第六幕 ②

 地下道は、あまりにも複雑すぎたのだ。


「また、行き止まりか」


 T字路を右に曲がったらそこはわずかな距離だけで終わっていた。息が上がり始めたロレンスは言ってからつい壁をってしまう。あせっていると公言しているようなものだが、ホロも荒い息をついてさっきよりもますます手に力をこめてくる。

 メディオ商会の連中はここで絶対にロレンス達をつかまえる構えのようで、かなりの人数を放っているようだ。

 もっとも、それはこの地下道の中に反響する怒号や足音から判断していたことだったが、あまりにも反響しすぎてホロですら正確な人数がわからない。

 そうなればあせっている今、耳に入ってくる足音はありの群れよりも多い追っ手の数をロレンス達に想起させる。


「くそ、いったん下がろう。これ以上道を覚えられない」


 無理に先に進んでおくの中の道がこうさくすれば、取り返しのつかないことになる。

 すでに現時点でもかなり怪しかったが、ホロが同意するようにうなずいたのでそれについては言わなかった。ホロを不安にさせたくなかったのだ。


「まだ走れるか?」


 ロレンスは健脚がまんの行商人だから、息は上がっているもののまだまだ走ることは可能だったが、ホロは返事も顔を動かすだけになってきていた。

 人の形だとオオカミのようにはいかないのかもしれない。


「多少ならの」


 そう言った短い言葉も、荒い息の合間だった。


「どこか、適当な場所を見つけて」


 休もう。そう言おうとしたが、その言葉はホロの視線によってなんとかみ込んだ。

 くらやみの中でもふとしたはずみに鈍く輝くホロの瞳は、真っ黒な森の中で冷静に状況をあくする狼のそれだった。

 今は味方であるホロを心強く思い、ロレンスは耳を澄まして呼吸を小さくする。

 じゃり、じゃり、と警戒するように一歩ずつ進む足音が近くから聞こえてきた。

 ロレンスの立っている位置から、右のほうに進んで行った先にあるわき道のどこかから聞こえてくるのだろう。

 二人が来た道は、後ろを振り向いた正面だ。それを戻れば左右に脇道がいくつかある。タイミングを計ってもと来た道を走り、脇道に逃げ込むのが得策だ。

 ロレンスはホロの手を軽く前に引いてそれを知らせると、ホロが小さくうなずく気配が伝わってきた。

 じゃり、じゃり、と足音がゆっくりと近づいてくる。まだその音は壁の向こうにあるという安心感はあるものの、その背後では絶え間なくメディオ商会の連中がわざと足音を立てているかのように走り回り、彼ら独自のちようを用いて会話をしている。

 すでにロレンス達は彼らのわなの中にどっぷりとはまっていて、向こうはその網をせばめるだけ、という気がしてくる。

 ロレンスはひりつくのど固唾かたずを吞み、前に出るタイミングを計る。

 できればメディオ商会の誰かが大声を出した時がよい。

 それを願った直後だった。


「へ、へ……」


 足音のしていたほうからそんな間抜けな息づかいが聞こえてきた。くしゃみだ。

 神からのふくいんだとロレンスは判断し、ホロの手を握る手に力をこめる。


「っくし」


 向こうもしまったと思っていることを示すように、なんとか手で隠そうと努力した感じがうかがえる小さなくしゃみだった。

 しかし、二人が静かに走り出すにはそれで十分だった。

 ロレンスとホロは走り出し、そして、一つ目のわき道を左に入った。

 その瞬間、黒い物が顔の前を横切った。

 ネズミではないと気がついたのは、ホロのものと思われるうなり声が聞こえたからだ。


「ウルルグルルルル!」

「うああ、くそ、ここだ! ここだあ!」


 小柄な子供ほどの黒いかたまりが右に左に揺れているのがくらやみの中で見える。遅れて左ほおに熱いものを感じた。ナイフによる切り傷だろうと思ったのは、そこにれるとぬるりとしたからだ。

