第六幕 ①

 ぴたり、とホロの足音が止まったのは、足元でネズミが驚きの声を上げて走り去ったからではないだろう。

 ロレンスはねばりつくようなやみの中、ホロのほうを向く。結局いまだに手をつないでいるので方向だけはばっちりだ。


「どうした?」

「空気がかすかに震えとらんか?」


 今、自分達が町のどの辺にいるのかをロレンスはあくできていなかったが、先ほどかられいな水のにおいがしているので市場の近くだろう。さすがに町の横を流れる川から離れているということだけはわかるからだ。

 そして、だとすれば真上をたくさんの人や荷馬車が行き交っていることも楽に想像できる。空気が震えるのも当たり前だろう。


「上じゃないのか?」

「いや……」


 ホロが言いながらきょろきょろしているのがわかる。ただ、通路は前か後ろにしかない。


ひげさえあればもっとはっきりするんじゃが……」

「気のせいじゃないのか?」

「いや……する。音がする。これは音じゃ。水? 水がはねる音……」


 ロレンスは目を見開いて直感した。追っ手だ。


「前からじゃ。これは、まずい、下がりんす」


 ロレンスはホロが言う前にきびすを返し走り出していた。ホロもあわててついてくる。


「ここは一本道なのかや」

おれ達が進もうとしていた先は一本道だ。戻る道にはわき道が一本ある。その先は複雑な迷路だ」

「さすがのわっちもここで迷わない自信はないのう……う?」


 ホロは言って立ち止まった。急に立ち止まるのでつないでいた手が離れ、ロレンスはたたらを踏む。慌てて戻ると、ホロは後ろを向いているようだった。


「ぬし、耳をふさいどれ」

「どうした」

「走っても追いつかれる。向こう、犬を放ちおった」


 一本道で訓練された犬に追われたらばんきゆうすだ。ホロがこのくらやみの中でかなり視界が利いているように、犬も鼻と耳を使い的確に襲ってくるだろう。こちらには犬と戦えるような武器らしい武器もない。いつも携帯している銀の短剣くらいだ。

 しかし、こちらにも犬と似たような者がいる。けんろうの、ホロだ。


「ふふん。頭の悪そうな鳴き声じゃ」


 ホロがそんなふうに言った直後、確かにロレンスの耳にも犬の鳴き声が小さく聞こえてきた。

 反響しているだけかもしれないが、折り重なって聞こえるその鳴き声から察するにおそらく二頭以上だ。

 ホロはどうするつもりなのか。


「犬が馬鹿すぎて理解できんかったらどうしよう。まあ、ぬしは耳をふさいどれ」


 ロレンスは言われたとおりに耳をふさぐ。予想がついた。遠吠えだ。


「……すぅ」


 息を吸い込む音がして、ホロの小さい体のどこにそこまで息が入るのかと思うほどそれが続いた直後、一瞬の間を空けて放たれたそれは地鳴りのごときオオカミほうこうだった。


「アオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!」


 びりびりと手や顔のむき出しのが震えるほどにすさまじい。地下道がほうらくするのではないかと思ったほどだ。

 どんな屈強な大の男のきもでも強引にすりつぶすようなその狼の咆哮に、ロレンスはちゆうからそれがホロのものであることも忘れて必死に耳をふさいで体を丸めていた。

 ロレンスは山や草原で狼の群れに追われたことを思い出す。圧倒的な数に地理のあくと、人ではちできない彼らの運動能力。それらが一緒くたになって襲ってくる。遠吠えはその象徴だ。だからえきびようがはやると疫病を追い払うために村人全員で遠吠えのごとをする村もあるくらいなのだ。


