それに加え、頭の中が売掛債権や支払期限のことでいっぱいで、一刻でも早く次の町に行かなければと必死になっていた頃には思いもしなかったことが、よく頭の中を駆け巡っている。
具体的に言えば、今まで知り合ってきた人達のことだ。
度々行商で訪れる町で親しくなった商人達や、買い付けに行った先で仲良くなった村人達。それに雪による足止めを食らった時に長逗留した宿で好きになった女中のことなどなど。
要するに人恋しいと思うことが多くなったのだ。
一年のほとんどを独り荷馬車の上で過ごす行商人にとって人恋しくなるのは職業病ともいえたが、それをロレンスが実感し始めたのは最近のことだ。それまでは俺に限ってそんなことあるものかとうそぶいていた。
しかし、一人で何日も馬と一緒に過ごしていると、馬が話しかけてきてくれればな、などと思ってしまうこともある。
だから、行商人同士の会話の中で時折耳にする荷馬が人間になったという話なども、聞いた当初こそ笑い飛ばしていたものの、最近ではつい本当なのかと思ってしまう。
馬屋の主人の中には若い行商人が荷馬を買う時、馬が人間になってもいいように雌の馬を買っておけ、なんて真顔で勧める者もいるくらいだ。
ロレンスもそんなことを言われた口だったが、もちろん無視して力強い雄の馬を購入した。
その馬は今でも元気に働いてくれているロレンスの目の前にいる馬なのだが、時折やってくる人恋しさの波に洗われるとついつい雌の馬を購入するべきだったかと思ってしまう。
もっとも、来る日も来る日も重い荷物を運ばせているのだ。例え人間になったとしてもよく聞く話のように馬の持ち主である行商人と恋に落ちたり、不思議な力で行商人に幸運を授けてくれたりするとはとても思えない。
せいぜいが休憩と給料を請求されるくらいだろうと思う。
そう考えると途端に馬は馬のままでよいと願いたくなるのだから勝手なものだ。ロレンスは独り苦笑いをして、自分自身を呆れるようにため息をついたのだった。
そんなことをしているとやがて川に突き当たり、今日はこの辺で野宿をすることにした。いくら満月で道が明るくても川に落ちないとは限らないからだ。そんなことになれば一大事どころではない。ロレンスは首をくくらなければならなくなる。それだけはごめんだった。
ロレンスが手綱を引き、止まる合図を出すと馬もようやく訪れた休憩の気配に気がついたようだ。二、三度足踏みをしてから、ため息のようにいなないた。
ロレンスは食べ残した野菜を馬に食わせながら、荷台から桶を取って川で水を汲むと馬の前に置いた。ばっしゃばっしゃとうまそうに飲むのでロレンスも村でもらった水を飲む。
本当は酒がよかったのだが、話し相手がいないところで酒を飲んでも余計に寂しさが募るだけだ。つい深酒をしないとも限らないので、ロレンスはさっさと寝ようと決断した。
ここに来るまでの間、野菜をかじっていたら中途半端に腹が膨れてしまったので干し肉を一切れだけ口にくわえて荷台に乗り込んだ。いつもは荷台の覆いを兼ねている麻布に包まって寝るのだが、今日はテンの毛皮がせっかくあるのだからそれの中で寝ない手はない。さすがのロレンスでも多少気になる獣臭だが、寒いよりかはましだ。
ただ、毛皮の布団に潜り込む前に麦の苗をつぶしてしまっては困るので、それらを移動させようと思って覆いを剝いだ。
その時叫び出さなかったのは、あまりにもその光景が信じられなかったからかもしれない。
「……」
なんと、先客がいたのだ。
「おい」
と、声が出たかどうかはわからない。単純に驚いていたのもあるし、ついに寂しさのあまり幻覚を見たのかと思ったのだ。
