第四幕 ⑤

「行商人は、人にもよるが大体二十から三十の町をぐるぐると回って行商をする。行商人が町に残っていても金は一銭も増えないからな。一年のうちのほとんどが荷馬車の上だ」


 ロレンスは机の上に置いてあるカップを手に取って、少しだけ残っていたぶどう酒を飲み干した。


「そんな生活だから、友人もろくにできやしない。せいぜいが取引先に知り合いだけだ」


 ロレンスの説明にハッとしたホロは、たんに悪いことを聞いたというバツの悪そうな顔をする。

 やはりホロは根がいいやつなのだ。ロレンスは気にするなという意味もこめて、少しおどけるように後を続けたのだった。


「店を構えれば俺も町の一員だ。友人もできるしよめ探しも簡単になる。それに何より死んだ後に入る墓が決まっているというのが安心だ。もっとも、一緒に入ってくれる嫁が見つかるかは……運次第だがな」


 ホロは小さく吹き出して笑う。

 ただ、行商人が新しい町に掘り出し物の商品を探しに行くことを「嫁を探す」とも言い、その言葉には良いものはなかなか見つからないという意味が含まれている。

 実際、町に店を構えたからといってすぐに町の人間と親しくなれるわけでもない。

 それでも、やはり一つの土地で長い間暮らすということは行商人にとって夢だった。


「ただ、ぬしが店を持つとなるとわっちはちょっと困りんす」

「ん? なんでだ?」


 ロレンスが振り向くと、ホロはまだ口元に笑みのいんを残していたものの、その表情が少しかげっていた。


「ぬしが店を持ったらその店から出なくなるじゃろ。わっちは一人で旅を続けるか、誰か新しいはんりよを見つけなければならん」


 そういえば、とホロが少し世界を見て回ってから北の地に戻りたいと言っていたことを思い出した。

 ただ、ホロのこのかしこさだ。毛皮の売買の時にかせいだ金があるし、一人でも何も困ることはないだろう。


「一人旅でも困らないだろう?」


 だからなんの気もなしにそう言ったのだが、ホロは意外なことにその言葉を受けとると、パンをかじったまま少しだけうつむいてしまった。

 それから、ぽつりと言う。


「一人はいた」


 そんなふうに言いながらゆかに届いていない足をぷらぷらさせるホロのぐさがとても子供っぽく見える。とたんにベッドにこし掛けるその姿がとても小さく、ろうそくの明かりの前に塗りつぶされてしまいそうに見えた。

 ロレンスは、ホロが何百年も前の友人のことを思い出して実に楽しそうに、うれしそうにしていたのを思い出した。

 昔の友人をなつかしむのは今が寂しい証拠だ。あの時にホロが思い出にひたるように体を丸めた仕草が、寂しさの雨風から体を守る仕草のように思えてくる。

 ただ、めつの当たりにしない他人のそんな様子を前に、ロレンスは少し動揺してなるべく傷つけないようにと言葉を選ぶ。


「ま、まあ、お前が北に帰るまでくらいなら付き合ってもいいぞ」


 と、言うほかなくそう言ったロレンスだったが、それでもホロが「本当に?」といった感じで上目づかいに見てくるので、大きな商談を前にした時よりも高鳴るどうを隠しつつ軽い口調で言ってやった。


「金が入ってもそれですぐに店が持てるわけじゃないしな」

「ほんとかや?」

うそついてどうするんだ」


 思わず苦笑して、ホロもそれにられて笑う。ただ、ホロのそれはほっとしたような笑顔だ。口は笑いつつも伏し目がちの目にはどことなく寂しさがただよっている。ホロのまつげはこんなにも長かったのか、と少しだけ場違いなことをロレンスは思った。


「その、なんだ、だからそんな顔するな」


 町で暮らす商人達ならもう少し気の利いた言葉を言えるのだろうが、ロレンスはあいにくと女っ気などない生活を強いられる行商人だ。それでもなんとかそう言うと、ホロは少し視線を上げて小さく笑ってから、「うん」、とうなずいたのだった。

