第四幕 ⑥
「あーあー、顔中べたべたじゃないか。ちょっと待ってろ」
ロレンスは立ち上がり、机の上に置いてあった紙を差し出した。絵や文字が描いてあるがもう乾いている。洟をかむくらい大丈夫だろう。
「う……じゃが、これ……」
「描いては捨ててるんだ。それにまだあの取引はうまくいってない。
そう言って笑うと、ホロもつられたように笑って紙を受け取った。それから思い切り洟をかんで目元をぬぐうと、だいぶすっきりしたようだった。ため息をついてから深呼吸して、もう一度恥ずかしそうに笑ったのだった。
ロレンスはホロのそんな様子を見てまた抱きしめてやりたくなったが、さすがにそれは思いとどまった。いつもの調子を回復しているようなので、軽くあしらわれるかもしれなかったからだ。
「ぬしに、大きな借りができたの」
ロレンスがそんなことを思っているのを知ってか知らずか、ホロはそう言いながら握りつぶしてしまったらしいパンのかけらを拾って食べている。
ロレンスはとりあえず突っ込まれなかったことをほっとしつつそんな様子を見つめていたが、ホロはあらかた食べ終わると手を軽くはたいて小さくあくびをした。泣いたので、疲れたのかもしれない。
「まだ
「ああ、そろそろ寝るかな。起きていてもろうそく代の
「うふ。商人らしい考えじゃ」
ホロはベッドの上に
とたんに落ちる
ようやく自分のベッドにたどり着くと、ベッドの
しかし、さすがにそれに気がつきはしなかった。
ベッドに身を横たえようと思ったら、そこに誰かがすでに横になっていたのだ。
「な、にを」
「
少し怒ったような口調が異様に
されるがままに引き倒されると、ホロがぴったりと横についてくる。
さっき抱きしめた時に感じた
ロレンスは再び
「苦しぃ」
そんなホロの批難がましい声でようやく我に返り、
代わりに、耳元に口を近づけてきて
「ぬし、目は慣れたかや?」
「どういう」
意味だ?、という言葉はホロの細い指に口を押さえられて出なかった。
「ようやくぬしに何を言おうとしていたか思い出したんじゃがな……」
ひそひそと囁くホロの言葉がとてもむずがゆい。むずがゆいが、それが
そして、実際に睦みごとなどではなかった。
「少し遅かった。
ようやく気がついたが、いつの間にかホロは
「ここは二階じゃ。幸い外に人はおらん。心の準備はよいかや?」
別の意味で動悸が高鳴り、ホロがゆっくりと体を起こす。ロレンスは毛布をかぶる振りをして上着を身につけ外套をまきつける。
「わっちのこの
その直後、がたり、と木窓を開け放つ音がした。ホロは足を窓
ロレンスも
ふわり、と体が宙に浮く
体を支えきれずに体が
足をくじかなかったのは幸いだが、その
「走りんす。荷馬車は
ロレンスはその言葉にハッとして
それを思うと思わず厩のほうに走り出しそうになっていたが、頭の中の冷静な部分がそれを押しとどめる。ホロの言うことが正解なのは火を見るよりも明らかだ。
ロレンスは奥歯をかみしめて踏みとどまった。
「やつらが馬を殺してもなんの得にもならぬ。落ち着いてから取り戻せばよいじゃろう」
すると、ホロが見かねたのかそんなことを言ってくれたが、今はそう願うばかりだ。ロレンスはうなずいて一回深呼吸をすると、ホロの差し出してくれた手を取って立ち上がったのだった。
「あ、そうじゃ」
と、ロレンスが立ち上がるとホロは首から
「念のためじゃ。ぬし、いくつか持ってくりゃれ」
ホロは無造作に取り出したそれを、ロレンスの返事を待たずに胸のポケットに詰め込んだ。
何か熱いものを入れられたかのように感じたが、それはホロの体温だったのかもしれない。
なにせ、その麦はホロが宿るという麦なのだから。
「ほれ、さっさと走りんす」
信頼する友人に笑いかけるようなホロに、ロレンスは口を開きかけたものの結局何も言わずにうなずいて、夜の町へと走り出したのだった。
「で、ぬしに言おうと思ってたことはこれじゃ。あの商会があの若者のことを調べ上げられるなら、その逆もまた簡単じゃろう。向こうも警戒はしとるはずなんじゃ。わっちらが商会に協力を頼んだとあれば口を封じようとするのが普通じゃろ」
石
真っ暗でロレンスの目にはほとんど道など見えなかったが、ホロが手を引いてずんずんと行ってくれたのでロレンスはつまずきながらもなんとかその後をついていく。
一区画ほど走ったあたりで、後ろのほうの通りを数人の男達がわめきながら走っていくのが見えた。少しだけ聞こえた単語に、ミローネ商会、というのがあった。
向こうもこちらが
「しまった。道がわからん」
ロレンスの手を引っ張って走っていたホロが、
「こっちだ」
進路を西に取って走りはじめる。パッツィオはこのあたりでは古い町だ。建物は増築を繰り返され、路地はのたうつ
しかし、相手も馬鹿ではないようだった。
「止まりんす。張られとる」