第五幕 ⑤

 ちょうど顔の高さが同じせいで、ホロの視線がこれ以上ないほどにまっすぐロレンスの目を貫いてくる。ホロの小さい握りこぶしが開き、力の限りにロレンスのむなぐらつかむ。力の程度は見た目どおりのようで、たいした握力でもなかったが振りほどこうとは思わなかった。

 長いまつげだ。そんなことをまた、頭のどこかで思った直後だった。


「わっちはぬしに言ったよな。ぬしが迎えに来てくりゃれと」


 ロレンスはすぐにうなずく。


「わっちはな……わっちはてっっっっきりぬしが来たものだとばかり思って……うう……思い出すだけでもいまいましい!」


 その瞬間、ロレンスは夢から覚めたような気がした。


「ぬしもおすならきばいで戦いにおもむくのが当たり前じゃろう! あんな穴ぼこの中にいおって、そのせいで、そのせいでわっちはいらぬ恥を──」

「無事だったんだろう?」


 最後まで言わせずロレンスがそう言うと、ホロは思い切りげんそうに口をゆがめてそっぽを向く。

 それから、しばらくためらった後に苦いものを飲み下すようにうなずいた。

 ホロは目隠しでもさせられていたのかもしれない。そこに助けに入ってきたミローネ商会の人間を、ロレンスとかんちがいして何か言ったのかもしれない。ただ、そのことをホロがいらぬ恥をかいたといって怒るのは、それくらいのことを言ったからだろう。

 ロレンスはそれが単純にうれしかった。自分が行けば、ホロはきっと自分が期待していた表情を見せてくれたのだとわかったからだ。

 ロレンスは自分の胸倉を摑むホロの細い両うでをゆっくりと摑んで、少しだけ力を入れる。

 ホロはすねるように少しだけ抵抗したが、あっけなく力を抜いた。フードの上からでもわかるくらいにいきり立っていたオオカミの両耳もだんだんとしおれていった。

 怒りにゆがんでいた顔が、すねたそれに変わっていく。

 世界をまたにかけてどれほど金を積んだとしても手に入らないものがそこにはあった。


「無事でよかった」


 ロレンスがそう言うと、ホロはつい数瞬前まで怒りに見開いていた目をゆっくりと伏せ、小さくうなずいた。ただ、口は少しとがったままだ。


「ぬしがその麦を持っとる限りわっちは死にはせんがな」


 ロレンスの手を振り払うこともなく、ホロはロレンスの服の胸ポケットを突いてそう言った。


むすめなら、死なずともそれに劣らない責め苦はあるだろう」


 ロレンスがホロの手を引っ張ると、ホロはゆっくりと身を寄せてきてロレンスのかたの上にあごを乗せた。ホロの体の軽さが、重い麦の詰まったあさぶくろよりも強烈に感じられた。