 そんなふうにしおらしくしていると、体の小ささもあってホロの姿はものすごくはかなげだ。しくとがっていたオオカミの耳も伏せられたまましよざいなげに動いていて、立派な尻尾しつぽも不安げに体のそばで丸められていた。

 それから訪れた、沈黙。

 ロレンスはホロから視線が離せず、ホロはロレンスのほうを見られないようだった。

 ただ、一度だけホロはロレンスに視線を向けて、すぐに伏せてしまった。いつかどこかで見たようなそれ。ロレンスは少しおくってみてすぐに気がついた。パッツィオについてすぐ、林檎りんごをねだった時の目だ。

 あの時は林檎だったが、今ホロがねだるのはなんだろうか。

 相手が何を望んでいるか察知するのは商人にとってひつ技能だ。

 ロレンスは少しだけ深呼吸をすると、から立ち上がった。その音に少しびっくりしたのかホロが耳と尻尾しつぽを少し立ててロレンスのほうを見たが、自分に近づいてくるのを見るとあわてるように視線をそらした。

 それから、ロレンスが目の前に立つと少しだけ手を伸ばしてきたのだった。

 おずおずと、おっかなびっくりといった感じで。


「目がれぼったいのは、夢でも見て泣いていたのか」


 ロレンスはホロの手を取るとそのとなりにこし掛け、そのまま引き寄せて軽く抱いてやった。

 ホロは無言でされるがままになって、ロレンスのうでの中で少しだけうなずいた。


「……目を」

「ん?」

「目をな……わっちが目を覚ますとな……誰もおらん。ユエも、インティも、パロやミューリもおらん。どこにもおらんかった」


 夢の中で、ということだろう。ぐす、というはなをすする音がして、ロレンスはホロの小さな頭をでてやった。出てきた名前は仲間のオオカミの名前かもしれないし、もしかしたら狼の神かもしれない。ただ、さすがのロレンスもそれを尋ねるようなすいはしなかった。


「わっちらはな、何百年でも生きることができる。だからな、わっちは旅に出たんじゃ。絶対に、絶対にまた会えると思ってな。でもな……おらんかった。誰もおらんかった」


 しっかと服を握るホロの手が小刻みに震えている。そういった夢はロレンスも見なくはない。

 故郷に帰ると誰も彼もがロレンスのことなど忘れている。そんな夢をたまに見る。

 実際、行商に出て二、三十年ぶりに故郷に帰ると村ごとなくなっていた、なんていうことはよくある話だ。せんに巻き込まれて燃えてしまうこともあれば、えきびようで全滅したり、きんしてしまったりと理由は様々だ。

 だから行商人は店を持つことが夢なのだ。

 そこに自分の故郷を作り、そこに自分の居場所を作るのだ。


「もう、目を覚まして誰もおらんのはいやじゃ……。一人はいた。一人は寒い。一人は……寂しい」


 そんなホロの感情のに、ロレンスはあいずちも打たずただ抱きしめて頭をでてやるだけだった。これだけ取り乱していれば何を言っても耳には届かないだろうと思ったし、何より的確な言葉を言えるとも思えなかった。


 ロレンスもぎよしやだいの上や、初めて訪れた町などで突風のような寂しさに襲われることがある。

 そんな時は何をしてもだ。何を聞いても駄目だ。ただ何かにしがみついてその突風が過ぎ去るのを待つしかない。


「ぐす……」


 なので、そんなふうにホロのことをしばらく抱いていたら、やがて感情の波が収まってきたのか、ホロはつかんでいたロレンスの服を離し、少し顔を上げた。

 ロレンスがそれに応じてゆっくりとうでを離すと、ホロは鼻をぐずぐずいわせながら体も起こしたのだった。


「……めんぼくない」


 目も鼻もにしたままホロはそう言ったが、声はだいぶ落ち着いていた。


「行商人も同じような夢にうなされることがある」


 ロレンスがそう言ってやると、ホロは照れたように笑って、詰まったはなをすすり上げた。

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