第三幕 ⑩

 ひざから下がなくなってしまったかのような脱力感。なんとも浅はかな手に引っかかったものだと脱力する。

 言われてみれば、確かにそのとおりだ。勝手にそこに大きなたくらみがあると思っていた。いや、だましだまされの行商人なら必ずそう思うはずだ。だからこう考えてしまう。

 ゼーレンは、「絶対に」利益が出るはずなのだ、と。


「うふ。人というものはさといの」


 ホロは他人ごとのようにそう言って、ロレンスはそれにため息しか出ない。ただ、幸いなことにまだトレニー銀貨にわざわざ投資してはいない。手元にあるのはあるべくしてある銀貨だけだ。ゼーレンと交わした契約書には何枚銀貨に投資するなどの取り決めはない。こうなればあとは相場の変動がないことをいのるばかりだ。そうすれば、ゼーレンの話はうそだったと指摘し、銀貨十枚を取り返せないこともない。もちろん、値下がってもその銀貨が返ってくるのだから、ゼーレンに一杯食わされていたと考えれば安いものだ。

 商人が油断して誰かのわなにはまった時は、大抵が何もかもを失うことになるからだ。

 それでもやはり、あの若造、と呼んでいたようなゼーレンにめられたという事実はロレンスの誇りを傷つけた。口ので少しだけ笑うホロを前に、ロレンスは小さく背中を丸めてしまったのだった。


「ただ、の」


 まだ何かあるのか?、とロレンスが許しをうような目でホロのほうを見たが、ホロの顔は獲物を前にしたりようけんのようだった。


「銀貨の純度が少しずつでも下がるということは、よくあることなのかや?」


 ロレンスはそれが救いの足ががりなような気がして、なまりかし込まれたような背筋に無理やりに力をこめる。


「いや、普通は細心の注意を持って純度が維持されるはずだ」

「ふむ。で、そこに降っていた銀貨の純度に関する取引じゃ。偶然かのう」

「う……」


 ニヤニヤと笑っているのは単純にこの状況が楽しいからなのかもしれない。いや、きっと楽しいのだろう。


「ただ、ぬしがあの村にあの麦を持ってあの瞬間にあそこに立っていたというのも、偶然じゃ。世に偶然と必然ほどわからんものはない。ぼくねんじんの恋心ほどにやつかいじゃ」

みような例えだな」


 そんな言葉ばかりがすぐに出た。


「さて、ぬしは思考の迷路にて右往左往しているようじゃ。そういう時は新たな視点を入れるべきじゃ。わっちらも獲物を獲る時、たまには木に登る。木の上から見る森はまた違うもの。つまりの」


 けんろうホロが、にやりと左側のきばくちびるの下にのぞかせながら、言ったのだった。


「何かをたくらんでいるのがあの若者ではなかったとしたらどうじゃ?」

「あ……」


 がん、と頭をなぐられたようなしようげき


「何もあの若者の利益は、あの若者が相手をした者からもらわなくてもよい訳じゃ。例えば、誰かに頼まれていて、その手間賃を目当てにみような取引を持ちかけておるということも考えられるじゃろう」


 頭二つ分背の低いホロが、おそろしい巨人のように見える。


「木が一本れるところを見れば、それだけを見るなら森にとって害のような気もするが、森全体から見ればその木が栄養になってほかの木がよく育つのじゃから森のためになる。目の前のできごとが別の視点から見ればひっくり返ることはよくあること。どうじゃ、何か見えてこんかや?」


 一瞬、ロレンスはホロがすでに何かを知っているのではないかとかんってしまったが、ホロの口調からそれがロレンスを試すものではなく、単純に助言なのだと気がついた。商人に大事なのは知識だ。ただ、その知識は単なる商品の値段などではない。

 目の前のできごとの考え方。その手法の知識だ。

 ロレンスは考える。新たに得たその知識で考える。

 ゼーレンが、実際に会話をした相手、すなわちロレンス達から利益を得るのではなく、別の場所から利益を得るのだとしたら。ゼーレンが誰かに銀貨を買わせることで、別の誰かから手間賃を得ることができるとしたら。

 ただ、その考えが頭の中に浮かんだ瞬間ロレンスは息をんだ。

 もしもそのように考えるとするなら、ロレンスはこの事態をく説明することのできるからくりに一つだけ心当たりがあるからだ。

 以前立ち寄った町の酒の席で別の行商人から聞いたそのからくりは、あまりにも規模が大きくその時は単なる酒のさかなとして聞いていた。

 しかし、そのからくりを用いれば価値の下がる銀貨を買い集めるという意味のないような行為を難なく説明することができる。

 そして、ゼーレンがうそをつきながらも公証人の元で契約を交わさせたり、酒場に異様に顔を利かせたりと、目当てにしてはみような行動を取っていることにも納得がいった。

 ゼーレンは、それらのことで取引に説得力を持たせ、極力ロレンスが銀貨を買うようにと仕向けたかったのだ。

 ロレンスの考えが当たっていれば、ゼーレンは誰かにやとわれて銀貨の回収を行っている。それも、なるべく誰が何の目的でその銀貨を集めているのか誰にも気づかれないようにと。

 ある特定の銀貨を目立たぬように集めるためには複数の商人達の欲を突いて彼らに集めさせるのが一番よい。ひともうけをたくらんで銀貨を買う商人達は、ほかの連中に儲けを渡すまいとして総じてしんちように、また無口になるからだ。それから、頃合を見て商人達が集めた銀貨を上手じようずに引き取るのだ。こうすると、相場に影響を与えず、また誰が銀貨を集めているのかもられずに、目的を遂行できる。

 ある商品を買い占めて値をり上げる時などによく使われる手だ。

 また、今回のうまい点は、銀貨の値段が下がれば商人達はなるべく損を小さくするためにその銀貨を手放したくなるということだ。そうすれば買取はさして難しくもないだろうし、損をした商人達は自らの名誉のためにそんな銀貨の投資に手を出したことを言いふらさない。

 かくして、銀貨は人知れず一箇所に集まっていくのだ。

 それを用いて行われる巨大な構図の企みは、目もくらむような利益を生み出すはずだ。少なくとも、記憶の中の話から生み出された利益はほうもないものだった。

 ロレンスは、思わず声を上げそうになっていた。


「うふ。何かひらめいたようじゃの」

「行くぞ」

「ん? え、あ、どこに?」


 もうすでに走り出しかけていたロレンスは、もどかしく後ろを振り返って言ったのだった。


「ミローネ商会だ。これはそういう構図なんだ。これは、価値が下がる銀貨を買えば買うほど利益が出る企みなんだよ!」


 相手の企みは裏を突けば必ず儲かる。

 それは、企みが大きければ大きいほどよいのであった。

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