 そして、今左右に振られているのがとっさに相手のナイフを持つうでみ付いたホロだと気がついた時には、ロレンスは無我夢中で動いていた。

 時には自分の体重ほどの荷物をかついで山を越え、野を行く行商人のこぶしは銀貨よりも硬い。

 ロレンスは思い切り右拳を握りしめると目一杯に振りかぶり、ホロに嚙み付かれ叫んでいる男の口の少し上をめがけて拳を放った。

 メゴリ、といういやな音に続いてカエルがつぶれたような声がロレンスの拳にからみつく。

 ロレンスは残る手でホロの背中に手を伸ばし、服をつかむと自分に引き寄せた。

 拳を伸ばした先にいた影はそのままゆっくりと後ろに倒れ、ロレンスは口を開く間もなく後ろに下がって別の道を探すべく走り出そうとした。

 しかし、あのくしゃみが偶然ではなくロレンスとホロをいぶりだすわなだったのだと思ったのは、それからすぐのことだった。

 どん、というしようげきのあと、全身の血が逆流するような感覚に襲われた。

 後ろに下がって身をひるがえそうとした瞬間、ロレンスに体当たりを食らわせるようにものが突き立てられていたのだ。


「神よ、我が罪を許したまえ」


 耳元で聞こえた言葉に、ロレンスは相手が自分を殺すつもりなのだと確信した。

 実際、暗闇の中で息をひそめて機会をうかがっていたのだろう相手は、ロレンスを殺したと思っていたはずだ。

 しかし、神はまだロレンスを見放してはいない。ナイフはロレンスの左うで、手首の少し上辺りに刺さっていた。


「罪の前に」


 ロレンスは言いながら足を振り上げ、男のまたぐらをり上げる。


「日頃の行いをいるんだな」


 声もなくこんとうした男を突き飛ばし、ロレンスは右手でホロの腕をつかむと走り出した。

 あっちこっちから叫び声に呼応しメディオ商会の連中が走ってくる音がする。

 わき道を左に折れ、すぐに再び右に曲がる。何か策があるわけでも、道を覚えているわけでもない。

 とにかく走り続けたかった。とても止まれる雰囲気ではなかった。左腕が沼地にはまっているかのように重く、またに焼けた鉄のぼうが刺さっているかのように熱かった。そのくせ左手の手首から先が冷たいのは、血がどんどん流れ出ていっているからだろう。

 この分だともう長くは走れない。ロレンスも旅のちゆうをすることがしょっちゅうなのだ。ある程度自分の体の限界はわかっていた。

 それからどれだけやみくもに走ったのかわからない。だんだんあやしくなる意識の中、飛び交う怒号と足音の反響音が、夜の草原で大雨に降られた時のように頭の中を浸食していった。

 それすらが遠いものとなったのは、ホロのことを気づかゆうどころか自分の体があとどのくらい前に進むかもわからなくなってからのことだった。


「ロレンス」


 自分の名前を呼ぶ声がして、ついに死神がやってきたのかと思った。


「ロレンス。大丈夫かや?」


 そして、ハッと我に返った。気がつけば、ロレンスは自分の体が石壁に寄りかかっていたことに気がついた。


「ああ、よかった。ぬし、何度呼んでも動かんから」

「……く……う、大丈夫だ。ちょっとねむかっただけだ」


 にやりと笑えたかどうかはわからなかったが、ホロは少し怒ったようにロレンスの胸をたたいてきた。


「しっかりしてくりゃれ。もう少しなんじゃ」

「……。何がだ?」

「聞こえてなかったのかや。光のにおいがする。地上に通じとる場所があると言ったじゃろ」

「あ、ああ」


 まったくおくになかったが、ロレンスはうなずくと壁から体を離し、ふらつきながら前に出ようとして気がついた。いつの間にか左腕にほうたい代わりの布が巻かれていた。


「……ほうたい、か?」

「服のそでを破っての。ぬし、それすら、気がつかんかったのかや」

「いや、気がついていた。大丈夫だ」

刊行シリーズ

新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙XIの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙Xの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙IXの書影
狼と香辛料XXIV Spring LogVIIの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙VIIIの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙VIIの書影
狼と香辛料XXIII Spring LogVIの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙VIの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙Vの書影
狼と香辛料XXII Spring LogVの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙IVの書影
狼と香辛料XXI Spring LogIVの書影
狼と香辛料XX Spring LogIIIの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙IIIの書影
狼と香辛料XIX Spring LogIIの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙IIの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙の書影
狼と香辛料XVIII Spring Logの書影
狼と香辛料XVII Epilogueの書影
狼と香辛料XVI 太陽の金貨<下>の書影
狼と香辛料XV 太陽の金貨<上>の書影
狼と香辛料XIVの書影
狼と香辛料XIIISide ColorsIIIの書影
狼と香辛料XIIの書影
狼と香辛料XISide ColorsIIの書影
DVD付き限定版 狼と香辛料と金の麦穂の書影
狼と香辛料Xの書影
狼と香辛料ノ全テの書影
狼と香辛料IX対立の町(下)の書影
狼と香辛料VIII対立の町(上)の書影
狼と香辛料VIISide Colorsの書影
狼と香辛料VIの書影
狼と香辛料Vの書影
狼と香辛料IVの書影
狼と香辛料IIIの書影
狼と香辛料IIの書影
狼と香辛料の書影