11 ⑦
この建物自体が元からそういう風にできていたのかも知れない。
高代亨も、明確な目的を持ってあの場に彼女を置き去りにしたらしい。助けてくれたのだろうが、彼女にはそんな気がしない。あのブギーポップも、思い出すことのできない誰かさんも、そして十年前に死んだキョウ兄ちゃんも、みんなみんな彼女のことなんか気にかけることなくただ自分たちの道を先に行ってしまったような気がする。
自分だけが、ここにこうして取り残されて、そして結局、なんでもないままだ。
「……バカみたい」
小さく呟いた。
「私、バカみたいだわ、ほんとうに……」
「姉ちゃん?」
弘が、茫然としている姉を心配そうに見つめてきていた。
確かに助けてもらったのだと実感できるのは、この弟だけだなと彼女はおぼろに思う。
でもお礼を言う気には、今はなれなかった。
今は自分のことだけで精一杯だった。
この事件が自分に与えたものがなにかないかと、そればかりを彼女は考えていた。まったくの徒労だったとは思いたくなかった。
だが悲しいかな、彼女にはそれがなんなのか見当もつかないのだった。
〝スフィア〟はなおも炎上している。
その中央の部分が、軸となるものが燃え尽きたのだろう、一度大きく膨れ上がったかと思うと、大きく中に陥没した。
まるで卵の一部が割れて、中から何かが出てくるところのようだと顕子は思ったが、もちろんそこからは火の鳥とかそういうものはまったく姿を見せず、ただ炎の柱が吹き上がったに過ぎなかった。
「──すごく綺麗、とか思ってあげればいいのかしら……」
顕子は茫然としたまま、どうでもいいような調子でその
炎はやがて、顕子が考えたように燃えるものほとんど燃え尽きてなくなってしまい、やがていともあっさりと
その場からは死体もしくはそれと疑われるようなものも発見されず、犠牲者はゼロと公式見解では発表された。
*
……ぼくが暗闇にひとり横たわっていると、誰かがぼくの側にやってきた。
背の高い人だった。とても大きいのだが、なんだか威圧感はなく、それどころか逆にすごく儚げに見えた。
この人をぼくは知っているのだなと、なんとなく思った。
「よお──正樹」
その人がぼくに話しかけてきた。
「亨か。無事だったんだな──よかった」
ぼくも返事をしていた。
「まあな。何の問題もなかったわけじゃないが、おまえやみんなにかけた迷惑を考えれば、大したことはなかったよ、ほんとうに」
亨はぼそぼそと言った。ひどく疲れている、そんな印象がした。
「なんだからしくないな。もっと元気のいい男だったろう、亨は」
ぼくはちょっとおどけた感じで言った。
「そんなことじゃ立派なサムライにはなれないぜ」
「ああ──そうだな、結局、俺には……」
亨は寂しげに微笑んだ。
「俺は、サムライには……なれなかったよ」
「どうして?」
「恥を行いすぎた。その中にはとりかえしのつかないものもいくつかあった……」
「なに言ってんだよ、それを言ったら師匠なんかいらない恥ばっかかいているぜ。たとえばぼくを鍛えてくれたことも、貴重な武道家としての人生を無駄にした、恥みたいな過去じゃないか。でもぼくはすごくそれを誇りに思ってる。あんたの〝恥〟というのも、きっと誰かにとっては大切なものなんだよ、きっと」
どうも亨を相手にするとこういう説教じみたというか、師匠みたいな口の利き方になるなあ、とぼくは笑った。
「……ありがとう」
亨も微笑んだ。しかしすぐに表情を曇らせ、
「だがおまえを見殺しにしかけたこの恥は、俺としてはどうしても許せない気がする。あまりに身勝手だ。目先の勝ち負けのために……」
と言った。
「それで、勝ったのかい、負けたのかい」
「……どっちでもなかったような気がするな」
「じゃあそいつを恥というのは、決着がついてからにしろよ。今のところは、あんたはまだ途中だ。やるならとことんやらなきゃな」
僕はそう言ったのだが、亨は微笑んでいるだけだ。
「的外れなこと言っちゃったかな?」
と訊くと、亨は首を振った。
「いや……その通りなんだろうな。どっちにせよこの道を引き返すことはできないようだ。とことんやり抜かなければならないらしい」
どうも話は深刻なものらしい。
ぼくは思い切って言ってみた。
「じゃあ、これでお別れということなのか?」
「……おそらく、な」
「それなら頼みがあるんだが……あんたも知ってるだろうけど、織機綺って女の子がいるんだが」
ぼくは静かに言った。
「彼女に、ぼくが〝色々ありがとう〟とお礼を言っていたと伝えてくれないか。どうやらぼくはこれで死ぬらしいからな。自分では言うことはできないだろう。それだけがほんとうに心残りなんでね」
「自分では言えなかったのか?」
「そりゃあ……まあね、恥ずかしいからね」
「恥を語るには、まだ途中なんじゃなかったのか?」
亨はいたずらっぽく言った。ぼくも苦笑した。
「お互い様ってわけだな。でも、ほんとに頼みたいんだよ」
「いや、やっぱりそれはできない」
亨はきっぱりと言った。
「え?」
「なぜなら、それはおまえの仕事だよ。おまえ以外の誰にもできないことだ、谷口正樹」
「……でも」
「おまえは死なない。死なせるわけにはいかないんだ。まさに僥倖だったよ。穂波さんがぎりぎりで俺にその方法を教えてくれたんだ」
そして亨はぼくの上に左手をかざした。その手首に右手を寄せていく。
「なんでも、このあたりに俺の〝生命〟が集まっていて、今にもこぼれそうになっているらしい……俺にはそれは見えないが、しかし〝ある〟のが確かであればその〝線〟を推測することはできる。──だから」
言うと、亨は右手をぴっ、と動かして目に見えない何かを空中で確かに切った。
「そしてフォルテッシモが言うには、その傷を塞ぐたったひとつの方法は、別の生命をその上にそそぎ込むことだと──」
ぼくは……ぼくには見えた。
亨の手首から、黒っぽい霧のような物がどんどんあふれ出てきて、そしてそれがぼくの胸に落ちては吸い込まれていくのを。
ぼくの身体は、内側からどんどん熱くなってきた。身体中にある痛みがいちいち自覚されて、そして内側から、さながら卵の殻を破ろうともがく
(これは……)
ぼくには見えているその染みみたいなものは、亨には見えないらしい。ぼくは本能的に叫んでいた。
「もういい! これで充分だ! それ以上やったら、あんたの方が──」
亨は手首を押さえた。
「そのようだな……なんとか間に合ったようだ」
「亨、あんたは何をやったかわかっているのか?! ぼくに自分の生命の半分もやっちまったんだぞ。ということは──あんたは普通の人間の倍以上〝何かあったら死ぬ〟危険性が高くなってしまったということなんだぞ!」
直感的に、ぼくはそれがわかっていた。だが亨の方はまるで動じずに、
「いや、運が良かった。俺の分がまだ残っているというのは、な」
と、うなずきながら言った。納得済みのことのようだった。
「し、しかし──」
「俺は、能力的に普通の人間よりも遙かに危険に対して対応力があるからな……いわばこれで
穏やかに言う。
「それに、もともとこれはおまえの生命も同じだからな。俺は借りていたものを返しただけだ。霧間さんたちにかけた迷惑を思えば、まだ足りないかも知れないが」
その淡々とした言い方に、ぼくは