第一幕 ⑥

 もみがらのついたままの麦などとても食えたものではない。口に広がるいやな苦味を想像してロレンスはまゆにしわを寄せたが、そんなものは次の瞬間に吹き飛んだ。


「う、うう……!」


 突然ホロがうなり声をあげ、左腕を抱きかかえるように押さえると毛皮の上に突っ伏したのだ。

 とても演技には見えないそれにロレンスがあわてて声をかけようとすると、その耳に異様な音が飛び込んできた。

 ざわざわざわざわという、たくさんのネズミが森の中を走っていくような音だ。それが数瞬続いたかと思うと、次いで柔らかい土の中に足を突っ込んだ時のようなズボッというにぶい音がした。

 ロレンスはただ驚くだけで何もできなかった。

 そして、その直後にはホロのあの細い腕が、体につりいなほどに巨大なけものの前足になっていたのだった。


「む……ふう。やはりかつこうじゃの」


 あまりにそれが大きいため、おそらく自分の力では支えられないのだろう。ホロは毛皮の上にかたから生えた獣の前足を置いて体を横たえた。


「どうじゃ、信じてくれたかや」


 それから、ロレンスのほうを見上げてそう言ったのだった。


「う……む……」


 しかし、ロレンスは返事もできず、何度か目をこすったり頭を振ったりしながら何度もそれを見直した。

 こげ茶色の毛足の長い毛におおわれた、実に見事な前足だ。その大きさから察するに、その足を持つ体はおそらく馬にひつてきするくらいの巨大さだろう。そのせんたんについているつめなどは、女が麦を刈る時に使うかまほどもあった。

 そんなものがむすめの細いかたから生えているのだ。幻覚と思わないほうがおかしい。

 目の前の光景がどうしても信じられず、ロレンスはしまいには水の詰まった皮袋を手に取って、中の水で顔を洗ったのだった。


「疑り深いのお。幻覚だと思うのならさわってみればよかろう」


 ホロは笑いながら、少し挑発するように大きなてのひらをくいくいと動かした。

 ロレンスはさすがに少しムカッときたもののやはりその異様な光景にしりみをしてしまう。なにより、その大きさもさることながら、その足からは何か近寄りがたい雰囲気がにじみ出ていたのだ。

 それでも再度ホロの前足がくいくいと動いたので、ロレンスは意を決してぎよしやだいから体を乗り出した。

 オオカミの足がなんだ。おれは『リユウあし』という名の商品を扱ったことがある。そんな言葉を自分に言い聞かせながら、ロレンスがホロの足に手をれようとした瞬間だった。


「あ」


 という何かに気がついたようなホロの声にロレンスはあわてて手を引っ込めた。


「う、うわ。な、なんだ」

「ん、いや、なに……というか、ぬしも驚き過ぎじゃろ」


 ことさらあきれるように言われ、ロレンスは恥ずかしさもあいまって実に腹が立ったのだが、ここで怒ってはますます男としてだめな気がする。ロレンスはなんとか自制するともうその手には乗らないとばかりに手を伸ばしながら、再度ホロに尋ね返したのだった。


「で、なんだ。どうした」

「うん」


 すると、ホロは突然しおらしい声を出して上目づかいにロレンスのほうを見た。


「優しくしてくりゃれ?」


 少しあまえるようなそんな言葉に、ロレンスは体ごと手が止まるのを防げなかった。

 そして、ロレンスがホロのほうを見ると、ホロはにやにやと笑っていたのだった。


「ぬし、可愛かわいすぎじゃな」


 もうロレンスはホロの言葉に一切耳を貸さず、ホロの前足に乱暴に手を伸ばしていた。


「どうじゃ、信じてくれるかや」


 ロレンスはホロの言葉に返事をせず、その手の中の感触を確かめていた。

 半分近くはからかわれたことに対して怒っていたのだが、返事を返さなかったのには別の理由もある。

 まさしく、そのざわりによってだ。

 ホロのかたから生えているけものの足は、大木のような重量感を与える太い骨が戦士のうでのような筋肉でおおわれ、その上に実に見事なこげ茶色の長い毛が生えそろっている。肩の付け根から手首のほうにいくと、これもまた大きなてのひらだ。肉球などその一つ一つが切り分けられていないパンのかたまりのように大きい。れいもも色をしている柔らかいそれを越え、さらにその先にいくとそこには一転して硬質なものがある。かまのようなつめだ。

