第三幕 ④

「ふうむ。ぬし様は気づかれたかよ?」


 それでもホロはそんな事実を知らないのか、それとも知っていても気にしないのか、がいとうの下からゆうたっぷりにそんな言葉を放つ。

 査定の男は気をまれてホロのほうを見つめているが、質問の指し示すことが何なのかまったくわからないのだろう。ロレンスだってわからない。


「も、申し訳ございません。何か見落としていることがございますでしょうか」


 査定の男は見たところロレンスと同じ年くらいの、異国から来ている商人だ。経験してきた商談の場は数知れず、対応してきた人間の数も同様だろう。

 そんなうみせんやませんの男が、本気でホロに謝っているように見える。

 確かに、突然そんなことを言われれば動揺するに決まっている。なにせ、ホロの言葉は「お前はどこを見ているんだ」というものに等しいからだ。


「うむ。ぬし様は一角の商人と見受けられるが……いや、だからこそわざと気づかぬ振りをしたのかや? ならばぬし様も油断ならぬお人じゃ」


 外套の下でホロがにやりと笑う。ロレンスはきばが見えやしないかとはらはらしたし、何よりこんなことを言ってどうするつもりなのかととうしたい気持ちだった。

 今の商談で、この男がした査定は妥当なものなのだ。それに、ホロの言葉が当たっているのだとしたら、それはロレンスもその何かを見落としていることになる。

 そんなもの、ない。


「め、めつそうもございません。自らのめいを恥じるばかりでございます。よろしければその点御指摘いただけないでしょうか。その上で再度値段を提示させていただきたいと存じますが……」


 買取の査定をする者がこんな低姿勢になったことなど初めてだ。その振りならいくらでも見たことはあるが、どうも本気のようだ。

 ホロの言葉は、みような重さを持っている上にその放ち方がぜつみようだ。

 そんなことを思っていたら、不意にホロがロレンスのほうを見た。


「あるじ様よ、意地悪はするものではない」


 あるじ様、という言葉がなんとも馬鹿にしているのかこの場にふさわしいのかちょっと判別しづらかったが、ここで間違った対応を取れば後でホロに何を言われるかわからない。必死に頭をめぐらせて返事をする。


「そ、そんなつもりではない。しかし、こうなってはしょうがない。お前、教えてやりなさい」


 ホロが左側のきばをロレンスにだけ見せてにやりと笑う。どうやら正しい対応だったようだ。


「あるじ様、毛皮を一つ取ってくださいまし」

「うむ」


 あるじ様と呼ばれているのだから威厳を保たなければならない、とりきむほどに自分の姿がこっけいに思えてくる。今、この場はホロが主導権を握っているのだ。


「どうも。さて、ぬし様よ」


 ホロはそう言って受け取った毛皮を持ち査定の男に見せる。一応毛並みや大きさや色つやの良いものをとっさに選んで渡したが、とても値段をり上げるような要素などなさそうだ。例えば毛並みの良さ一つをおおぎようにしつこく説明すれば、向こうからはならば全部をはいけんさせてもらいますと言われかねない。そうすれば傷のある毛皮だってあるはずなのだ。値段は下がらないかもしれないが、場の空気は悪くなる。


