第五幕 ④

 ここの右上はメディオ商会にえんのある雑貨商の住居兼倉庫になっているらしく、ホロはその倉庫にいるとのことだった。真上はミローネ商会が有事の際のために身代わりを立てて借りている住居で、ないしよでとなりの建物との間に通路を勝手に作ってしまっているらしい。まったくぞっとするような周到性だが、異国の地で店舗を構えて商売をするというのはそういうことなのかもしれない。ロレンスも、きもめいじておこうとつぶやいたのだった。

 そんなことを考えている間に、どこか遠くのほうで鐘の鳴る音がした。市場開放の鐘だ。これを合図に突入すると言っていたから、今頃うえしゆになっているかもしれない。市場開放の鐘から仕事の始まりを告げる鐘の間にだつかんできなければ状況が厳しくなる。上の雑貨商に取引相手などがやってくるからだ。

 メディオ商会の子いの雑貨商なのだろうが、そこに大事なひとじちがいようがいまいが決済日はやってくる。営業だけはやめられないはずだった。

 問題はホロを見張る者達の数だ。かずを増やせばミローネ商会にいちもくりようぜんでばれるし、あまり少なくすると万が一の場合に頼りないと考えるだろう。ロレンスはできればホロを隠すことを第一に考えた人数配置であって欲しいと願うばかりだ。

 なぜなら、見張りの数が多ければ戦いはひつとなる。突入する者達の手に持たれるのが目隠しとなわではなく、ものどんになりかねないからだ。

 そうなれば、ただでさえややこしい問題がさらにややこしくなる。なるべくそれは避けて欲しかった。

 そんなことを思ってどれくらい待っていただろうか。初めのうちは冷静だったものの、気がつくと足元の水が音を立てるほどに震えていた。それがこれ以上ないほどに自分の不安を表しているようで、必死に足が震えるのを止めようとしたがうまくいかない。

 何度かくつしんをしてみても、どうが激しくなって余計に自分が不安がっているようでだった。

 ふたが開くのはまだかと上を見る。

 そして、ロレンスは突然背筋がこおりついた。

 まさか、場所を間違えたのでは。


「そ、んなまさか」


 ロレンスがそう思ってここが行き止まりであることを確かめようとした瞬間だった。


「ラッヘ」


 そんな声が真上から聞こえてきた。遅れてめきめきというゆかいたをはがす音。さらに「ラッヘ」と声が聞こえ、ロレンスは「ヌマイ」と答える。「ピレオン」という返事は、蓋が外されると明かりと共にロレンスの元に届いたのだった。


「ホロ!」


 その顔を見てロレンスは思わず叫んでしまっていた。

 しかし、ホロはそんなロレンスの声など聞こえなかったかのように顔を上げて、上にいるほかの者に何ごとかを言っていた。それからもう一度穴の中のロレンスを見下ろして、短く言ったのだった。


「ぬしがどかんとわっちが下りられん」


 今までどおりといえば今までどおりの様子のホロのそんな言葉だったが、ロレンスはその言葉を聞いて、自分がホロの喜ぶ顔とはずんだ口調を期待していたことに気がついた。

 ホロの言うとおりに穴の下から体をどけ、ホロが下りてくるのを待ったが、その時に胸にあったのはホロに会えた喜びより、そんな声が聞けなかった失望感だった。

 もちろん、それは完全にロレンスの身勝手であるとわかっていたので何を言えるわけでもなかったが、地下道に下り立つとロレンスのことなど気にしていないかのように上から下ろされる荷物を受け取っているホロを見ると、ロレンスの胸の中のざわめきは大きくなるばかりだった。