 足もそうだったが、その爪の感触はとても幻覚とは思えない。冷たくも温かくもない獣の爪特有の手触りに加え、れてはならないようなものに触れている感覚がロレンスの背筋をあわ立たせる。

 ロレンスは固唾かたずを飲んで、思わずつぶやいていた。


「お前は、本当に神なのか」

「神なんかじゃありんせん。足の大きさからわかるじゃろうけど、少し体が大きくて、そうじゃな、周りより賢いオオカミじゃ。わっちはホロ。けんろうホロじゃ」


 自分のことをぬけぬけと賢いと言うそのむすめは、得意げな顔をしてロレンスのほうを見る。

 そんな様子はいたずら好きの少女以外の何物でもないが、その肩から生える獣の足からにじみ出る雰囲気は、とてもまともな獣のものとは思えない。

 ただ大きいだけ、というような印象では明らかにないのだ。


「で、どうかや」


 再度の質問に、ロレンスは考えがまとまらずあいまいにうなずいていた。


「しかし……本物のホロは、今頃ヤレイの中にいるはずだろう。最後の麦を刈り取った者の中にいると……」

「ふふふ。わっちは賢狼ホロじゃ。わっちがいかなる制限をこの身に加えられておるかは十分にあくしておる。わっちは正確に言えば麦の中におるんじゃ。麦がないと生きていけぬ。そして、確かにわっちはこの収穫の時期、最後に刈り取られる麦の中にいるし、いつもはそこから出られぬ。人の目があるといかん。しかし、例外がある」


 ホロのよく回る口に感心しながらロレンスは話を聞く。


「もし、最後に刈り取られる麦よりも多くの麦が近くにあれば、わっちは人の目に触れず麦の中を移動できる。だから村の連中は言うじゃろ。麦を欲張って刈ると、豊作の神を追い詰められずに逃げられてしまうと」


 ロレンスはハッとして視線を荷台の一点に向けた。

 そこにあるのは麦の束。ロレンスが山奥の村からゆずり受けてもらった麦だ。


「まあ、だからなんじゃ。ぬしはわっちの恩人といえば恩人じゃな。ぬしがおらんとわっちは外に出られんかった」


 ロレンスはその言葉をにわかには信じられなかったが、再び麦を数粒飲んでうでを元に戻すさまがホロの言葉に異様な説得力を持たす。

 ただ、ホロが恩人という言葉を少しいやそうに言うのでロレンスはとっさに少し仕返しを思いついた。


「ならその麦を持って村に帰るかな。豊作の神がいなくなるとなれば困るだろうからな。ヤレイ達や、パスロエの村の者達とは長い付き合いだ。あいつらが困る姿は見たくない」


 そんな言葉は思いつきのものだったが、よくよく考えるとそのとおりだ。もしもホロが本物のホロならば、あの村からいなくなると村がきようさくに見舞われるのではないのか。

 しかし、そんな物思いも数瞬で消えた。

 というのも、そのホロが裏切られたような顔をしてロレンスのほうを見ていたからだ。


「そんな……ぬし、うそじゃろ?」


 今までとは違う弱々しいその表情に、めんえきのないロレンスはたちまち動揺してしまう。


「さあて、ね」


 動揺した内心を落ち着けるために時間が欲しく、ロレンスは時間をかせぐためにとっさにそうはぐらかした。

 が、頭は同時に別のことも考えており、内心は落ち着くどころかますますざわついていく。

 ロレンスは迷っていたのだ。もしもホロが本物のホロであり、それが豊作の神であるのなら、ロレンスが取るべき行動は麦を持ってパスロエの村に帰ることだ。パスロエの村の者達とは長い付き合いなのだ。彼らが困る姿は見たくない。

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