第六幕 ③

 今度こそきちんと笑いながら言えたので、ホロはそれ以上何も言ってこなかったが、歩き出したら前に出たのはホロだった。


「もう少しじゃ。あの道を突きあたって、右に曲がれば……」


 ホロがロレンスの手を引き、振り返りつつ言った言葉がちゆうで切れた理由はロレンスにもよくわかった。

 後ろから足音が聞こえてきたからだ。


「早く、早く」


 ホロがほとんどかすれた小さな声でかし、ロレンスは最後の力を振り絞って足を前に出す。

 足音はロレンス達に近づきつつあったがまだかなり距離がある感じだ。このまま一度地上に出てしまえば、ロレンスは大を負っているのだ。町の人間に助けを求められなくもない。

 そうすればメディオ商会の連中も表立って騒ぎを起こしたくないはずだから、その間にミローネ商会に連絡をつけ、改めてホロだけを逃がせばいい。今はとにかくミローネ商会の者と連絡を取り、仕切りなおすことが重要だ。

 ロレンスはそんなことを思いながら石のように重い体を引きずって前に進み、やがてホロの言葉どおりに光が眼に入ってきた。

 光は突きあたりの右から左に向かって差し込んでいるようだ。後ろの足音も近くなってきている。しかしこのまま行けばなんとかなりそうだった。

 ホロが急かすように力強くロレンスの右うでを引っ張り、ロレンスもできる限りそれに答える。

 そして、ついに突きあたりを右に曲がる。

 道の最奥に、明白な光があった。


「地上に通じとる。もう少しじゃ」


 ホロの言葉にも活力が戻り、ロレンスは元気づけられるように前に進んでいく。

 狩りは獲物側がきんで勝った。

 ロレンスは少なくともそう確信した。

 ホロが、泣きそうな声を上げるまでは。


「そん、な……」


 ロレンスはその声で顔を上げた。

 うつむいていても地下道のくらやみに慣れた目には痛いくらいの光だったため、しばらくまともに目を開けられなかったが、やがて光に目が慣れてくるとそこがどうなっているのかがよくわかった。

 地下道が地下水道として機能していた頃のものだろう。今は使われていない井戸がそこにはあり、ぽっかりと空いた円形の穴から光が差し込んでいるのだ。

 しかし、地下道の中からその井戸を通して見上げる空はあまりにも遠い。ロレンスが背伸びをして手を伸ばせばどうにか届くかといったてんじようのさらに先に、井戸の出口がある。

