第四幕 ④

 ロレンスはホロの流れるような髪の毛は抜きでれいだと思っていたし、それに長い髪の毛そのものが珍しい。毎日湯を浴びて髪の手入れができる貴族以外はそうそう髪を伸ばすことができないからだ。長くて綺麗な髪の毛は生まれの高貴さを示すといってもよい。

 だからロレンスも世のしよみんのごぶんれず、女性の長く綺麗な髪には無条件に弱いところがあるのだが、貴族でも滅多にいないと思えそうなくらいに綺麗で長い髪の毛を有しているホロにはその価値がわからないらしい。

 オオカミの耳を隠すのも、頭の上からすっぽりがいとうをかぶるのではなくきちんとしたベールにして、服も行商人用のこつな服ではなくローブにでもすれば、それこそぎんゆう詩人の詩に出てきそうなうるわしの修道女にでもなりそうなものだが、さすがにそこまで言うのははばかられた。

 そんなことを言えば、どうつけ込まれるかわからないからだ。


「で、ぬしよ」

「ん?」

「櫛はいつ買いに行くかや」


 テーブルに突っ伏したままロレンスのことを見上げているホロだが、その目は期待の色にらんらんと輝いている。

 ロレンスは少し首をひねり、他意なく聞き返していた。


「櫛はいらないんだろ?」

「櫛をいらぬとは言っていない。櫛は欲しい。できれば歯の細かい物がよい」


 髪を漉かないのに櫛など買ってもしょうがない。ロレンスの頭の中では尻尾の毛を漉くのは毛織物職人の使うだ。


「刷毛を買ってやるよ。なんなら良い毛織物職人を紹介してやろうか?」


 毛皮の扱いなら専門の道具と本職の人間のほうが良い。半ば本気、半ばじようだんでロレンスはそう言ったのだが、そう言い終わってから自分のことを見つめるホロのほうを見て言葉に詰まった。

 ホロが、今にもみつきかねないほどに怒っていた。


「ぬし……わっちの尻尾をそこいらの毛皮と一緒にしたな?」


 よくようのない声で静かに言うのは尻尾しつぽうんぬんのことを周りにいる客に聞かれないためではないだろう。

 ロレンスはその迫力に少したじろいだものの、ホロは相変わらず調子が悪そうだ。大した反撃もできないだろうと高をくくっていた。


「もう……まんせぬぞ」


 あんじよう、ホロのおどし文句もひねりがない。

 どうせ泣き出すくらいのことだろうとロレンスは思い、ゆうを見せるために林檎りんごじゆうを飲みながら軽く指摘してやったのだった。


「泣いてでもこねるつもりか?」


 突然やられたら確かに動揺したかもしれないがな、とは思ったもののもちろん口には出さなかった。

 ただ、そう言われたホロはそれがぼしだったのかなんなのか、少し目を見開いてロレンスのほうを見て、顔を反対側にぷいと向けた。

 そんな子供っぽいぐさみよう可愛かわいげがあり、ロレンスは少し笑いながらいつもこのくらいだといいんだが、なんて思ったりしていた。

 そして、ホロはしばしの沈黙の後、小さく言ったのだった。


「……もういかん。く」


 その瞬間、ロレンスは飲みかけの果汁をひっくり返しそうになるくらいあわててから立ち上がり、大声で店主におけを持ってくるようにと叫んだのだった。



 日もすっかり落ちて、木窓の向こうの通りのけんそうも収まって久しい頃になってから、ようやくロレンスは机から顔を上げた。手に羽ペンを持ったまま思い切り背筋をそらし、両手を上げて伸びをする。ごきりごきりと良い音を立てる背骨が気持ちいい。首も左右に勢いよく曲げると、負けじと良い音を立てた。

 そして、再度机の上に目を向ける。そこには質素だがそれなりの商店の店構えが描かれた紙があった。どんな町で、どんなものを商い、どう商売を拡大していくかの綿密な計画までもその横には書いてある。さらには商店のしゆつてんにかかる費用から、その町の市民権確保まで様々な角度から費用を概算し、記述もしてある。

