第二幕 ⑤

 け出しの行商人がまずすることは、商売ももちろんだがそれよりも色々な土地に行ってその土地のことを知り、同時に自分の顔を覚えてもらうことだ。その時に持ち運ぶものは長持ちして、教会や宿で売りながら話のたねにできる木の実や干し肉が良い。

 ロレンスも、この荷馬車を手に入れるまでのことを思い出して少しゼーレンの後ろ姿がなつかしかった。


「一緒に行かんのかや?」


 ホロがとうとつにそう言ったのは、ゼーレンの姿が視界から消えるほど遠くなってからだ。それまで何をしていたかといえば、周りに人目がないのをいいことに堂々と尻尾しつぽの毛づくろいだ。

 しかし、耳を隠すためにがいとうをかぶっているせいか、流れるようなくり色のかみの毛についてはほとんどとんちやくで、ばらけないようにと細いあさなわでくくっているくらいだ。せめてくしくらい通せばよいのにとロレンスは思うものの、あいにくと櫛など持ってはいない。パッツィオの港町に着いたら櫛とぼうを買ってやろうかと思ったのだった。


昨日きのう雨が降っただろ。道がぬかるんでるから荷馬車より徒歩のほうが断然早い。わざわざ遅い馬車に付き合わせることもないだろう」

「確かに、商人は時間にうるさいわな」

「時は金なりだ」

「うふふ。面白い言葉じゃ。時は金なりか」

「時間があればそれだけ金をかせげるだろう?」

「うん。確かにの。ただ、わっちにはその発想はないな」


 言ってから、ホロは再び尻尾しつぽに目を落とす。

 そのまま垂らすとひざの後ろを越えるくらいの立派な尻尾だ。ふさふさしていて、毛を刈り取って売ればそこそこの金になりそうだ。


「お前が何百年と見続けてきた農夫達も、時間には正確だと思うが」


 と、そう言い終えてからロレンスはこの話題の振り方はまずかったかと思ったのだが、ホロは視線だけをロレンスに向けてきて、「貸しがひとつじゃな」と言わんばかりに意地悪そうに笑っていたのだった。


「ふん。ぬしは何を見とるかよ。やつらは時間に正確ではない。空気に正確なんじゃ」

「……わからないな」

「よいか? やつらは夜明けの空気で目を覚まし、朝の空気で畑を耕し、午後の空気で草をむしる。雨の空気でなわをない、風の空気で作物の心配をする。春の空気で芽吹きを喜び、夏の空気で成長を楽しみ、秋の空気で収穫を笑い、冬の空気で春を待ちわびる。やつらは時間なんぞ気にはせん。ただ、空気だけを気にかける。わっちもそうじゃ」


 ホロの言葉がすべて理解できるというわけでもなかったが、言われてみれば納得できるところもある。ロレンスが感心するようにうなずくと、ホロはそれを受けて得意げに胸をそらして鼻を鳴らしたのだった。

 この自称けんろうは、少なくともいんじやや賢人のようにけんきよにしようという気は毛頭ないようだった。

 そんな折に、道の向こうから徒歩の行商人らしき者が歩いてくるのが目に入った。

 ホロはがいとうを頭にせたままだが尻尾は隠そうともしない。

 ただ、そのまますれ違った行商人はホロの尻尾をじっと見つめていただけで、特に何かを言うわけでもなかった。

 まさか、それがホロの尻尾だとは思わないのだろうし、ロレンスもきっと同じ状況になれば何の毛皮かと値踏みする程度だ。

 それでも、それを実際に平気な顔してできるかというと話は別だった。


「ぬしは頭の回転は良いが経験が足りんな」


 毛づくろいが終わったのか、ぽいと尻尾を手放してもそもそとこしきの中にしまうと、ホロは外套の下からロレンスのほうを見上げてそう言った。外套の下にあるのは十の半ばに手が届くかどうかといったむすめの顔だ。ひょんなひようにはもっとおさない様子もかい見える。