 ロープも梯子はしごもない今、二人がその穴を登ることはまず無理だった。

 まるで高利貸しが天国への道のりの遠さを絶望するかのように、ホロとロレンスの二人は沈黙する。

 そして、そんな二人を追い詰めたことを確信するかのような足音がついに角から現れた。


「いたぞ!」


 叫び声で二人はようやく振り返った。

 ホロがロレンスの顔を見上げたが、ロレンスはまだ動く右手でこしの短剣を抜き、水の中にいるような動きでゆっくりとホロの前に立ちはだかった。


「下がっていろ」


 本当はもう少し前に出るつもりだったのだが、ロレンスの両足はすべての力を使い果たしてしまったようだ。それ以上一歩も動かず、そこに根を張ってしまったかのようだった。


「ぬし、そんな、無理じゃろ」

「なに、まだいけるさ」


 軽く言えたのはぎようこうだ。ただし、振り向いてかた越しに言うことまでは無理だったが。


「そんな、わっちの耳じゃなくてもうそじゃと聞き分けられる」


 ホロがわずかに怒りながらそう言ったが、ロレンスは聞く耳を持たずに前をえていた。

 メディオ商会の面々は視界に入っているだけで五人。それぞれこんぼうやナイフを持っている上に、その後ろからさらに複数の足音が聞こえている。

 しかし、圧倒的に有利なはずの彼らはすぐに前進してくるわけでもなく、角を曲がったところでこちらを見つめていた。

 応援を待っているのだとは察しがつくものの、五人もいれば十分すぎるほどに十分だろう。なにせロレンスはどう見ても戦力にならず、ホロは見たまんまのむすめなのだ。

 それでも彼らは動かず、やがて複数の足音が到着した。たいしていた五人が振り返り、道をあける。


「あ」


 そして、角から現れた人物を見て、ホロが声を上げた。

 ロレンスも思わず声を上げそうになっていた。

 角から現れたのは、ヤレイだったのだ。


「報告されるにんそうからそうじゃないかと思っていたんだよ。まさか本当にお前とはな、ロレンス」


 町の城壁の中で暮らす者とも、ほこりあせにまみれて生きる行商人とも違う、土と太陽の色をしたヤレイは少しかなしそうな顔をして前に出た。


「こっちも意外だったな。金物のにおいといえばかまくわだけだったはずのパスロエの村が、こんな大それた銀貨取引をたくらんでいたとはな」

「この取引を理解している村人は少ないがな」


 まるで自分は村人ではない、と言わんばかりのヤレイだったが、身にまとっているものを見ればそれも納得がいく。ヤレイが深くメディオ商会と付き合っているのはその服の色とを見ればよくわかる。

 つつましい農村生活を営んでいてはとても手に入らないようなものばかりだった。


「まあ、積もる話は後にしよう。時間がない」

「つれないじゃないかヤレイ。せっかく村に寄ったというのに会えなかったんだぜ」

「その代わり、別の者に会っただろう?」


 ヤレイはロレンスのかた越しに後ろのホロに視線を向けて、後を続ける。


おれもまさかとは思ったが、昔話の中に出てくるそれとあまりにもそっくりだ。村の麦畑に住みつき、その豊作きようさくを自在に操れるオオカミしんに」


 ホロがぴくりと動いたのがわかったが、ロレンスは後ろを振り向かなかった。


「そいつをこっちに渡せ。おれ達は、そいつを教会に差し出して古い時代と決別する」


 ヤレイが一歩前に進み出る。


「ロレンス。そいつがいればミローネ商会をつぶすこともできる。その上関税をてつぱいできれば、うちの村の麦はばくだいな利益を生む。それはうちの麦を扱う商人にも同様だ。積荷に税金のかからない商品ほどもうかるものはないだろう?」


 ヤレイが二歩前に進むと、ホロがロレンスの服をつかんできた。ふらつくロレンスにもわかるほど、その手は震えている。


「ロレンス。重税のせいで苦しかったうちの村の麦を買ってくれたお前には全員がいまだに感謝している。お前に優先的に麦の買い付けを認めるくらいぞうもない。その上、俺とお前との付き合いじゃないか。なあ、ロレンス。商人なら、損得かんじようくらいできるだろう?」


 ヤレイの言葉が頭にじんわりとしみこんでくる。税金のかからない麦。それはむぎの先に金が実っているのと同じだ。ヤレイの取引に乗ればきっと財産は倍々で増えていくだろう。

 そして、資金ができればパッツィオに自前の商店を構えることも可能かもしれない。そうすればパスロエの村との優先的な麦の取引という武器を手に、どんどん商売を拡大していけることだろう。

 ヤレイの言葉の先には、あまりにも大きい夢が広がっている。


「損得勘定くらいはできるさ」

「おお、ロレンス」


 ヤレイが顔を明るくして両手を広げ、ホロが服を摑む手に力をこめる。

 ロレンスがなけなしの体力を使って後ろを振り向くと、ホロもロレンスのことを見上げてきた。

 はく色のホロの目は、ロレンスのことをかなしげに見つめたのち、すぐに伏せられた。

 ロレンスは、ゆっくりと前を向く。


「しかし、契約を守ることこそ良き商人の第一条件だ」

「ロレンス?」


 ヤレイがいぶかしげに問い返し、ロレンスはさらに続けた。


「何のいんか拾ってしまった変なむすめは北に帰りたいとしよもうだ。おれはその旅に同伴する契約を結んじまったからな。ヤレイ、契約をにすることは俺にはできない」

「ぬし……」


 ホロのそんな驚いた声を聞きながら、ロレンスはまっすぐにヤレイをにらみつける。

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