第三幕 ②

「同じ赤いものならな、あれのほうがよい」


 そう言ってロレンスの服をつかみながら露店を指差した。

 行き交う馬車や人の向こうに、山積みにされた林檎りんごがある。


「ほう、良い林檎だな」

「じゃろ」


 ホロはかぶっているがいとうの下から目を輝かせる。気がついているのかいないのか、こしきの中で尻尾しつぽが犬のようにわさわさと音を立てている。林檎が好きなのかもしれない。


「実にうまそうじゃな?」

「そうだな」


 何をどう考えてもホロは遠まわしに林檎をねだっているのだが、ロレンスはそんなことになどもうとう気がつかないという振りをする。


「そうだ、林檎といえばな、知り合いが林檎の先物買いをしていてな、財産の半分以上をかけていた。あれがどこのものかはわからないが、このできならあいつの財産は今頃倍以上かもしれない」


 おれもやっておくんだった、とロレンスはため息混じりにつぶやいた。

 すると、今言うべきはそんなことじゃないだろう?、と言わんばかりの顔でホロはロレンスのことを見つめるが、ロレンスはそれにも気がつかない振りをする。

 ホロは素直に思っていることを言えないようだ。これをからかわない手はない。


「む……うむ。それは、残念じゃったな」

「ただし危険も大きいからな。俺なら船舶に乗るな」

「……せ、船舶?」


 しやべっている最中であってもぱっかぱっかと馬がひづめの音を立てながら荷馬車は前に進んでいく。ホロの気はあせるばかりのようだ。ホロは明らかに林檎りんごを欲しがっているが、それでも口に出してねだるのがいやらしく、ロレンスの言葉にそわそわしながら返事をする。


「契約を交わした商人達で金を出し合って、船舶を借りるんだ。出した金額で積める荷物の量が決まるんだが、船は陸路と違って難破すれば荷物どころか命もあぶない。ちょっと強く風が吹けばもうそれだけで危険だしな。しかし、もうかる。二度ほど乗ったことがあるんだが──」

「む、あ」

「どうした?」


 林檎を山積みにした露店を通り越し、露店がだんだん後方に下がっていく。

 他人の胸中がわかっている時ほど楽しい瞬間はない。ロレンスは商談用の笑みをことさら強調してホロのほうを見た。


「それで、船舶の話だが」

「う……林檎……」

「ん?」

「林檎……食べ……たいん……じゃが……」


 最後まで意地を通すかとも思ったが、意外に素直だったので買ってやることにしたのだった。


「自分のかせげよ」


 がっしゅがっしゅと音を立てて林檎を食べながらホロがロレンスのことをにらむが、ロレンスは少しも引かずに逆にこれ見よがしにかたをすくめてやった。

 しおらしく林檎を食べたいむねを言った姿が少し可愛かわいかったので、けちけちせずにトレニー銀貨というそこそこ価値の高い銀貨を渡してやったのだが、ホロはその銀貨で買えるだけの林檎を買ってきたのだ。両手で抱えるのも困難なその量を見る限り、ホロの頭にえんりよの二文字があったとはとても思えない。

 口の周りも手もべたべたにしながらすでに四個目の林檎に取り掛かっているホロに、文句の一つも言いたくなるというものだった。


「ぬし……もぐ……さっきはわざと……むぐ……気づかん振り、げふ、してたじゃろ」

「人の胸中が手に取るようにわかるというのは良い気分だな」


 バリバリとしんまで食べるホロにそう言って、ロレンスも一つもらおうかと真後ろの荷台に積んであるたくさんの林檎りんごに手を伸ばそうとしたら、五つ目にかぶりついたままのホロにそれをたたかれた。


