第一幕 ⑦

 しかし、ロレンスが視線をホロに戻せば、ホロはさっきまでのふてぶてしい様子ではなく、どう物語に出てくるとらわれのひめはかくやといった感じで不安げにうつむいているのだ。

 ロレンスは苦虫をつぶしたような顔をして、自問した。

 こんな様子のむすめを、嫌がっているのに村に返してよいものか。

 しかし、もし本物のホロなら。

 その二つがせめぎあい、ロレンスはあぶらあせを流しながら考える。

 そして、ふと自分のほうを見る視線に気がついた。ほかに誰がいるわけでもない。視線のほうを見れば、ホロがすがるような目でロレンスのことを見上げていた。


「助けて……くりゃれ?」


 小首をかしげるようにホロに言われ、ロレンスは耐え切れずに顔をそむける。日々見つめているのが馬のしりなのだ。それが突然ホロのような娘にそんな顔をされたらとてもこらえられるものではない。

 ロレンスは苦々しく一つの決断を下した。

 だからロレンスはホロのほうをゆっくりと向くと、一つの質問を口にしたのだった。


「一つ、聞きたいんだが」

「……うん」

「お前がいなくなるとパスロエの村は麦が育たなくなるんじゃないのか」


 そう尋ねたところでホロが自分に不利になるようなことを言うとも思えなかったが、ロレンスも一人前の行商人だ。うそをつくのが当たり前の商談を数多く経験しているのだ。ホロが明らかな噓をつけばすぐにわかる自信があった。

 だから、ロレンスはいつぺんの噓も見逃すまいと構えて返事を待っていたのだが、それはなかなかこなかった。

 視線を向ければ、ホロはこれまでロレンスに見せてきたものすべてと違う、怒ったような、それでいて今にも泣き出しそうな顔で、荷台の隅を見つめていたのだ。


「ど、どうした」


 と、ロレンスがつい聞いてしまったくらいだった。


「あの村は、わっちなんかおらんでもこの先豊作が続くじゃろうよ」


 げんそうにそう切り出し、その声は驚くほど怒っていた。


「……そうなのか?」


 そのしんから怒っていることがひしひしと伝わる迫力にされながらロレンスが尋ねると、ホロはその細いかたをいからせながらうなずいた。見れば、その両手は手元の毛皮を力一杯に握り締めて白くなっていた。


「わっちは長いことあの村にいた。尻尾しつぽの毛の数ほどいた。途中からはいやいやじゃったが、それでもあの村の麦のために手を抜いたことなどありんせん。わっちはな、大昔にあの村の青年と約束したんじゃ。あの村の麦をよく実らせてくりゃれと。じゃからわっちはその約束を守ってきた」


 ロレンスのほうすら見ずに語気荒く語るのは、よほど腹にえかねていることだからだろう。

 さっきまで実によく回る口でしやべっていたホロは、何度か後を続けようとして言葉に詰まっていた。


「わっちは……わっちは麦に宿るオオカミじゃ。麦のこと、大地から生える植物のことなら誰にも負けぬ。じゃからわっちは約束どおりにあの村の麦畑を実に立派なものにした。ただの、そのためには時折麦の実りを悪くせんとならぬ時があった。土地に無理をさせるにはだいしようが必要じゃ。しかしの、あの村の連中は時折麦の実りを悪くするとそれをわっちの気まぐれだなどと言いよる。それがひどくなったのはここ数年じゃ。ここ数年で、わっちは村を出ようと思った。もう、まんならぬ。あの時の約束も、わっちは十分果たしんす」


 ロレンスはホロが最も怒っていることの見当がついた。数年前、パスロエの村一体を治める領主が今のエーレンドットはくしやくに変わり、それ以来南の先進国の新しい農法を次々に導入しては生産高を高めていると聞く。

