第五幕 ⑥

 しかし、何を言われたのだろうかとロレンスは少し考える。確かにホロは村の連中におこりはしていたが、村を出ると決めた以上、ホロがあれ以上怒るとも思えなかった。

 そんなことを考えていると、ホロが口を開いた。


「わっちはあそこの土地に居着いて何年つかわからん。尻尾しつぽの毛の数ほどおったかもしれん」


 ばさり、とがいとうの下で尻尾が音を立てる。


「わっちはけんろうホロじゃ。豊作の年がなるべく多く出るようにと、時には土地を休ませるため不作にしたりもした。それでもこのわっちの管理じゃ、ほかの土地よりかはよほど良い麦の産地になったはずじゃ」


 それを聞くのは二度目だが、ロレンスは素直にうなずいて次を促す。


「確かに村の者達はわっちを豊作の神として扱ったが、どちらかといえばうやまうよりもこうそくのほうが近い。最後の麦の束を刈り取った者は皆につかまえられるじゃろ。そして、捕まった者はなわでぐるぐるまきにされる」

「それから穀物庫にごそうと来年用のたねもみと共に一週間入れられるらしいな」

ブタやカモは確かにうまかったがの」


 そんな感想は少し面白い。穀物庫に入れられた者が食べたおくのないものまで消えている、というのはどうやら事実らしいのだが、その犯人が目の前にいるというのは面白いことだ。

 どこかばくぜんとしたその話に対する恐れが、豚やカモにくをがっついているオオカミ姿のホロに変わる。


「しかし、の」


 そんな強めの声がでて、ロレンスは身構える。ホロの口から、怒りの核心が飛び出してきた。


「ヤレイはわっちになんて言ったと思う」


 ホロは下くちびるんで少し言葉につまり、目じりを手のひらでこすった。


「やつはな、わっちの名をゼーレンから聞いただけでもしやと思ったそうじゃ。わっちは、わっちはな、情けないが、それがうれしかった……」


 しかし、そう言うホロはうつむいてぽろぽろと涙をこぼす。


「じゃが、やつはこう言ったんじゃ。私らがあなたのごげんうかがいをする時代は終わった。あなたの気まぐれにびくびくする必要はもう、ない。教会にも目をつけられていたところだから……あなたを教会に突き出して我々は古い時代から決別する、とな!」


 エーレンドットはくしやくが自然学者達と交流を持ち、新しい農法を次々導入して収穫高を上げているというのは知っている。

 ただ、どれだけおがんでいのってもいざという時に無で役立たずな神やせいれいを廃し、自分達の力で何ごとも成し遂げられるというのならそれはとても魅力的なことだ。その上、新しい農法を導入したり、作業を効率よくすることで収穫高が上がるのなら、豊作の神や大地のせいれい達は豊作や不作を気まぐれで操っている、と思わなくもない。

 ロレンスだって、時の運を操る神は気まぐれで人の運命をもてあそんでいると思っている。

 しかし、目の前にいるホロは違うようだった。

 パスロエの村にいた理由は大昔に村人と仲良くなり、またその友人から村の麦畑のことを頼まれたからだったと言うし、少なくともホロはなるべく豊作になるようにと考えていたようだ。

 なのに何百年もその土地にいて、だんだんと自分の存在が周りに認められなくなっていき、最後に一方的な決別の言葉を聞くというのはどういう気持ちなのだろうか。

 ホロの目からぼろぼろ涙がこぼれ落ちる。くやしいと悲しいが一緒くたになったような顔だった。

 ホロは、一人はいやだといった。

 神が自らをあがめるようにと人にいるとするのであれば、やはりそれは寂しいからなのかもしれない。

 そんな大それたことを思ったくらいだから、ホロの涙をぬぐってやるくらいなんでもなかった。


「まあ、ものは考えようだ。北に帰るためにはどのみち土地を去らなきゃならなかった。後ろがみを引いてくれないなら後ろ足で砂をかけてやればいい。そっちのほうが思い切りもいいだろう。ただし、ただじゃ出て行かない」


