第三幕 ①

 平野をゆるやかにこうしながら流れる、スラウド川という名の川があった。はるか昔、東の山から下りてきたほうもなく大きいだいじやが、西の海を目指して平野を進んだ際にできたと言われているスラウド川は、大蛇がのたくった跡にふさわしい緩やかな流れと広い川幅を持ち、この地方には欠かせない重要な交通路となっていた。

 港町パッツィオはそんなスラウド川の中流に位置する大きな町だ。町からさして離れていない上流に麦の大産地を抱え、さらに上流には木々の生い茂る山々がある。川には年中切り出されてきた木が浮かび、その合間をって上り下りする船には季節ごとに麦やトウモロコシなどが乗せられる。それだけでも町がせいきようになるのに十分な上に、スラウド川には橋がないせいで、自然と人は渡し舟の多いこの町を通ることになるのだ。

 昼を過ぎてだいぶつが、まだ夕方までには時間があるという最も町がにぎわう時間帯に、ロレンスとホロの二人はパッツィオに到着した。

 パッツィオは王から自治権を奪い取った商業の発展した町であり、そこをぎゆうるのは貴族と商人だ。そのため町に入る時に荷台の毛皮にたっぷりと関税をかけられはしたが、人相をチェックされたり通行証を出せと言われたりすることはなかった。これが城下町になると、荷物よりも人のチェックのほうが厳しくなる。そうなると明らかに人ではないホロの扱いに困る。


「ここには王でもいるのかや?」


 そして、町の中に入ったホロの第一声がそれだった。


「人の多い町に来るのは初めてか」

「時代は変わりんす。わっちの知る町はこんだけ大きければ王がいた」


 こんな町などかすむほどに巨大な都市を見たことのあるロレンスとしてはちょっとした優越感だったが、そんなことを思っているとまたそれを指摘されかねない。それに、ロレンスも昔は何も知らなかったのだ。


「うふ。よい心がけじゃ、とだけ言っておこう」


 ただ、そう思うのが少し遅かったようだった。

 ホロは道の両わきに並ぶ露店に完全に視線を向けているというのにこの目ざとさなのだ。それとも、かまをかけているだけなのだろうか。こうまで胸中を言い当てられるとさすがに不気味だし、なによりも面白くない。


「ふうむ。祭り……なわけじゃなかろ?」


 そんなふうにロレンスが思っていることにはまったく気がつかないのか、それともわざと無視しているのか、ホロは相変わらずきょろきょろしながらそう言った。


「教会の祝祭日なんかは歩くことすらできないくらいに人が集まる。今日はまだ空いているほうだ」

「ほほう。想像もつかぬ」


 楽しそうにホロは笑い、身を乗り出しては道の両脇に並ぶ露店を物色している。

 初めて町に来た田舎いなかものの典型だったが、ロレンスはそれを見ていてふと別のことに気がついた。


「おい」

「んー?」


 と、ロレンスの呼びかけにもホロは返事だけだ。視線は相変わらず露店だった。


「お前、顔隠さなくて大丈夫か」

「ん、顔?」


 それでようやく振り向いた。


「パスロエの村は今頃飲めや歌えの大騒ぎだろうが、村の人間すべてが祭りに参加しているわけじゃない。なんだかんだで町に来ている連中も多いだろうから、お前のことに気がつくやつがいるかもしれないだろ」

「ふん、そんなことかや」


 急にげんな顔になってホロはぎよしやだいに座りなおし、ロレンスのほうを改めて振り向くと頭からかぶっているがいとうを耳が見えるぎりぎりまで持ち上げた。


「例えこの耳さらしてもやつらは気づくまいよ。わっちのことなど忘れとるんじゃからな」


 大声を上げなかったのがせきなくらいのけんまくだ。ロレンスは思わず興奮した馬をなだめるようにてのひらをホロに向ける。馬ではあるまいが、いくらか掌の効果はあったようだ。