 しかし、その口から出る言葉にはとてもろうかいにおいがただよっていた。


「もっとも、逆を言えばとしれば良き者になろうということじゃがな」

「それは何百年後の話だ?」


 ホロのからかい方がわかったのでそう切り返してやった。

 ホロは驚いたような顔をして、それから大きな声で笑ったのだった。


「あははははは。ぬしの頭はようめぐるの」

「お前の頭が古すぎてがたがきているだけじゃないのか」

「うふふふふ。わっちらオオカミがどうして山の中で人を襲うか知っとるかや」


 突然切り替えられる会話の方向についていけない。ロレンスは無防備に答えていた。


「いや、わからないが」

「それはな、人の頭を食べてその力を得ようとするからじゃよ」


 にやり、と笑うホロの口にきらめく二本のきば

 それがじようだんだとしても思わずぞっとして、息をんでしまった。

 負けた、と思ったのはその数瞬後だった。


「ぬしなんぞまだひよっこじゃ。わっちの相手になどなりんせん」


 小さいため息と共にそう言い放たれて、ロレンスはぐっと手綱たづなを握りしめて顔にくやしさが出るのをおさえたのだった。


「しかし、ぬしは山で狼に襲われたことないんかや?」


 狼の耳と尻尾しつぽと牙を持つホロにそんなことを問われるのはなんだか不思議な気分だ。じんな恐怖の対象でしかなかった山の狼が、隣にいて、会話をしているのだ。


「ある。えーと……八回くらいかな」

「てごわいじゃろ」

「ああ。野犬の群れは結構どうにかなるが、狼はてごわい」

「それはな、そやつらが少なからず人を食ってその力を」

「悪かった。やめてくれ」


 三回目に狼に襲われたのは隊商を組んでいた時だ。

 そして、そのメンバーのうち二人は山を降りることができなかった。あの時の悲鳴が今も耳にこびりついている。

 無表情になったのは、意識したわけではない。


「あ……」


 さとけんろうは気がついたようだった。


「すまぬ……」


 しゅん、と体が小さくなるほどかたを落として、ホロは小さくそう言った。

 ロレンスはそれでなくとも狼に何度もひどい目にあっている。いもづる式にそれらのことも思い出してしまい、とてもホロに返事ができるような気分ではなかった。

 べちょり、べちょり、と馬がぬかるんだ道を行く音だけがしばらく響いていた。


「……怒っとる?」


 さとけんろうだ。そんなふうに聞かれたら怒っていると本気で答えられないとわかって聞いているのだろう。

 だから、答えてやった。


「怒っている」


 ホロは、黙ったままロレンスのほうを見上げてきた。横目に視線を向けると、少しくちびるとがらせているのが今にもすべてを許してしまいそうなくらい可愛かわいかった。


「怒っているからな。二度とそのじようだんはやめろ」


 結局、そっぽを向きながらそう言うしかなかった。

 しかし、ホロはしゆしようにうなずいて視線を前に向ける。こういうところは、とても素直なようだ。

 それからしばらくまた沈黙が続いたが、やがてホロが口を開いた。


オオカミは森だけで暮らし、犬は一度人の下で暮らしとる。それが狼と犬の手ごわさの違いじゃ」


 ポツリと言ったその言葉を無視してもよかったが、そうするとその先会話を再開するきっかけを作るのがとても難しそうだ。ロレンスはホロのほうに少し顔を向けて、とりあえず聞く姿勢を作る。


「……ふん?」

「狼は人に狩られることしか知りんせん。人は恐怖の対象じゃ。だからよく考える。彼らが森に来た時、わっちらはどう動くべきか」


 まっすぐに前を向いて、初めて見るような真剣な顔でそう言っている。

 ロレンスはとてもそれがそくせきの言いつくろいには思えず、ゆっくりとうなずく。

 ただ、それが少し気の抜けたあいまいなものだったのは、気になったことがあったからだ。


「お前も、人を」


 その先は、ホロがロレンスの服をつかんだので止まった。


「いくらわっちでもな、答えられんことがある」

「う……」


 ロレンスは思いつきで口を開いた自分を胸中でののしりながら、「悪い」、と言った。

 すると、とたんにホロはにかりと笑ったのだった。


「これで一対一じゃな」


 賢狼は、二十五年程度の人生では追いつけない位置にいるようだった。

 それからは特に会話もなく、それでも気まずいわけでもなく、荷馬車もぬかるみにはまることなく道程を進み、昼を過ぎてあっという間に日が暮れた。

 雨の降った次の日に日暮れ以降進むことは行商人ならば絶対にしない。荷馬車の車輪がぬかるみにはまったらどれほど荷物が軽くても十回に七回はその荷馬車をあきらめなくてはならないことを知っているからだ。

 行商でより多くもうけるためには、より損を少なくすればいい。それほど、道には危険が満ちているのだ。


「ぬしとわっちじゃ、生きてきた世界が違うんじゃよな」


 明日あしたも晴れることを告げる星空の下で、テンの毛皮の山の下からホロが何とはなしにそんなことを言ったのだった。

刊行シリーズ

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新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙IXの書影
狼と香辛料XXIV Spring LogVIIの書影
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狼と香辛料XVIII Spring Logの書影
狼と香辛料XVII Epilogueの書影
狼と香辛料XVI 太陽の金貨<下>の書影
狼と香辛料XV 太陽の金貨<上>の書影
狼と香辛料XIVの書影
狼と香辛料XIIISide ColorsIIIの書影
狼と香辛料XIIの書影
狼と香辛料XISide ColorsIIの書影
DVD付き限定版 狼と香辛料と金の麦穂の書影
狼と香辛料Xの書影
狼と香辛料ノ全テの書影
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狼と香辛料VIII対立の町(上)の書影
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狼と香辛料VIの書影
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狼と香辛料IVの書影
狼と香辛料IIIの書影
狼と香辛料IIの書影
狼と香辛料の書影