと言ってられないわ!」
その彼女の言葉に、亨の目が見開かれた。
「〝生命〟……? 穂波さん、あんたにはそれが見えるのか? 俺からこぼれそうなその〝生命〟が?」
「そうよ! だから手遅れにならないうちに──」
「…………」
だが亨は手を離さない。
何かを考えている。そしてそうしているうちにもどんどん顕子から能力は失われていき、見えるものがなくなっていく。
「ああ! 早くしないと! お願い亨さん!」
顕子は掴まれた腕を振りほどこうとした。だががっちりと握っている亨はきっぱりと言った。
「駄目だ。これは──これは天が俺に与えてくれた最後のチャンスだ」
意味不明のことを呟く。
そして、その間にも顕子には、その喪失は停まらず、霞のようにぼやけていた〝生命〟のヴィジョンが──とうとう消えた。
穂波顕子、彼女はこの最悪とも言えるタイミングで普通の女の子に戻ったのだ。
「あ、ああ……」
がくり、と彼女の身体から力が抜けると、亨は手を離した。
「〝死線〟が消えた。危険は去ったようだ。よかったな」
言われて、彼女は
「よくないわよ! あなたは、今のあなたは──いつ死んでもおかしくないのよ!」
「それはお互い様だ。なんであんたがこんな所にいるのか──いちいち訊きゃしないが、しかしもう出口まで行っていると時間がない」
亨は立ち上がると、顕子の腕を取って早足で進む。全身血だらけのくせに、びっくりするぐらいの元気さだ。
だが、確かにあのとき〝死〟がつきまとっているのが見えたのだ。彼は肉体的か精神的かはわからないが、とにかく生命危機の状態にあるのだ。
「と、亨さん。お願い、話を聞いて──!」
「駄目だ。時間がない」
亨は素っ気ない。
そして彼は〈非常用〉と書かれた壁面にまで顕子を引っぱってくると、そこに備え付けられていた緊急避難用シュートの安全弁を引っこ抜いた。
たちまち、建物の外に向かって一気に滑り落りられる〈筒〉が伸びていった。
「さて、ここからなら逃げられる。外には警官がいるだろうから、保護を求めろ」
「と、亨さんはどうするの?」
「俺は──」
亨の顔が曇った。
「俺は、本当ならやらなくてはならないことがあるんだが……それでもひとつだけ、この場所に残してきたことがある。それを終わらせねーと、どこにも行けないんだ」
亨はぼそぼそと、なぜか申し訳ないような口調で言った。
「俺とあいつ──おそらく、今を逃したら、俺たちは二人ともどこにも〝道〟がない」
「…………」
顕子にはちんぷんかんぷんだが、だが亨の真剣な様子だけは感じた。だがそれでも、なんとかしなくてはならない。
「で、でも……!」
「ああ、そうだ穂波さん──」
言いかけたところで亨が口を挟んだ。
「そういえば、あんたが〝エンブリオ〟とかいうのを持っているという話だったが──今でも手元にあるのか? それを殺せば、確か能力は完成するという話を、誰かに聞いたような気がする」
「そ、それは──もう、ありません……」
あれはブギーポップが持っていってしまったのだ。
「もう、ないんです……!」
顕子はうなだれた。しかし亨はそれを聞いても何ということもなく、
「なるほどな……それではやはり、この中途半端な状態もまた、俺の〝強さ〟のひとつというわけだ」
と呟いて、そしてきびすを返して歩き出す。
「いいな。すぐに逃げろよ。降りる勇気が出ないんなら、少し待ってろ。嫌でも降りざるを得なくなる」
「と、亨さん!」
顕子は追おうとした。そこに、背を向けたまま彼は言った。
「あんたに優しくしてもらっていた、あの高代亨はもういない。恥知らずに
「え……」
「ここにいるのは、ただの〝イナズマ〟だ」
それは、ぞっとするほど冷たい声だった。
「だからもう、あんたにお礼も言わない。だからあんたも悪いなんて思わないことだ。お互い様だよ、俺たちは──」
言い捨てると、絶句して凍りついている顕子を無視して、亨は腰の太刀に手をやりながら建物の奥の方へと向かっていく。
──かくしてイナズマとフォルテッシモの三度目の戦いが始まり、決着のときが訪れることとなる。