「わっちのじゃ」

「元はおれの金だろうが」


 ぞぶり、と口いっぱいに林檎をほおってもしもしくだいてそれを飲み下してから、ホロはようやく口を開く。


「わっちはけんろうホロじゃ。この程度の金なぞすぐじゃわ」

「そうしてくれ。あの銀貨で今日の晩飯と宿代も払うつもりだったんだからな」

「もぐ……ふむ……しかし、わっぴ、もぐ、わっちには」

「食べてからどうぞ」


 ホロはうなずいて、結局次に口を開いたのは八個目の林檎がホロの胃袋におさまってからだった。

 これで、晩飯も食うつもりなのだろうか。


「……ふう」

「よく食ったな」

「林檎は悪魔の実じゃ。わっちらをそそのかすあまい誘惑に満ちておる」


 ホロの大げさな物言いに、ロレンスは思わず笑ってしまう。


けんろうなら欲に打ち勝ったらどうだ」

「貪欲は多くのものを失うが、禁欲が何かを生み出すということもない」


 ふくの笑みを浮かべながら手についた林檎の汁をなめている様子を見ると、なんとなくそんな言葉も説得力を持つ。これほどの幸せを失うのならば禁欲などこつちよう

 もちろん、べんなのだが。


「で、さっき言いかけたことはなんだ?」

「うん? ああ、そうじゃ。わっちには元手がないし、すぐに金に変わるような能力もない。だからぬしの商売に少し口を出して利益を生み出すつもりじゃが、それでもよいかや」


 よいか、と聞かれる時、商人なら簡単に返事はしない。きちんと相手の言うこと、その裏、影響までをもあくしてから返事をすることが常識だ。口約束も立派な契約だ。どんな目にあっても、契約は契約なのだ。

 だから、ロレンスはこの時返事をしなかった。ホロの言おうとすることがわからない。


「ぬし、近いうちに後ろの毛皮を売るんじゃろ?」


 ロレンスのそんな胸中は察したのか、ホロが荷台のほうを振り向く。


「早ければ今日。遅くとも明日あしただな」

「場合によっては、その時にわっちが口を出す。それで毛皮が高く売れればその分をわっちのかせぎにしてほしい」


 最後に小指をなめてから、ホロはなんでもないようにそう言った。

 ロレンスはちょっと考える。今ホロの言ったことは、言い換えるとロレンスよりも高く毛皮を売ってみせる、ということだ。

 いくら賢狼と言えど、ロレンスだって独り立ちして七年目の行商人なのだ。横から口を出すだけで値段が上がるほどぬるい商談はしないつもりだし、相手も簡単に買い取り金額など上げないだろう。

 それでもホロがなんでもないことのように言うので、ロレンスはそんなことできるわけがないだろうと思うよりも、どうするつもりなのか、という興味のほうが先行した。だから、「よいだろう」と告げると、「契約成立じゃな」とげっぷ交じりに返事が返ってきたのだった。


「ただし、絶対毛皮の時にできるとは限らんよ? ぬしはその道の人間じゃ。わっちに口出しする余地などないかもしれん」

しゆしようじゃないか」

かしこきとは己を知ることなり


 後ろの荷台にまだ山とある林檎りんごをちらちら名残なごり惜しげに見ながら言わなければ、様になったかもしれない言葉だった。



 毛皮を持っていった先はミローネ商会という様々な商品のちゆうかいを主な生業とする商会だ。パッツィオでは三番目の大きさのそこだが、一番と二番の店がパッツィオに本店を置く地元の業者であるのに対し、ミローネ商会は遠い南の商業国にほんきよを持つ、しやく持ちの大商人が経営する大商会の支店だった。

 ロレンスが地元の業者ではなくわざわざそこを選んだのは、ミローネ商会がよそ者であることをこくふくしようと商品の買取に高値をつけているという理由もあったし、何より様々な地に支店を持つそこに入る情報の量はとても多いからだ。

 教会で出会ったあの若い行商人、ゼーレンの持ちかけてきた話に類することが聞けるかもしれないという目論見もくろみがあった。へい相場の変動について最も鋭敏な耳を持っているのは、両替商と国境を越える商売を行う者達だからだ。

 ロレンスとホロの二人はいったん宿に寄って部屋を確保してから、ロレンスはひげを整えて出発した。ホロは相変わらず頭からがいとうをかぶったままだ。

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