第四幕 ①

 ミローネ商会の面々は、突然訪問したロレンスの話を聞くや否や、驚いた表情をあっという間に警戒のそれに変えた。ただ、それもゼーレンがロレンスに持ちかけた取引の裏を突くことをミローネ商会に持ちかけているのだ。ゼーレンの話の時点ですぐに信用できるようなものではないのに、さらにそこの裏を突くようなロレンスの話は、もっと信用できなくても当然といえば当然だった。

 それに、ミローネ商会とは毛皮の一件がある。今後の商取引に影響がありそうなほど怒ってはいなかったが、さすがに担当者はロレンスの姿を見て苦笑いだった。

 それでもミローネ商会が一応動いてくれたのは、ロレンスがゼーレンと公証人の下で交わした契約書を見せたからだ。取引はミローネ商会が存分に確信を持ててからでいいと。

 さらに、ロレンスはゼーレンの背後関係を調べてくれと言って、これが単純なではないことを強調した。

 ここまですれば例え詐欺にしても手の込んだものだとミローネ商会は考える。そうすれば後学のためにわざと首を突っ込んでくれる。ロレンスはそう考え、そして、実際にそのとおりになった。

 なにより、ロレンスの考えが当たっていればこの取引でミローネ商会はばくだいな利益を得る。

 ミローネ商会はたんたんほかの商会を出し抜く機会をうかがっているはずなのだ。多少さんくさい話でも大きな利益の可能性は見逃さないだろうという予想は、当たっていた。

 ロレンスがミローネ商会にとりあえずこの話に興味を持ってもらうことに成功したその後にしたことは、まずゼーレンという男の存在を証明することだ。ロレンスとホロは早速その日の日没にヨーレンドの酒場に出向き、ゼーレンと連絡を取りたいとウェイトレスのむすめに告げた。ゼーレンはあんじよう毎日定刻にここに顔を出すわけではないようで店内に姿がなかったが、ウェイトレスの娘はたまたま今日だけいなかったようなことを言い、そして日が沈んでしばらくってからゼーレンが姿を現した。

 ロレンスは他愛たわいのない商売の話をゼーレンとしていたが、その模様は事前に打ち合わせをしておいたミローネ商会の人間が近くの席で秘密に観察していたはずだ。これから数日間、ミローネ商会はロレンスの持ちかけてきた商談が事実であるかどうかの判断を、ゼーレンの身辺を調査することでつける手はずだった。

 ロレンスは、まず間違いなくゼーレンの背後には大商人が控えていると思っている。

 そして、背後に大商人が控えていれば、まず間違いなくロレンスの思ったとおりの構図がそこにあるはずだったし、だとすればそれをミローネ商会が確かめるのもたやすいことだと思った。

 ただ、問題はあった。


「間に合うかや?」


 ミローネ商会がゼーレンの身辺調査を開始したその日の夜、宿に帰ってホロはそう言った。

 ホロの言うとおり、問題は時間だった。仮にロレンスの仮説がすべて正しかったとしても、場合によってはもう利益など見込めなくなる可能性がある。いや、出るには出るだろうが、ミローネ商会が商会として動いてくれるほどの利益は見込めなくなるかもしれない。そうなればロレンス一人でこの話から利益を出すのは難しくなる。その代わり、ミローネ商会がすばやく決断をして計画に着手すれば、転がり込む利益はほうもないものになる。

 ロレンスがゼーレンの背後に見たたくらみと、その裏を突く企みは、そういったたぐいのものだった。


「まあ、おそらく間に合うだろう。そう思ったからこそミローネ商会に頼んだ」


 ろうそくの明かりを頼りに、酒場から小売りしてもらったぶどう酒をコップに注ぎ、ロレンスは中をのぞきこんでから半分ほど一息に飲んだ。ベッドの上で胡坐あぐらをかいて同じくぶどう酒の注がれたコップを手にしたホロが、中身を干してからそんなロレンスを見る。