「なにぼさっとしとる。これ、ぬしの分。ちゃっちゃと持って、奥へ」

「む、う、あ、ああ」


 押し付けられるように荷物を受け取ると、押されるように通路の奥へと進んでいく。押し付けられた荷物がガチャリガチャリと音を立てる。押し込みごうとうに思わせるために、かねの物をうばってきたようだった。直後に、穴からもう一人下りてきて、ふたが閉じられる。再び真っ暗になったが、それは出発の合図だ。ロレンスはホロに声もかけられず歩き出した。

 この次は突き当たりを右に曲がり、左手の壁に手を当て突き当たるまで前進だ。いったん地上に出て、そこにたいしているはずの馬車に乗って今度は別の地下道に入る。

 誰も一言も口を聞かず地下道を歩き、やがて行き止まりに着いた。

 ロレンスは言われていたとおりに備え付けの梯子はしごを上りてんじようをぼこぼこと三回たたく。

 手違いで待機できていなかったら別のルートだったな、と思う間もなく天井にぽっかりと穴が開く。もう、すぐそこは馬車の中だった。


「ピレオン」「ヌマイ」、というやり取りの後、ロレンスは馬車の中にい上がった。


「うまくいっているようで──」


 馬車の中にいた商会の者がしやべりながらホロを引っ張り上げると、むき出しのオオカミの耳にさすがにぎょっとしたようだった。


「商売には驚きがつきものです」


 しかし、そう言って笑うとさっさと石だたみを元に戻してふたをしたのだった。


「まだもう一人中にいるが」

「いえ、彼は梯子はしごを片づけて別の場所から地上に出ます。メディオのやつらの情報を仲間に伝えてから、町を離れます」


 恐ろしいほどのぎわのよさは、日頃からたんねんに対策を練っているからだろう。馬車のゆかいたもはめ終えると、「それではうんを」と言い残して彼もホロとロレンスが持ってきた荷物を持って馬車から降りた。ぎよしやが合図を出して馬車が走り始めたのはその直後で、今のところ何もかも予定通りのようだった。

 目の前の、ホロの反応を別にしては。


「無事で、なによりだ」


 詰まらずに言えたのは上出来だ。ただ、それだけで精一杯で、向かい側の席に座って首に巻いていた布を広げてフードのようにかぶっているホロにそれ以上何も言うことができなかった。

 だから返事が帰ってきたのは、ホロがフードをげんな様子でかぶりなおして神経質そうに調整し終わってからだった。


「無事でなにより、じゃと?」

「ああ」、と言おうとした返事はのどの奥にみ込まれた。ホロが今にもみ付きそうな顔でフードの下からロレンスのほうをにらんでいたからだ。

 まさか、無事ではなかったのか。


「わっちの名を言ってみろ」


 しかし、ホロの言葉はそんなもので、ロレンスが心配していたたぐいのものではなかった。それでも体格差では倍近いロレンスがたじろぐほどの迫力だ。ロレンスはわけがわからなかったが、思いつくままに答える。


「ホロ……だろう」

けんろうホロじゃ」


 ウグルルルル、と喉の奥から聞こえてきそうなけんまくだが、何に怒っているのかわからない。ホロが謝れと言うのならいくらでも謝る用意はできている。なにせホロはロレンスの身代わりになってくれたのだ。

 それとも、やはり口に出せないようなことをされたのだろうか。


「わっちがこれまで生きてきた中で、わっちに恥をかかせた者の名をわっちはすべて言うことができる。そこに新しい名前を付け加えんといかん。つまりぬしじゃ!」


 やはり、そういう類のことをされたのだろうか。ロレンスはそう思ったが目の前のホロはぼうかんさんぞくに襲われた村で見てきたむすめ達とは違った怒り方をしているように見える。それに、なことを言えば余計に怒りに油を注ぐかもしれない。

 そのため無言の時間が続き、そのうちホロはロレンスが黙っていること自体に腹が立ってきたのか、座席から立ち上がると詰め寄ってきた。

 わなわなと握りしめられているこぶしは真っ白になっている。

 逃げ場などない。すぐにホロがロレンスの目の前に立つ。

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