第一幕 ④

 ロレンスは精一杯どすを利かせたつもりだったが、娘は一向に動じない。


「なんじゃ、酒はないのかや。なら、食べ物は……と、おや、もったいない」


 娘は緊張感のない声でそう言って、ひくひくと小鼻を動かすとさっきまでロレンスのくわえていた干し肉を見つけたらしく、荷台に落ちていたそれをひょいと拾って口にくわえた。

 娘が干し肉をかじる時、ロレンスは娘のくちびるの内側に二本の鋭いきばがあるのを見逃さなかった。


「お前、悪魔きのたぐいか」


 ロレンスはこしにくくりつけてある短剣に手をかけながらそう言った。

 へいは価値の変動が大きいので行商人はもうけを物に変えて持ち歩く。銀の短剣はそんなもののうちの一つで、銀はあらゆる化け物に打ち勝つ神の金属だ。

 しかし、ロレンスが短剣に手をかけてそう言うと、娘はきょとんとした後、突然笑い出したのだった。


「あはははは、わっちが悪魔か」


 干し肉を落とすくらいに大口を開けて笑う娘の様子はちょっとたじろぐくらいに可愛かわいらしい。二本の鋭い牙もそんな様子だと逆に魅力的に見える。

 ただ、そんなだからこそなんとなく笑われて腹が立つ。


「な、何がおかしい」

「そりゃあおかしいさね。わっちゃあそんなこと言われるの初めてじゃ」


 ぜんクスクスと笑いながら、むすめは落とした干し肉を拾うと再びかじった。やはりきばが生えている。耳のことも含めて、少なくともまともな人間ではないようだ。


「お前、何者だ」

「わっち?」

「お前以外に誰がいる」

「そこの馬」

「……」


 ロレンスが短剣を引き抜くと、さすがに娘の顔から笑みが消えた。赤味がかったはく色の瞳が、すっと細められる。


「お前は何者だ?」

「わっちに剣を向けるとは礼儀知らずじゃな」

「なんだと?」

「ん、あ、そうか。脱出成功しとるんじゃった。ごめんよ。忘れとったわ」


 そう言って娘がにこりと笑った。まったくじやのない、可愛かわいらしい笑顔だ。


 それでろうらくされたわけでもないが、なんとなく短剣を向けるのは男としてなような気がして、ロレンスはそれをしまったのだった。


「わっちの名前はホロ。しばらくぶりにこの形を取ったがな、うん、なかなかくいっとるの」


 自分の体を見回しながら言ったむすめの言葉の後半は何のことかよくわからなかったが、前半には引っかかるものがあった。


「ホロ?」

「ん、ホロ。良い名前じゃろ」


 ロレンスは色々な地域を旅して回っているが、そんな名前は一箇所でしか聞いたことがない。

 つまり、先ほどのパスロエの村の豊作の神の名だ。


ぐうだな。おれもホロという名で呼ばれる者を一人知っている」


 神の名をかたるとはだいたんな娘だ、とは思ったが、これでこの娘が村の者だとわかった。もしかしたら、このきばと耳のせいで家の中にかくして育てられていたたぐいの者かもしれない。脱出成功、などと言っていたのもそれで納得できるような気がした。

 ロレンスも時折こういったじんがいのような子供が生まれる話を耳にする。悪魔きと呼ばれ、生まれる時に悪魔やようせいが入り込んでしまった子供のことで、教会に見つかれば場合によっては悪魔崇拝の罪で家族もろともようしやなく火刑に処されるため、そのほとんどが山に捨てられるか、一生家の中で隠して育てられる。

 ただ、実際に悪魔憑きの者を見るのはロレンスも初めてだ。てっきりしゆうあくな化け物を想像していたのだが、少なくとも見た目に関しては女神めがみといってもおかしくはなかった。


「ほう、わっちゃあわっち以外にホロと呼ばれる者を知らなんだ。そいつはどこの者かよ?」


 もぐもぐと干し肉をかじる娘、ホロはどうにも人をたばかっているようには見えない。しかし、長い間家に閉じ込められて育てられていれば自分を神と思い込むのもありそうなことだとは思った。