「かはっ……けへっ……のと……のどが……」


 と、ほうこうが雷鳴のようないんを残して消え去った後、耳から手を離して顔を上げればくらやみの中でホロがき込んでいた。細い喉であんな大声を出せば当たり前だ。

 しかし、水などここにはない。


林檎りんご……食べたいのう……けへっ」

「後でいくらでも食え。で、犬はどうなった」

尻尾しつぽ巻いて逃げた」

「ならおれらも逃げるぞ。今ので俺らがいると完全に向こうもわかっただろうからな」

「道はわかるのかや」

「一応な」


 走り出す前にホロのほうに向かって左手を出すと、ホロはしっかりとにぎってきた。

 それを確認してロレンスは走り出す。その頃には、ロレンスの耳にも人のり声がかすかに届いていた。


「しかし、なんでばれたんじゃ」

「的確にここだ、とわかったわけじゃないだろう。おそらく地上で発見できなかったから地下にもぐったらたまたま出会ったという感じだろう」

「そうかや」

「もしわかってて来たのなら、今頃ははさみ撃ち……だ……?」

「なるほど。そのとおりじゃな」


 ロレンスとホロが歩いてきたまっすぐな道の先からくぐもった音が聞こえてきたかと思うと、暗い地下道の先にわずかな光が差し込むのが見えた。先ほどロレンス達が入ってきた場所だ。

 ここでミローネ商会の者が助けにきてくれたと思えるほど楽観的な人生をロレンスは歩んでいない。

 ロレンスは冷たい水を頭からかぶった時のように短く息を吸い込んで、その足を速めた。

 直後に、地下道内に声が響く。


「ミローネ商会はお前らを売ったぞ! 今さら逃げてもだ!」


 そんな言葉を避けるように地下道のわき道を折れると、再度似たような言葉が後ろから響いてくる。

 こういう事態になれば世界中どこでも聞く言葉だ。ロレンスは無視して走っていたが、ホロが不安げに口を開いた。


「わっちら売られたらしいが」

「さぞ高値で売れただろうな。なにせお前がいればミローネ商会の少なくともここの支店をつぶすことができる」

「……なるほど、そりゃあよほどの高値じゃ」


 仮にロレンスとホロが売られるとすれば、マールハイトがミローネ商会の支店と引き換えに、という選択しかない。マールハイトがそんな選択肢を取るとすれば、支店をつぶして私腹をやし、その金を持って逃亡することをくわだてているという場合だが、ミローネ商会という巨大な商会がそんなことを許すとも思えなかったし、その追跡から逃げられるとマールハイトが思うことも考えられなかった。

 すなわち単なるあいさつ代わりのうそなのだが、こういうことに慣れていない感じのホロには効果があったようだ。

 返事を聞いて物分かりよさげにうなずいていたものの、ロレンスの手を握る小さな手には少しだけ力がこめられていた。

 ロレンスは、ホロの小さな不安を握りつぶすかのように手を握り返す。


「よし、ここを右に曲がれば」

「待った」


 と、ホロに言われるまでもなく、角を曲がった直後にロレンスはその足を止めていた。

 ゆるやかに曲がった地下道の向こう。その奥からゆらゆらとゆれるランプの明かりと、「いたぞ!」という言葉が飛んできたのだ。

 ロレンスはすぐさまホロの手を引いて進んできた道をまっすぐに走り出す。続いてロレンス達に気がついた連中も走り出したが、ロレンスの耳にそんな足音は届いていなかった。


「ぬし、道は」

「わかる。大丈夫だ」


 語気荒く答えてしまったのは息が上がり始めたからではない。地下道はみように入り組んで作られているせいで、ロレンスはあらかじめ教えられていた出入り口同士をつなぐ道しか覚えていなかったのだ。

 道がわかるというのは噓でもないが、真実でもない。

 自分がいくつのわき道を通り過ぎ、どこを右に曲がりどこを左に曲がったか覚えていればそれは真実だが、一つでも間違えれば噓になる。

 だちが揺れるようにネズミの群れが逃げていく音や、ほうらくしかけた石壁のざんがいにつまずいた時など頭の中身がすべて消えてしまいそうなさつかくに襲われる。うりかけさいけんかいかけ債権のほとんどをおくしなければならない行商人は、皆それなりに記憶力に自信はあるものの、それでも自信を持って道順を覚えていると思えていたのはそれからわずかの間のことだった。

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