 どうにか泣きんだもののはなをぐずぐず言わせているホロの頭をでてから、ロレンスは可能な限り不適に笑って言ったのだった。


おれ、いや、俺達は商人だ。もうかればなんでもいい。笑うのは金が入ってから、泣くのは破産してからだ。そして、俺達は笑うんだ」


 俺達、というのにはもちろん力をこめて言ってやった。

 ホロは一瞬ロレンスのほうを見てから、一度うつむいてまたぽろぽろと涙をこぼす。

 そして、ホロはうつむいたままうなずいてから、顔を上げた。ロレンスが再度涙を拭ってやると、ホロは深呼吸をした。まだにじんでいた涙は自分の手で乱暴に拭う。

 それから数瞬後には、涙で湿しめった目とまつげが、りんとした光に輝いていた。


「……ああ、すっとした」


 まだ涙の残りを片手で拭いながら、ホロは照れ隠しするように笑ってロレンスの胸をにぎこぶしで軽く突いた。


「ここ数百年まともに会話しとらんのじゃ。あいらくもろくなっとる。これでぬしの前で二度泣いたがな、ぬしの前でなくても泣いたじゃろう。何が言いたいかわかるかや」


 ロレンスは両手を上げてかたをすくめた。


かん違いするな、と」

「うむ」


 ただ、ホロは楽しそうにぐりぐりとロレンスの胸をついている。

 そんなホロのことがたまらなくいとしくて、だからロレンスは笑いながら言ってやったのだった。


おれかせぎのために相手してやってるんだからな。ミローネ商会が話をまとめてくれるまで逃げることが俺らの仕事だ。そんな最中にめそめそされると足手まといだ。だから俺の前で泣いてるのがお前じゃなくても、俺は──」


 と、その先のロレンスの言葉は出なかった。

 ホロが傷ついたような顔をして、ロレンスのほうを見つめていたからだ。


「……お前、ずるくないか」

「ん、めすの特権じゃろ」


 いけしゃあしゃあと言うので、ロレンスは軽くホロの頭を小突いたのだった。

 そして、そんなやり取りを見計らっていたかのようにぎよしやだいとの連絡窓が開いて、その向こうに少し苦笑を浮かべた御者の口元が見えた。


「到着しましたよ。そちらもひと段落つきましたかな?」

「ん、万全だ」


 わざと気負ってそう答え、ロレンスは馬車のゆかいたを外す。横ではホロがくつくつと笑っていた。


「やはりもうけ話を持ってくる人達というのはちょっと違いますな」

「この耳のことかや?」


 ホロがいたずらっぽくそう言ったが、御者はしてやられたといったふうに笑う。


「また行商人に戻ろうかなと思いましたよ。今の貴方あなた達を見ててね」

「やめたほうがいい」


 石だたみを外し地下道の中を確認して、いったん馬車に上がるとホロを先に行かせてからロレンスは言ったのだった。


「あいつみたいなのを拾うになる」

「なに、荷馬車の御者台は一人じゃ広いです。願ったりかなったりですよ」


 口に浮かんだのが苦笑いだったのは、皆似たり寄ったりなことを思ったりしているようだと思ったからだ。

 しかし、ロレンスはそのまま何も言わず地下道の中に飛び込んだ。何を言っても気恥ずかしい言葉しか出てこなくなりそうだったし、何より、地下道の中にはホロがいたからだ。


「わっちもぬしに拾われて飛んだ羽目じゃ」


 ごごん、と御者が客車に入って石畳のふたを閉じてから、ホロがくらやみの中でそう言った。

 石畳の蓋の向こうから小さく聞こえる馬のいななきを聞きながら、ロレンスはどう切り替えそうかとあれこれ考えたが、何をどう言っても結局はホロが優位に立ちそうだったので、素直にこうさんした。


「やっぱりお前ずるいぞ」

「そんなわっちも可愛かわいいじゃろ」


 当たり前のようにそう言うのだ。ロレンスはこれをどう切り返せばいいのだろうか。

 いや、うまく切り返そうと思うからホロの策にはまるのだ。

 ロレンスはそう思い、最も意外そうな選択を選んだ。ホロの動揺を誘い、そこを笑ってやろうと思った。

 ロレンスは少しせきばらいをする。

 それから、横を歩くホロとは逆を向いて、小さくぼそぼそと照れるように言ったのだった。


「まあ……可愛いとは……思うがな」


 まさかこうくるとは思うまい。

 ロレンスはくらやみの中、口元がにやつくのをなんとかおさえたが、あんじようホロは言葉に詰まったようだ。

 さて、ここで痛快なとどめを刺そう。

 ロレンスは、ホロのほうに向きなおろうとしたその瞬間、手の中にふと柔らかい感触がすべり込んできたことに気がついた。

 それがホロの小さい手だと理解したのは、一瞬頭が空白になってからだ。


「……うれしい」


 はにかむような、あまえるような、そんな少女っぽい口調の小さい言葉にロレンスは動揺せざるを得ない。その上、ホロはロレンスの手を握る力をほんの少し強くするのだ。それこそ、嬉しい、と言ったことを恥ずかしがるように。

 だから、結局止めを刺したのはホロだった。


「ぬしもほんとに可愛い男の子じゃの」


 ちょっとあきれたように言うところがまた余計に腹が立った。言った本人であるホロにではなく、そう言わせるすきを作ってしまった自分に対し。

 ただ、それでホロの手を振りほどこうと思わない自分が少し情けなくもあったし、ホロが手を離さないことが嬉しくもあった。

 それでもロレンスはやっぱり胸中でつぶやいた。

 ずるい、と。

 地下道は静かだ。

 ホロのしのび笑いが、くつくつと響いていたのだった。

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