「この近辺の豊作の神の名だ。お前は神なのか?」


 ロレンスがそう言うと、月明かりの下でホロは一瞬困ったような顔をしてから、そこに笑顔を追加した。


「わっちは神と呼ばれて長いことこの土地にしばられていたがよ、神なんてほど偉いもんじゃありんせん。わっちゃあホロ以外の何者でもない」


 生まれてからずっと家の中、という意味だろうとロレンスは察しをつける。そう思うとその娘が少しびんではあった。


「長いこと、てのは生まれてからずっとか」

「いんや」


 だから、その答えは意外だった。


「わっちの生まれはもっとずっと北の大地よ」

「北?」

「うん。夏は短く、冬が長い、銀色の世界よ」


 目を細めてふいと遠くを見たホロは、とてもうそをついているようには見えない。そんなぐさも、遠くの北の大地を思い出している演技にしては、あまりにも自然だった。


「ぬしは行ったことあるかいな」


 そして、ロレンスは逆にそんなことを聞かれた。少しきよを突かれたものの、これでホロが噓をついていたり耳にした話をもとにしやべっているのだとすればすぐにわかる。

 ロレンスの行商経験は実に極北と呼ばれる地域にまで及んでいるからだ。


「アロヒトストック、てところが最北だな。年中吹雪ふぶきの恐ろしいところだ」


 ロレンスがそう言うと、ホロは少し首をひねってから返事をした。


「ふうん。聞いたことありんせん」


 知ったかぶると思ったので、これは意外な対応だった。


「どこならあるんだ?」

「ヨイツ、てところ。どした?」


 ロレンスは「いや」と言って顔に出てしまった動揺を無理やりに消した。ヨイツという名前は聞いたことがある。ただし、北の大地の宿で聞いた昔話の中で、だ。


「おまえは、そこの生まれなのか?」

「そうじゃ。今ヨイツはどうなっとるかや。皆は、元気なのかや」


 そう言ってホロは少しかたと視線を落としたが、そんな様子があまりにもはかなげで、とても演技のようには見えない。

 しかし、ロレンスはその話を信じることなどできない。

 なぜなら、昔話の中でその名の町は六百年も前にクマの化け物によって滅ぼされたからだ。


ほかには覚えている地名はないのか?」

「ん……なんせ何百年も前の話じゃ……、えーとな、あ、ニョッヒラ、とかいう町があったわいな。温かい湯の出る不思議な町じゃ。よく湯にかりに行った」


 ニョッヒラ、というのは今でもある北の大地の温泉街で、外国の王侯貴族も時折やってくる。

 ただ、この近辺でニョッヒラのことを知っている者が何人いるだろうか。

 そんなロレンスの思考をよそに、ホロは今まさに湯に浸かっているようなほんわかとした口調でそう言って、突然小さくくしゅんとくしゃみをした。

 それでようやくロレンスも思い出す。ホロははだかだった。


「うう、人の姿はきらいではないが、いかんせん寒い。毛が少なすぎる」


 笑いながら言ってから、ホロはテンの毛皮の山の中にもぐりこんだ。

 ロレンスはホロの様子にかくながら少し笑ってしまったが、少し気になることがあったので毛皮の中にもぐっていくホロに言葉を向けた。


「お前、さっきも形がどうとか言ってたな。どういう意味だ?」


 そして、ロレンスの質問にホロはぴょこんと毛皮の山の中から顔だけを出した。


「まんまの意味じゃよ。人の形は久しぶりに取る。可愛かわいいじゃろ」


 にこりと笑いながらそう言うので、つい胸中で同意してしまったのだが、ロレンスはなんとかそれを顔に出さず口を開く。どうにもこのむすめはロレンスの調子を狂わせる。


「余計なものがついてるだけでお前は人だろう。それとも何か。馬が人になる話みたいに、犬が人にでもなったのか」


 少しちようはつするようにそう言うと、ホロはその挑発に乗ったとばかりにおもむろに立ち上がった。それからくるりと背中を見せてかた越しに振り向いて、実に堂々と言い放ったのだった。

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