 ホロはそれで自分の存在が必要とされなくなったと思っているのかもしれない。

 それに、最近は教会の言う神すらいないのではないかという流言が横行しているのだ。片田舎いなかの豊作の神がその巻き添えにならないとはとても言えなかった。


「それに、あの村はこの先も豊作を続けるじゃろうよ。ただし、何年かに一度ひどいきんに見舞われるはずじゃ。やつらのしとることはそういうことじゃ。そして、やつらはやつら自身の力で乗り越えていくのじゃろうよ。そんなところにわっちなど必要ありんせんし、やつらも必要としとらんじゃろうよ!」


 そこまでホロは一息に言い切ると、大きなため息をついてからをするように毛皮の上に突っ伏して、体を丸めて乱暴に毛皮を引き寄せて顔をうずめてしまった。

 顔が見えないので定かではないが、泣いていてもおかしくはないそんな雰囲気にロレンスは言葉もかけあぐねて頭をいた。

 どうしたものかと胸中でつぶやいて、ロレンスはホロの細いかたオオカミの耳を見る。

 本物の神というのはこういうものなのかもしれない、と思わせるほどにふてぶてしかったり、頭が回ったりするかと思うと、子供のようにかんしゃくを起こしたりはかなげな様子を見せたりする。

 ロレンスは扱いにきゆうした。しかし、かといってこのまま沈黙していることもできず、少し違った方向の話を切り出してみた。


「まあ、その辺のしんはさておいて……」

「わっちをうそつきだと?」


 と、ロレンスの前置きにいきなり顔を上げてみ付いたホロの様子にロレンスはたじろいだものの、さすがにホロ自身感情的になりすぎていると自覚したようだ。少しハッとするようにしてから、バツが悪そうに「すまぬ」と言って再び毛皮の中に顔をうずめたのだった。


「お前が相当腹にえかねているということだけはわかった。が、村を出てどこか行く当てはあるのか?」


 ロレンスのその質問にホロはしばらく返事をしなかったけれども、ロレンスはホロの耳がピクリと反応したことに気がついていたので気長に待っていた。腹の中でうず巻いていたことをぶちまけた直後なので、単にロレンスのほうをなかなか見れないだけかもしれない。

 そう考えてみるとなかなかに可愛かわいげがあった。

 そして、ようやく振り向いたホロはバツが悪そうな顔で荷台の隅を見つめていて、ロレンスの予想が当たっていたことを示していた。


「北に帰りたい」


 それから、ぽつりとそう言った。


「北?」


 ホロはうなずいて、ふいと視線を荷台から上げて遠くに向ける。ロレンスはその視線の先を追いかけなくてもどこを見ているのかわかる。ホロの視線は、正確に真北を向いていた。


「生まれ故郷。ヨイツの森。もう、何年つのかわからんほど時が経った……。帰りたい」


 生まれ故郷、という言葉にロレンスは少しどきりとしてホロの横顔を見つめた。ロレンス自身、ほとんど故郷を捨てるようにして行商の旅に出たまま一度も帰っていない。

 貧しくてせまくてあまり良い思い出のない生まれ故郷の村だったが、それでもぎよしやだいの上で孤独にられた時はなつかしく思うことがある。

 ホロが本物だとして、何百年も前に故郷から離れた上、長く居着いた先で周りからないがしろにされ始めたとしたら。

 その望郷の思いは推して知るべしだ。


「ただ、少し旅をしたい。せっかく遠く離れた異国の地におるんじゃ。それに長い年月で色々と変わっとるじゃろうから、見聞を広めるのも良いじゃろう」


 ホロはそう言ってから、もう完全に落ち着いた顔でロレンスのほうを振り向いた。


「もしもぬしが麦を持ってパスロエの村に帰るでも、またわっちを教会に突き出すでもなければ、わっちはしばしぬしの世話になりたい。ぬしは旅から旅の行商人じゃろう?」


 ロレンスがそんなことをしないと信じているとも、見抜いているともいえるような、うっすらと微笑ほほえみながらのホロのその言葉は、まるで長年来の友人の頼みごとのようだ。

 ロレンスは正直ホロが本物なのかどうなのか依然として判断しかねていたが、そんな様子を見る限り少なくとも悪そうなやつには思えない。それに、この不思議なむすめと会話をすることがロレンスには楽しくなってきていた。

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