しかし、そこですぐにホロの言葉にうなずけるほどロレンスも商人根性を忘れたわけではない。商人に必要なのは神をも恐れない大胆さと、そして身内すら疑う慎重さだ。
ロレンスはしばし考え、それから静かに口を開いていた。
「即断はできないな」
不平をもらすかとも思ったが、それはホロを見くびりすぎというものだった。ホロはもっともだとうなずいた。
「用心深いのは良いことじゃ。しかし、わっちの人を見る目は確かなはずじゃ。ぬしは人の頼みを無碍に断るような心の冷たいやつではないと信じとる。まあ、わっちは狼じゃけどの」
しかし、そんな言葉はいたずらっぽい笑みを浮かべながらだ。それから再び横になるともそもそと毛皮の中に潜っていったが、もちろんさっきのように不貞腐れるようにではない。これで今日の話は終わりだ、と言わんばかりだ。
相変わらず会話の主導権を握られているようで、ロレンスは苦々しげに、しかし笑わざるを得ないそんなホロの様子を見つめていた。
が、ふとホロの耳が動いたかと思うと毛皮の中から顔が出てきて、ロレンスのほうを向いたのだった。
「よもや外で寝ろとか言わぬよな?」
言えるわけがない、ということをわかりきって聞いているホロの様子にロレンスは肩をすくめて返事をすると、ホロはくすくすと笑いながら毛皮の中に戻っていった。
この分だとさっきまでのやり取りのうち、いくらかはホロの演技なのかもしれない。例えば囚われの姫はかくやといった感じとか。
それでも村での不満とか、故郷に帰りたいと言った時のあの表情までも噓だとはとてもロレンスには思えなかった。
そして、そこを噓だと思わないということは結果としてホロを本物だと信じることだし、あれが悪魔憑きの娘の単なる思い込みだとはとても思えなかった。
しかし、ロレンスはふとため息をついてそれ以上考えることを止めると、立ち上がって荷台に乗り込んだ。これ以上考えていても何か新しいことがわかるとは思えなかったからで、考えてもわからない時は眠って時間を置くに限るからだ。
ホロがいるとはいってもこの毛皮はもともとロレンスのものなのだ。持ち主が御者台で布に包まって寝るというのも間抜けな話だ。ホロにもう少し端によるようにと言ってから、ロレンスも毛皮の山の中にもぐりこんだ。
背中の向こうからはホロの小さな息遣いが聞こえてくる。ロレンスは即断できないなどと言ったものの、明日目が覚めてホロとともに商品が消えていなければホロを旅の道連れにしてやってもよいと思っている。
それに、ロレンス自身ホロがそんなことをするほど小悪党ではないと思っていたし、きっとそういうことをするならばロレンスの何もかもを奪うほどのことをしでかしてくれるだろうと思っていた。
そう考えると、少しそれが楽しみではあった。
なんにせよ、自分以外の何者かと眠るのは久しぶりのことだったのだ。それが鼻が曲がりそうな獣臭の中、少し甘い香りのする美しい娘とであれば嬉しくないわけがなかった。
そんなロレンスの単純な心中を察したのか、馬がぶるるとため息のようにいなないた。
馬も、口を聞かないだけで人の考えていることがわかるのかもしれない。
ロレンスは、苦笑しながら目を閉じたのだった。
ロレンスの朝は早い。一日をフル活用して金を稼がなければならない商人達は総じて朝が早いからだ。しかし、ロレンスが朝もやの中目を覚ませばすでにホロは起きていて、ロレンスのとなりに座りこんでなにかをごそごそとしていた。一瞬、ロレンスの思惑が外れるようなことをしているのかとも思ったが、それにしては大胆だ。ロレンスが顔を上げて肩越しに振り返れば、どうやらロレンスの荷物をあさって服を見つけたようで、ちょうど靴紐を結んでいるところだった。
「おい、それは俺のだろう」
盗みをしているわけではないにしても、他人の持ち物を勝手にあさるのは神も咎める行為だ。
ロレンスは少し責めるようにそう言ったが、振り向いたホロは少しも悪びれる様子はなかった。
「ん? あ、起きたかや。これどうじゃ。似合うかや」
ロレンスの言葉など一向にかまわず、ホロはロレンスのほうに向きなおると両腕を広げてそう言った。その上、悪びれるどころか少し得意げにしているのだ。それを見ると昨日のホロの取り乱しっぷりそのものが夢の中のことのようだし、やはりふてぶてしく振る舞っているほうが本来のホロなのだろう。
ちなみに、ホロが身にまとっているのはロレンスがちょっとした町の富裕商人などと商談をする時のための一張羅だ。藍色の長袖シャツに、流行の七分丈のベスト。それに麻と毛皮を折り合わせた珍しいズボンに、その上に巻かれた下半身をすっぽりと包む腰巻と、腰巻を縛る上等な羊の皮の腰帯。靴はなめし皮を三重にした雪山でも耐えられる重厚なこしらえの逸品だ。その上から熊の毛皮の良いところを使った外套を羽織る。
行商人は、実用的で重厚な作りの衣服を誇りにする。これだけの物を揃えるのに弟子の頃から金を溜め続けて十年かかった。これを着て髭を整え商談に臨めば大抵の者は一目置いてくれる。
それほどの衣服をホロは身にまとっていた。
ただ、怒る気にはなれない。
明らかにサイズの大きいそれを身につけたホロが、それほど可愛かったからだ。
「真っ黒で上等な熊の外套じゃ。わっちの髪の毛が茶色だからよく映える。ただ、このズボンをわっちが窄くには尻尾が邪魔じゃの。穴あけてよいかや?」
さらりと言うが、ベテランの毛織物工に無理をいって作ってもらったズボンなのだ。穴を開けたらおそらくもう二度と直らない。ロレンスは首を横に振った。力強く、有無を言わせぬように。
「ふうむ。まあ、幸いサイズが大きい。なんとかいけるじゃろ」
今着ている服を全部脱げ、と言われることなどあり得ないといった様子のホロだったが、このままこの服を着て逃げるわけじゃないだろうなと、まさかとは思いながらロレンスは体を起こしてホロを注視していた。町に行って叩き売れば、結構な金額になるのだ。
「ぬしは根っからの商人のようじゃ。自分の顔に出る表情がどんな効果を持つかようわかっとる」
笑いながらホロは言って、ひょいと荷台から飛び降りた。
その動作があまりにも自然で不覚ながら反応できなかった。あのまま走り去られていたら追いつけなかったかもしれない。
ただ、ロレンスの体が動かなかったのは、ホロが逃げるわけがない、という確信がどこかにあったからかもしれなかった。
「逃げやせんよ。逃げるならとっくに逃げとる」
ロレンスは荷台の上の麦にいったん目をやってから、笑いながらそんなことを言うホロに視線を向ける。すると、どうやらロレンスの背丈に合わせて作られている熊の毛皮の外套を着るには背丈が足りなかったようで、ホロは外套をはずして荷台に放り投げてきた。昨日は月明かりの下で見ただけだったからいまいちわからなかったが、思っていたよりも小柄だ。ロレンスはどちらかといえば長身だが、ホロは頭二つ分くらい優に小さかった。
そして、そんなホロは服の具合を確かめるついでのように、口を開いたのだった。
「わっちはぬしと旅がしたい。ダメかや?」
媚びる訳でもない笑顔。媚びてくれればまだ断りようもあるというのに、ホロは楽しそうにそう言うのだ。
ロレンスは小さくため息をつく。