 それから、ホロがいたずらっぽくささやく。


「うふ。わっちは可愛かわいいからの。人のおすもいちころじゃ。ただの、わっちの相手が務まるような雄は人にはおらなんだ」


 ホロはロレンスから体を離すと、もういつものニヤニヤとした笑みを浮かべていたのだった。


「わっちにれればナニがもげるぞと言ったら皆さおになっておびえての。うふふふ」


 そう言って笑うとするどい二本のきばが淡いもも色のくちびるの下にきらめいた。確かに、そう言われれば皆ひるむかもしれない。


「ただの、例外がおった」


 突然、ホロは笑みを消すと無表情になった。それが今までのものとは違う静かな怒りであると、なんとなくロレンスにはわかった。


「わっちをつかまえた者の中にな、誰がおったと思う?」


 いまいましげな、という表現がぴったりかもしれない。そんな怒った顔に唇の下からのぞく牙は強烈に映る。ロレンスは思わずホロの細い手首から手を離していた。


「誰が、いたんだ?」


 ホロがそれほど怒るような人物とは誰だろうか。昔の知り合いでもいたのだろうか。

 ロレンスがそんなことを思っていると、ホロは鼻の頭にしわを寄せながら言ったのだった。


「ヤレイじゃ。知っとるじゃろう」

「ま」


 さか、とは最後まで言えなかった。その瞬間、ロレンスは頭の中で別のことがさくれつしていたからだ。


「そうか! メディオ商会の後ろにいるのはエーレンドットはくしやくか!」


 これからいざ思うところを思う存分怒りのままにぶちまけようと準備していたらしいホロは、ロレンスのそんな叫び声にあっけにとられて目を点にしている。


「麦の大産地ならば麦の取引の際に好きな銀貨で代金を支払わせることができる。そのうえ麦に関する様々な関税のてつぱいはメディオ商会と伯爵、それに村の人間達全員にとっててんけいだ。そうだ、それで同時に理解できる。なぜお前がオオカミであることを知っている人間がいたのかということが!」


 ホロはきょとんとしたままそんなロレンスの様子を見ていたが、ロレンスはそんなホロをお構いなしにわきにのけるとぎよしやだいの連絡窓に飛びついた。小さく木の窓を開くと御者の一人が耳を傾けた。


「聞こえていましたか。今の話」

「ええ、聞こえました」

「メディオ商会の後ろについているのはエーレンドット伯爵です。伯爵領で麦の取引をしている商人が銀貨の大口回収先です。これをマールハイト氏に伝えてください」

「お安い御用で」


 そう言って一人が早速馬車から降り、走っていった。

 すでにトレニー城に交渉のための早馬が出ているだろうが、交渉が長引きそうであれば追加の条件を提示できる。メディオ商会が銀貨をどこから回収しようともくろんでいたかわかれば、ミローネ商会のかんばんと資金力を持ってすれば横取りも不可能ではないからだ。

 しかし、これをもっと早くに気がついていればホロはさらわれずに済んだかもしれない。そうすればもっとこの取引はスムーズにいっていたのだ。

 それを思うとくやしかったが、今となってはどうにもならない。今気がついただけでも良しとするところだった。


「……話が見えん」


 に座りなおし、うで組みをしてそんなことをぐるぐる頭の中でつぶやいていたら、さっきとは座る位置が逆になったホロがげんそうに言った。それでようやくロレンスは思い出す。ホロの話のこしを思い切り折ってしまったことを。


「説明すると長くなる。ただ、お前の情報から何もかもが見えたってことだ」

「ふうん」


 ホロのことだから少し頭をめぐらせればたちどころに理解できるのだろうが、そんなふうにしようとするそぶりもない。

 興味なさそうにうなずいて、目を閉じてしまった。

 やはり、話の腰を折られたことがかいだったようだ。

 ただ、そんなことですねる大人おとなないところがなんとも可愛かわいかったが、ロレンスは自分のそんな浅はかな気持ちをいましめる。

 話の腰を折られたさを晴らすための、ホロのわなかもしれない、と。


「いや、話の腰を折ったのは悪かった」


 ただ、それだけは素直に謝った。

 ホロはロレンスの言葉を聞くとちらりと左目を薄く開いて見やったが、「別に」と小さく言っただけだった。

 ロレンスはそれでもひるまずに口を開く。ホロは子供っぽいかろうかいかの両きよくたんのようだった。


「ヤレイは本当なら収穫祭の儀式のために穀物庫に閉じこもってるはずなんだが、町にいるということはあいつも今回の取引に一枚んでいるんだな。あいつなら麦の取引に来る商人達に面識があるし、村長も取引を任せている。そして、麦の取引は収穫祭の後が最も多い」


 ホロは目を閉じて少し考えるふうにすると、間を空けて両目を開けた。いくらかげんを直してくれたようだった。


「わっちの名はあの若者、ゼーレンから聞いたようじゃ。ヤレイのやつ、村じゃ着ないような服を着て、実にえらそうじゃった」

「メディオ商会に深く関わっているのか。それで、話したのか?」

「わずかばかりの」


 そう言ってからついたため息は怒気をはらんだものだ。ヤレイとの会話を思い出して再び腹が立ったのかもしれない。

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