「あの商会はそんなに優秀なのかや?」

「異国の地で商売を成功させるには、とにかく強力な耳を持つことだ。酒場での商人達の会話や、市場での客達の会話。それらを周りより飛びぬけて多く集めなければ異国の地に商会の支店を構え、立派な大きさにすることなどできない。その点、あの商会はかなりのものだろう。ゼーレンという男一人の身の回りを調べるくらいはぞうないと思う」


 しやべりながら、ロレンスは酒を注ぐようにとさいそくするホロのコップをぶどう酒で満たし、喋り終わる頃にはホロのそれは空になっていた。その上に次を催促する。あきれた早さだ。


「ふうん……」

「どうかしたか?」


 ぼんやりとした顔で遠くを見つめて気のない返事をしたのでホロは何か思うところがあったのかと思ったのだが、どうやらだいぶ酔いが回っているだけのようだった。手にコップを持ったまま、まぶたがゆっくりと閉じかけていた。


「しかし、ずいぶん飲むな」

「酒の魅力は大きい……」

「まあ、それなりの酒だしな。普段はこんないいものは飲まない」

「そうなのかや?」

「金がない時は、どうしぼりかすでどろどろになっていたり、砂糖やはちみつやショウガを入れないと飲めないくらい苦かったりするようなのも飲む。コップの底が見えるようなぶどう酒は基本的にぜいたく品だ」


 ロレンスの言葉に、ホロは手元のコップをのぞき込んでからぼんやりとつぶやいた。


「ふむ。これくらいが普通なのかと思っとった」

「はっは。そりゃあよいご身分だ」


 ロレンスは笑いながらそう言ったのだが、ホロはロレンスのそんな言葉を聞くと途端に顔をこわばらせて、うつむきがちにコップをベッドの下の床に置くとそのままベッドの上で丸くなってしまった。

 あまりにもとうとつ過ぎて、ロレンスは驚いてそんなホロの様子をただ見つめていたのだが、少なくともねむいからそうしたとかいう雰囲気ではあり得なかった。

 少し自分の言動を思い返す。何かホロの気にさわるようなことを言ってしまったのかもしれない。


「どうした?」


 しかし、特に思いつかずそう尋ねてみるが、ホロのとがったオオカミの耳はピクリとも動かない。どうも相当怒っているようだった。

 ロレンスはそれ以上声もかけられず必死に頭をめぐらせていたのだが、やがて思い出した。ホロと出会った時に交わしたやり取りを。


「もしかして、よい身分だって言ったのに怒ったのか?」


 ホロはロレンスに狼の姿を見せろと言われた時、恐れおののかれるのがいやだと言った。

 また、特別な存在に祭り上げられるのも嫌だと言った。

 ロレンスは旅のぎんゆう詩人の歌を思い出す。神が年に一回の祭りを要求するのは、そのあまりの寂しさからだ、という歌を。


「悪かった。特に深い意味があって言ったんじゃない」


 しかし、ホロは相変わらずピクリともしなかった。


「お前は……その、なんだ、別に特別じゃないし……いや違うな。平民、というのも違うな。平凡? これも違うな……」


 うまい言葉が見つからずにロレンスはますますあせって混乱してしまう。

 ただホロのことを特別ではないと言いたいだけなのに、どうしてもしっくりといくものが見つからない。

 ロレンスがそんなふうにあれこれ言葉を模索していると、やがてホロの耳がピクリと動き、「くふ」という笑い声がもれ聞こえた。

 それからホロはころんと寝返りを打つと体を起こし、ロレンスにあきれたような笑みを向けたのだった。


「貧弱なじゃな。そんなことじゃめすも振り向かぬじゃろ」

「ぐ」


 ロレンスは反射的に雪で足止めされた時に泊まった宿でれた女中のことを思い出してしまう。あの時、ロレンスは実に無残なふられ方をした。その原因というものが、ホロの言うとおり語彙のなさだったのだ。

 目ざといオオカミはすぐにそれに気がついたようで、「やはりの」と呆れるように言ったのだった。


「しかし、わっちも大人おとななかった。つい、の」


 ただ、ホロが続けてそんなふうに謝ったので、ロレンスも気をそがれ、改めて「すまなかったな」と言ったのだった。

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