第四幕 ⑥

「あーあー、顔中べたべたじゃないか。ちょっと待ってろ」


 ロレンスは立ち上がり、机の上に置いてあった紙を差し出した。絵や文字が描いてあるがもう乾いている。洟をかむくらい大丈夫だろう。


「う……じゃが、これ……」

「描いては捨ててるんだ。それにまだあの取引はうまくいってない。かわざんようにもほどがある」


 そう言って笑うと、ホロもつられたように笑って紙を受け取った。それから思い切り洟をかんで目元をぬぐうと、だいぶすっきりしたようだった。ため息をついてから深呼吸して、もう一度恥ずかしそうに笑ったのだった。

 ロレンスはホロのそんな様子を見てまた抱きしめてやりたくなったが、さすがにそれは思いとどまった。いつもの調子を回復しているようなので、軽くあしらわれるかもしれなかったからだ。


「ぬしに、大きな借りができたの」


 ロレンスがそんなことを思っているのを知ってか知らずか、ホロはそう言いながら握りつぶしてしまったらしいパンのかけらを拾って食べている。

 ロレンスはとりあえず突っ込まれなかったことをほっとしつつそんな様子を見つめていたが、ホロはあらかた食べ終わると手を軽くはたいて小さくあくびをした。泣いたので、疲れたのかもしれない。


「まだねむい。ぬしは寝んのかや?」

「ああ、そろそろ寝るかな。起きていてもろうそく代のだ」

「うふ。商人らしい考えじゃ」


 ホロはベッドの上に胡坐あぐらをかいて笑い、そのまま横になった。ロレンスはそんなホロを見てからろうそく台に息を吹きかけ、その明かりを消す。

 とたんに落ちるやみ。明かりに目が慣れていたので完全に真っ暗だ。今夜も空は晴れて星が出ているようだったが、木窓のすきから入ってくるわずかな光はまだ見えない。目が慣れるのを待つのももどかしく、ロレンスは手探りで自分のベッドへと向かう。部屋の奥の木窓の下だ。ホロの寝るベッドの角に足をぶつけないかだけに注意しながら歩いていた。

 ようやく自分のベッドにたどり着くと、ベッドのはしを確かめてからゆっくりと身を横たえる。以前、適当に身を投げたら思い切りベッドの角に体をぶつけてをしたことがあった。それ以来しんちようになっている。

 しかし、さすがにに気がつきはしなかった。

 ベッドに身を横たえようと思ったら、そこに誰かがすでに横になっていたのだ。


「な、にを」

なこと言うもんじゃありんせん」


 少し怒ったような口調が異様になまめかしい。

 されるがままに引き倒されると、ホロがぴったりと横についてくる。

 さっき抱きしめた時に感じたはかなさとは違う、しっかりとした、それでいて柔らかいむすめ特有の体。

 ロレンスは再びどうが高まるのをおさえられない。ロレンスも健康な男だ。気がついた時にはホロの体を抱きすくめていた。


「苦しぃ」


 そんなホロの批難がましい声でようやく我に返り、うでにこめた力をわずかに抜いたが、決して離しはしなかった。ただ、ホロも振りほどこうとはしない。

 代わりに、耳元に口を近づけてきてささやいたのだった。


「ぬし、目は慣れたかや?」

「どういう」


 意味だ?、という言葉はホロの細い指に口を押さえられて出なかった。


「ようやくぬしに何を言おうとしていたか思い出したんじゃがな……」


 ひそひそと囁くホロの言葉がとてもむずがゆい。むずがゆいが、それがあまむつみごとのように聞こえなかったのは、ホロの口調にただならぬ雰囲気があったからだ。

 そして、実際に睦みごとなどではなかった。


「少し遅かった。とびらの外に三人。おそらくまともな客じゃないの」


 ようやく気がついたが、いつの間にかホロはがいとうっていた。それからもそもそと動くと、ロレンスの胸の上に身の回りの品が現れた。


「ここは二階じゃ。幸い外に人はおらん。心の準備はよいかや?」


 別の意味で動悸が高鳴り、ホロがゆっくりと体を起こす。ロレンスは毛布をかぶる振りをして上着を身につけ外套をまきつける。こしに銀の短剣を差したところで、ホロが扉の外に聞こえよがしに言ったのだった。