しかし、頭を振って目をこすっても、その先客の姿は一向に消えはしない。
美しい顔立ちの娘は、ちょっと起こすのが忍びないほどによく眠っていた。
「おい、ちょっとお前」
それでもロレンスは気を取り直してそう言った。何のつもりで人の荷馬車で寝ているのか、と問いたださなければならない。下手をすれば村からの家出娘かもしれないからだ。面倒に巻き込まれるのはごめんだった。
「……んう?」
が、ロレンスの声に目を閉じたまま反応した娘の声はそんな間の抜けた無防備なもので、女と接するのはせいぜい町の娼館くらいしかない行商人にはくらっとくるような甘い声だ。
しかも、月明かりの下で毛皮に包まって寝ている娘はまだまだ年若そうなものの、恐ろしいほどの色気がある。
思わず生唾を飲み込んでしまったが、逆にそれでロレンスはすぐに冷静になった。
これだけ美しければ、商売女なら下手に触ればいくら取られるかわかったものではなかったからだ。金勘定は教会のお祈りよりも自らを冷静にさせる特効薬だ。ロレンスはすぐにいつもの調子を取り戻して声を上げていた。
「おい、起きろ。お前、人の荷馬車で何やってんだ」
しかし娘は一向に起きようとしない。
業を煮やしたロレンスは一向に起きようとしない娘の頭を支えている毛皮を摑み、一思いに引き抜いた。支えを失った娘の頭はこてんと穴の中に落ち、それでようやく不機嫌そうな声が聞こえてきた。
ロレンスは再度声を上げようとして、そのまま固まった。
娘の頭に、犬のような耳がついていたのだ。
「ん……ふあ……」
それでもようやく娘が目を覚ましたようなので、ロレンスは気を取り直して腹に力をこめて口を開いた。
「おい、お前、何のつもりだ。人の荷馬車に勝手に乗り込みやがって」
ロレンスも独り野を行く行商人で、ごろつきや盗賊の類に取り囲まれたことは一度や二度ではない。度胸も迫力も人並み以上にあると自負していた。頭に人ならざる獣の耳を付けているからといって、一人の娘を前に怖気づくようなロレンスではない。
しかし、ロレンスの言葉に娘は返事を返さなかったというのに、再度のロレンスの尋問の声は上がらなかった。
なぜなら、ゆっくりと体を起こした裸の娘が、声を失うほどに美しかったからだ。
荷台の上で月明かりに照らされた毛は絹のように滑らかで、上質のマントのように背中まで垂れている。首から鎖骨、それに肩にかけては稀代の芸術家が彫り上げた聖母の像のように美しいラインを描き、しなやかな腕は氷の彫像のようだった。
そして、それら無機質に感じるほどに美しい体の中ほどにある二つの控えめな乳房が妙にイキモノ臭さを匂わせていて、ぞっとする魅力の中に温かさを宿していた。
ただ、そんな生唾ものの光景もすぐに眉をひそめる異様なそれへと変わる。
娘が、ゆっくりと口を開いて空を向くと目を閉じて吠えたのだ。
「アオオオオオオオオオオオォ……ン」
その時のロレンスの恐怖といったらない。ざざざざざ、と突風が体中を駆け抜けていくような恐怖。
遠吠えは狼や犬が仲間を集め、人間を追い詰める序曲だ。
ヤレイがしたような遠吠えではない、本物の遠吠え。ロレンスは口から干し肉を落とし馬も驚いて飛び上がった。
そしてハッと気がついた。
月明かりに照らされた娘の姿。娘の頭についている耳。獣の、それ。
「……ふう。良い月じゃ。酒などないかや」
が、遠吠えの余韻をゆっくりと閉じた口の中にしまいこむと顎を引いて薄く笑いながらそう言った娘の声で、ロレンスは我に返った。
目の前にいるのは狼でも犬でもない。そんなような耳をつけているただの美しい娘だ。
「そんなものはない。第一お前は何者だ。なんで俺の荷馬車で寝てやがる。町に売られるのが嫌で逃げてきたのか」