第一幕 ④
ロレンスは精一杯どすを利かせたつもりだったが、娘は一向に動じない。
「なんじゃ、酒はないのかや。なら、食べ物は……と、おや、もったいない」
娘は緊張感のない声でそう言って、ひくひくと小鼻を動かすとさっきまでロレンスのくわえていた干し肉を見つけたらしく、荷台に落ちていたそれをひょいと拾って口にくわえた。
娘が干し肉をかじる時、ロレンスは娘の
「お前、悪魔
ロレンスは
しかし、ロレンスが短剣に手をかけてそう言うと、娘はきょとんとした後、突然笑い出したのだった。
「あはははは、わっちが悪魔か」
干し肉を落とすくらいに大口を開けて笑う娘の様子はちょっとたじろぐくらいに
ただ、そんなだからこそなんとなく笑われて腹が立つ。
「な、何がおかしい」
「そりゃあおかしいさね。わっちゃあそんなこと言われるの初めてじゃ」
「お前、何者だ」
「わっち?」
「お前以外に誰がいる」
「そこの馬」
「……」
ロレンスが短剣を引き抜くと、さすがに娘の顔から笑みが消えた。赤味がかった
「お前は何者だ?」
「わっちに剣を向けるとは礼儀知らずじゃな」
「なんだと?」
「ん、あ、そうか。脱出成功しとるんじゃった。ごめんよ。忘れとったわ」
そう言って娘がにこりと笑った。まったく
それで
「わっちの名前はホロ。しばらくぶりにこの形を取ったがな、うん、なかなか
自分の体を見回しながら言った
「ホロ?」
「ん、ホロ。良い名前じゃろ」
ロレンスは色々な地域を旅して回っているが、そんな名前は一箇所でしか聞いたことがない。
つまり、先ほどのパスロエの村の豊作の神の名だ。
「
神の名を
ロレンスも時折こういった
ただ、実際に悪魔憑きの者を見るのはロレンスも初めてだ。てっきり
「ほう、わっちゃあわっち以外にホロと呼ばれる者を知らなんだ。そいつはどこの者かよ?」
もぐもぐと干し肉をかじる娘、ホロはどうにも人をたばかっているようには見えない。しかし、長い間家に閉じ込められて育てられていれば自分を神と思い込むのもありそうなことだとは思った。
「この近辺の豊作の神の名だ。お前は神なのか?」
ロレンスがそう言うと、月明かりの下でホロは一瞬困ったような顔をしてから、そこに笑顔を追加した。
「わっちは神と呼ばれて長いことこの土地に
生まれてからずっと家の中、という意味だろうとロレンスは察しをつける。そう思うとその娘が少し
「長いこと、てのは生まれてからずっとか」
「いんや」
だから、その答えは意外だった。
「わっちの生まれはもっとずっと北の大地よ」
「北?」
「うん。夏は短く、冬が長い、銀色の世界よ」
目を細めてふいと遠くを見たホロは、とても
「ぬしは行ったことあるかいな」
そして、ロレンスは逆にそんなことを聞かれた。少し
ロレンスの行商経験は実に極北と呼ばれる地域にまで及んでいるからだ。
「アロヒトストック、てところが最北だな。年中
ロレンスがそう言うと、ホロは少し首をひねってから返事をした。
「ふうん。聞いたことありんせん」
知ったかぶると思ったので、これは意外な対応だった。
「どこならあるんだ?」
「ヨイツ、てところ。どした?」
ロレンスは「いや」と言って顔に出てしまった動揺を無理やりに消した。ヨイツという名前は聞いたことがある。ただし、北の大地の宿で聞いた昔話の中で、だ。
「おまえは、そこの生まれなのか?」
「そうじゃ。今ヨイツはどうなっとるかや。皆は、元気なのかや」
そう言ってホロは少し
しかし、ロレンスはその話を信じることなどできない。
なぜなら、昔話の中でその名の町は六百年も前に
「
「ん……なんせ何百年も前の話じゃ……、えーとな、あ、ニョッヒラ、とかいう町があったわいな。温かい湯の出る不思議な町じゃ。よく湯に
ニョッヒラ、というのは今でもある北の大地の温泉街で、外国の王侯貴族も時折やってくる。
ただ、この近辺でニョッヒラのことを知っている者が何人いるだろうか。
そんなロレンスの思考をよそに、ホロは今まさに湯に浸かっているようなほんわかとした口調でそう言って、突然小さくくしゅんとくしゃみをした。
それでようやくロレンスも思い出す。ホロは
「うう、人の姿は
笑いながら言ってから、ホロはテンの毛皮の山の中にもぐりこんだ。
ロレンスはホロの様子に
「お前、さっきも形がどうとか言ってたな。どういう意味だ?」
そして、ロレンスの質問にホロはぴょこんと毛皮の山の中から顔だけを出した。
「まんまの意味じゃよ。人の形は久しぶりに取る。
にこりと笑いながらそう言うので、つい胸中で同意してしまったのだが、ロレンスはなんとかそれを顔に出さず口を開く。どうにもこの
「余計なものがついてるだけでお前は人だろう。それとも何か。馬が人になる話みたいに、犬が人にでもなったのか」
少し