「こちらは見てのとおりに良き毛皮じゃ」

「はい、まったく同感でございます」

「うむ。これは数年まれに見る良き毛皮。されど、ここではあえてこう言うべきじゃ。すなわち、数年まれににおう毛皮、と」


 ホロの言葉に一瞬その場が固まった。意味が、わからない。


「匂いであるのに意外な盲点とはこれいかに」


 ホロはそう言って一人からからと笑う。ホロのどくだんじようだ。そんなくだらない言葉に突っ込むゆうなどロレンスと査定の男にはない。


「まあ、ひやくぶんは一見にしかずじゃ。取って匂いをいでみなされ」


 ホロはそう言って男に毛皮を渡し、手渡された男はロレンスのほうを当惑した目で見る。

 ロレンスもそれに同情したい気持ちだったが、ゆっくりとうなずいた。

 毛皮のにおいなどいでどうなるというのか。そんなこと、商談で一度も指摘したこともされたこともない。

 向こうも同様のはずだが、客が言うのだから逆らえもしない。男が、ゆっくりと毛皮に鼻を近づけ、匂いを嗅いだ。

 すると、当惑しか浮かんでいなかった顔に少し驚きの色が混じる。もう一度匂いを嗅ぐと、それは完全に驚きのそれになった。


「どうじゃろ。何か匂うかや」

「え、あ、はい。これは、くだものの香り、でしょうか」


 ロレンスは驚いて毛皮を見る。果物の匂い?


「いかにも。今年は豊作のせいでテンの毛皮が少ないと申されたとおり、森もたわわに実った果実であふれておる。そんな森をつい先日までけずり回っていたようなテンの毛皮じゃ。たらふく良いものを食っておるから体からあまい匂いが立ち昇るほどじゃ」


 査定の男は話を聞きながらもう一度匂いを嗅ぐ。それからうなずいて、確かに、と言う。


「実際、毛皮の色つやなんぞは多少上下すれども大して変わらぬじゃろう。問題は服にして、加工して、その後の使い勝手じゃないかや。良きものは長持ちし、悪いものはすぐくずれる」

おつしやるとおりで」


 ロレンスも胸中でしたを巻く。このオオカミは、何をどこまで知っているのか。


「この毛皮はこれ、このとおり、甘い香りが匂い立つほどうまいものを食っておるテンの毛皮じゃ。その毛皮をぐ時は大の男二人がかりで皮を引きいたものじゃ。身がしまりすぎてなんした」


 男もつられてぐいぐいと手元の毛皮を引っ張ってみる。

 しかし、実際は買い取ってもいない商品をそこまで強く引っ張れない。ホロは、当然そこをわかっているのだろう。

 見事なほど、絵にいたような商人だ。


「この毛皮はもうじゆうのそれのようにきようじんで、包まればまるで春の日差しのように暖かく、雨にかざせばそれは見事に雨をはじく。その上、この香りじゃ。鼻が曲がりそうなにおいのテンの毛皮でできた服が並ぶ中、一つ甘いほうこうを放つ毛皮で作られた服があるところを想像せよ。目の飛び出るような高値で売れること間違いなしじゃ」


 査定の男が言われたとおりにその場面を想像するように少し遠いところを見る。ロレンスもつられて見るが、確かに目立って売れそうだ。いや、この場合は匂い立って、か?


「さて、いかような値段でこちらを買い取っていただけるじゃろうか」


 その言葉に、査定の男はぱちんと夢から覚めたように背筋をただし、あわてて木製の計算機をいじくった。こんこんこん、と小気味よい音を立てて木の玉がはじかれて、その数字が示されたのだった。


「トレニー銀貨二百枚でいかがでしょうか」


 その言葉にロレンスは思わず息をむ。百四十枚でもかなり高値なのだ。二百枚などあり得ない数字だ。


「うーん」


 しかし、ホロがそんなうなり声をあげる。ロレンスはもうかんべんしてくれと、それを止めようと口を開こうとする。もちろん、ホロが止まるわけはなかった。


「毛皮一枚につき銀貨三枚でどうかや。つまり、二百十枚」

「う、えー……」

「あるじ様、ほかに商会は」

「あ、わ、構いません! 二百十枚でよろしくお願いします!」


 その言葉にホロは満足げにうなずいて、ロレンスのほうを向いたのだった。


「だ、そうじゃ、あるじ様」


 やっぱり、からかってそう呼んでいるようだった。



 ヨーレンドという名の酒場は少しうらびれた通りにあった。ただ、店構えは開放的で掃除も行き届き、客層も例えば職人ならとうりようクラスの者達が利用しそうな場所だった。

 そんなヨーレンドの酒場の席に着くと、ロレンスはどっと疲れが出たような気がした。

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