「わっちのこのたい、月明かりの下でとくと見やしゃんせ」


 その直後、がたり、と木窓を開け放つ音がした。ホロは足を窓わくにかけるとためらうことなく飛び降りる。

 ロレンスもあわてて体を起こし窓枠に足をかけた。さしてためらいもなく飛び降りることができたのは、慌てて部屋の扉をこじ開けようとする音と、ばたばたと走り出す音が聞こえたからだ。

 ふわり、と体が宙に浮くいやな感覚の直後、すぐに硬い地面が足の裏に当たる。

 体を支えきれずに体がカエルのようにね、ざまにもんどりうってすっころんだ。

 足をくじかなかったのは幸いだが、そのさまをホロに大笑いされた。大笑いされたが、ホロはすぐに手を差し出してきてくれた。


「走りんす。荷馬車はあきらめんとダメじゃな」


 ロレンスはその言葉にハッとしてうまやのほうを見る。安くて丈夫な馬だということもあるし、なによりあの馬はロレンスが初めて買った馬なのだ。

 それを思うと思わず厩のほうに走り出しそうになっていたが、頭の中の冷静な部分がそれを押しとどめる。ホロの言うことが正解なのは火を見るよりも明らかだ。

 ロレンスは奥歯をかみしめて踏みとどまった。


「やつらが馬を殺してもなんの得にもならぬ。落ち着いてから取り戻せばよいじゃろう」


 すると、ホロが見かねたのかそんなことを言ってくれたが、今はそう願うばかりだ。ロレンスはうなずいて一回深呼吸をすると、ホロの差し出してくれた手を取って立ち上がったのだった。


「あ、そうじゃ」


 と、ロレンスが立ち上がるとホロは首からげていた皮袋を手に取り、口をしばってあるひもぞうに解くと中身を半分ほど取り出した。


「念のためじゃ。ぬし、いくつか持ってくりゃれ」


 ホロは無造作に取り出したそれを、ロレンスの返事を待たずに胸のポケットに詰め込んだ。

 何か熱いものを入れられたかのように感じたが、それはホロの体温だったのかもしれない。

 なにせ、その麦はホロが宿るという麦なのだから。


「ほれ、さっさと走りんす」


 信頼する友人に笑いかけるようなホロに、ロレンスは口を開きかけたものの結局何も言わずにうなずいて、夜の町へと走り出したのだった。


「で、ぬしに言おうと思ってたことはこれじゃ。あの商会があの若者のことを調べ上げられるなら、その逆もまた簡単じゃろう。向こうも警戒はしとるはずなんじゃ。わっちらが商会に協力を頼んだとあれば口を封じようとするのが普通じゃろ」


 石だたみの道なので月明かりでも十分に走ることができる。人通りのえた道を二人して走り、ちゆう細い道を右に折れた。

 真っ暗でロレンスの目にはほとんど道など見えなかったが、ホロが手を引いてずんずんと行ってくれたのでロレンスはつまずきながらもなんとかその後をついていく。

 一区画ほど走ったあたりで、後ろのほうの通りを数人の男達がわめきながら走っていくのが見えた。少しだけ聞こえた単語に、ミローネ商会、というのがあった。

 向こうもこちらがけ込む先はミローネ商会しかないとわかっているようだ。


「しまった。道がわからん」


 ロレンスの手を引っ張って走っていたホロが、みつまたに分かれた路地の交差点の真ん中でつぶやいた。ロレンスは顔を上げて月の位置とこよみを確かめ、頭にパッツィオの地図を思い浮かべる。


「こっちだ」


 進路を西に取って走りはじめる。パッツィオはこのあたりでは古い町だ。建物は増築を繰り返され、路地はのたうつヘビのように曲がりくねっている。それでも何度も来ている町だ。時折大きな通りに顔を出して位置を確認してまた路地の中に戻る、ということを繰り返しどんどんとミローネ商会へと近づいていく。

 しかし、相手も馬鹿ではないようだった。


「止まりんす。張られとる」

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