 ホロは鼻を鳴らしてがいとうから手を離すと、前を向いて下くちびるを突き出したのだった。


「何百年も村にいたのならお前についての言い伝えくらい残っているだろう? それとも人の姿はさらさなかったのか?」

「残っとるよ。時折人の姿を見せとった時期もあった」

「見た目に関するものも?」


 ロレンスの質問に、面倒くさそうな視線を横目で向けたものの、ホロはたんそくの後に口を開く。


「わっちが覚えている限りじゃと、こうじゃ……。美しいむすめの姿で、年の頃は常に十の半ば。流れるようなかみの毛と、オオカミの耳、それに先の白い尻尾しつぽを有し、毛色はれいなこげ茶色。ホロは時折その姿で村に現れ、そのことを秘密にする代わりに村の来年の麦の豊作を約束する……」


 ホロは、これでよいか?、とばかりにけだるげな視線を向けたのだった。


「その話を聞くとお前の特徴が全部伝わっているようだが、大丈夫なのか」

「耳と尻尾を見せたところでぬしのようにうたぐるのが落ちじゃろうよ。気がつくわけがない」


 外套をさわったせいで狼の耳が変なふうにでもなったのか、ホロは外套の下に手を入れてもそもそといじくっている。

 そんな様子を横目に、ロレンスはなおもわずかに気にかかっていたのだが、あまりしつこく言うと本気でおこり出しそうな雰囲気があったので口をつぐむ。

 村の話題そのものが禁句な感じなのだ。それに、言い伝えが残っていても顔の様子まで伝わっているようではないし、耳と尻尾を見せなければまずホロだとわかりはしないだろうと思い直した。言い伝えは言い伝えで、教会などの手配書ではないのだ。

 しかし、ロレンスがそう思い直して口を閉じてからしばらく後、何かを考えているふうだったホロが、外套の下からぽつりと言葉をらしたのだった。


「なあ、ぬしよ」

「ん?」

「やつらは……わっちのことを見ても気がつかぬ、よな?」


 さっきまでとは違うホロの雰囲気は、まるで本当は気がついて欲しいと言わんばかりだ。

 しかし、ロレンスも馬鹿ではない。努めて無表情に、視線を馬のしりに向けて答えた。


おれとしてはそう願うばかりだがな」


 ホロはちようするように小さく笑ってから、「ま、心配ないじゃろ」と言った。

 それがロレンスにだけでなく、ホロ自身にも向けられる言葉だったと気がついたのは、ホロが再び馬車の上で露店を見ては楽しそうな声を上げるようになってからだ。

 ただ、さすがにそれを確認はしない。ホロもなかなかにがんそうだからだ。

 今はげんを直してうまそうなくだものや食べ物を見るたびにはしゃぐホロに、ロレンスは少しだけ苦笑いをしたのだった。


「たくさんくだものがあるのう。これ全部この辺で採れるのかや」

「南との中継点になっているからな。季節が良ければ、そうそう行くことのできない南の地方のものもある」

「南は果物が多くてよいのう」

「北の地方でも果物くらいあるだろう」

「硬くてしぶいものばかりじゃ。干したり寝かせたりせんとあまくならん。それもわっちらには無理な作業じゃからな。村ではいしやくするしかない」


 オオカミが拝借するものといえば鳥や馬や羊が思い浮かぶ。とても甘いもの欲しさに村に来そうなイメージはない。来るとしたらクマくらいのものだ。熊はよくのきにつるしたぶどうの詰まった皮袋を持っていく。


「狼はからとうな印象があるな。甘いもの好きといえば熊だ」

「辛い物は好かぬ。一度難破した船の荷物にありついたことがあるんじゃけどな、赤いきばのような実を食って大騒ぎじゃ」

「はは。とう辛子がらしか。高級品だぞ」

「しばらく皆で川に顔突っ込んで、人とは恐ろしいものじゃと嘆いとった」


 そう言って小さく笑うと、ホロはしばらくそのいんを楽しむように口を閉じて露店を眺めていた。しかし、やがてその笑みはゆっくりと消えていき、最後に小さくため息のようなものをついた。なつかしさは、楽しさの後にいつでも寂しさを伴う。

 ロレンスは何か言うべきかと考えたが、再び調子を取り戻したホロが先に口を開いたのだった。

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