 ロレンスの夢、自前の商店の出店計画だった。

 つい一週間前までは遠い夢だ夢だと思っていたそれも、ミローネ商会との今回の取引でにわかに現実味を帯びた。もしもトレニー銀貨二千枚からなる収入があれば、貯金と呼べる装飾品や宝石を多少処分すれば店を出すことができる。そうすればもうロレンスは行商人ではなく、町商人ロレンスなのだ。


「むう……何の音かや……」


 と、改めてれと自分の書いた店の絵を見ていると、ホロがいつの間にかベッドの上で身を起こしていた。ねむそうに目をこすってはいるが、もうだいぶ回復したらしい。何度か目をしばたかせてロレンスのほうを見ると、のそのそとベッドからい出してきた。少し目が赤くれぼったいような気がしたが、顔色は良さそうだった。


「体調はどうだ」

「うん、だいぶよい。ただ、少し腹減ったの」

「食欲が出れば問題ないな」


 ロレンスは笑って、テーブルの上にパンがあると教えてやった。ライ麦の黒パンだ。硬いし苦いしパンの中では底辺に位置する安物のそれだが、ロレンスはその苦味が逆に気に入っていてよく買うことがある。

 あんじようホロは一口かじって不平をらしたが、結局それしか食べるものがないのであきらめたようだ。


「何か飲み物は……」

「水差しがあるだろう」


 パンと並べて置いておいた水差しの中身を確認して、ホロは一口水を飲むとパンをかじりながらロレンスのそばに寄ってきた。


「……店の絵?」

おれのな」

「ほほう、なかなかいのお」


 しげしげと眺めながらそう言って、ホロはパンをかじる。

 異国の地で言葉が通じない時など、時折絵で取引をするものだ。欲しい商品の単語がどうしても出てこないことが結構あるし、通訳がいつも見つかるとは限らない。だから行商人は皆結構絵が上手いのだが、ロレンスは大きなもうけがあると大体決まって店の絵を描く。酒を飲むよりもそれは心地よい。

 それに、なかなかのうでまえだと自負してはいたが、やはりめられるとうれしいものだ。


「これらの文字は?」

「ああ、店のしゆつてん計画や、費用なんかだ。もちろんこのとおりにいくわけもないけどな」

「ふうん。町の絵も描いてあるけど、これはどこの町かや」

「実際の町じゃない。俺が店を出したい理想の町だ」

「ほほう。しかし、こんなに綿密に描いておるということは、近いうちに店を出すのかや?」

「ミローネ商会との取引が上手くいけばな。おそらく出せる」

「ふうん……」


 ホロはあまり気乗りしないふうにうなずいて、パンの残りを小さい口に放り込むとテーブルのほうに歩いていった。こくりこくりと音がしているので、水でも飲んでいるのだろう。


「自前の店を持つことは行商人の夢だからな。おれも例外じゃない」

「うふ。それくらいわかりんす。理想の町まで描いているんじゃ、よほど何べんも描いているんじゃろ」

「描けばいつか俺の手の中に入るような気がしてね」

「大昔に出会った絵描きもそんなことを言っとったの。見ている景色を絵にしてすべてを自分のものにしたいと」


 二切れ目のパンをかじりながら、ホロはベッドの隅にこし掛ける。


「その絵描きの夢はおそらくいまだかなわずじゃろうが、ぬしの夢は実現間近というわけじゃな」

「ああ。それを考えるといてもたってもいられなくなるな。ミローネ商会に出向いて全員のケツをたたいて回りたいくらいだ」


 少し大げさにそう言ってみたが、うそなわけではない。だからだろうか。ホロは別にからかうでもなく、くつくつと笑うと「夢がかなうといいの」、とだけ言ったのだった。


「しかし、そんなに店を持つことがよいことかや。行商でもそれなりにもうかるじゃろう?」

「儲けるだけならな」


 ホロが少し首をかしげる。


「それ以外に何かあるのかや」

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