第六幕 ④

 ヤレイは頭を振って理解できないというふうにすると、大きなためいきをついてから、顔を上げたのだった。


「ならば俺も俺の契約を遂行するまでだ」


 ヤレイが軽く右手を上げると、やり取りを黙って見つめていたメディオ商会の連中が身構えた。


「ロレンス。短い付き合いだった」

「行商人に別れはつき物だ」

「男は殺してもいい。娘は必ず生けりにしろ」


 ヤレイは別人のような冷たい声でそう言って、メディオ商会の連中が前に出た。

 ロレンスは右手に持つ銀の短剣をつかむ手に力を込め、地面に張り付いてしまったかのような足を何とか前に出そうとする。

 ほんの少しでも時間をかせげれば、ミローネ商会の面々がここに来てくれるかもしれない。そんな希望を抱きながら短剣をかつこうに振り上げた。

 ホロのうでが体に巻きついたのは、そんな瞬間だった。


「く、ホロ、何を」


 ホロの細い腕がロレンスの体を抱きかかえ、ロレンスの体を無理やりに引き倒したのだ。

 ホロの体のどこにこんな力があったんだと思ったものの、それは多分ロレンスの体にまったく抵抗する力がなかっただけだろう。

 実際、ホロはロレンスの体を支えきれなかったようで、ロレンスはほとんど地面にしりもちをつく格好だった。そのしようげきで手にしていた短剣も手から飛んでいってしまう。

 ロレンスは短剣を拾おうとあわてて体を起こそうとするがくいかない。伸ばした腕すら支えきれず、前のめりに倒れてしまった。


「ホロ……短剣を」

「もうよい」

「ホロ?」


 ロレンスの言葉にホロは返事を返さず、前のめりに倒れたまま動けないロレンスの左うでに手をかけた。


「少し痛いかもしらんが、まんしてくりゃれ」

「何を」


 ロレンスがそう言い終わる前にホロはロレンスの左腕に巻かれていた布をほどき、あらわになった傷に鼻を近づけにおいをぐ。

 ロレンスの記憶がよみがえる。ホロと出会った時のやり取りだ。ホロが本物のオオカミであるのなら、その狼の姿を見せてみろと言った時。

 ホロはこともなげに答えたのだ。

 元の姿に戻るには多少の麦か──

 または、生き血が必要なのだと。


「何をしている! 早くらえろ!」


 ヤレイの声が響き、ホロの異様な行動に足が止まっていたメディオ商会の面々がハッと我に返ったように武器を構えなおし詰め寄ってくる。

 その直後、ホロの眼が閉じるのと入れ替わりにくちびるの下から二本のきばしゆつし、ロレンスの傷口に突き立てられた。


「血、血を吸っているぞ!」


 そんな声が上がった。

 ホロはそんな声に目を少しだけ開き、ちらりとロレンスのことを見上げた。

 その時、自分がどんな顔をしていたのかは、ホロがかなしそうに笑ったことからわかってしまった。

 血を吸うのは、悪魔とけ物以外にいないのだ。


「ひるむな! 単なる悪魔きのむすめに過ぎない! つかまえろ!」


 そんなヤレイの声も男達の足を前に進ませる役には立たなかった。

 ホロがゆっくりとロレンスの腕から口を放すと、すでにその変化は始まっていたからだ。


「ぬしが」


 ざわりざわりと、ホロの長かったかみの毛が明らかに人の物ではない毛に変わっていき、破られたそでからのぞく腕もけもののそれに変わっていく。


「わっちを選んでくれたことはずっと覚えておく」


 唇のはしからしたたる血を、手ではなくに燃える舌でなめ取ったことが印象的だった。


「ぬしよ」


 ホロは立ち上がり、ロレンスのほうを向いて、やはり哀しそうに笑いながら最後に小さく言ったのだった。


「もう、見ないでくりゃれ」


 次の瞬間、ホロの体がふくれ上がったかと思うと布地を引きく音とともにその下から爆発的にかつしよくの毛があふれ出し、切り裂かれた布地に混じって麦の詰まった皮袋が落ちる。

 ホロが宿るというそれにロレンスはほとんど反射的に手を伸ばし、次に顔を上げた時にはすでにそこに巨大なオオカミがいた。

 突如現れた巨大な褐色の狼はねむりから覚めたかのように頭を左右に振り、体の具合を確かめるように前足で何度か地面をたたく。

 狼のてのひらかまのようなつめを有し、むき出しにされたきばは一本一本の形がはっきりわかるほどに大きく、口は人を軽く丸飲みできるほどにでかい。

 体の周囲の空気が重く感じるほどの重量感に、近くにいるだけでけてしまいそうな熱気。そのくせ、狼の目はどこまでも冷静に澄み切っているのだ。

 逃げられない。

 人間ならすべからくそう思うことだろう。


「う、うあああああああああああ」


 一人がそう叫んだのがきっかけだった。その場にいた大半の者が武器を放って走り出し、二人がおそらく恐怖のあまりだろうが武器を狼に向かって投げつけた。

 巨大な狼は実にしゆんびんに口を動かすと、投げられた武器二つを口でらえ、なんのこともないように鉄製のそれらをくだく。


 これが神。

 北の地では、人間にはどうしようもないモノ達、という意味で神という言葉が使われる。

 ロレンスはその意味がよくわからなかったが、今ならわかりすぎるほどにわかる。

 どうしようもない。こんな狼、どうしようもない。


「ぐ」

「お」


 武器を投げた二人が上げた声はそんな短いものだったが、それが声と呼べるかどうかは疑問だ。

 狼の巨大な前足でぎ払われ、壁にたたきつけられたのだ。カエルがつぶれる時に鳴くようなものだろう。

 そして、狼はまるで地面をすべるかのように走り出した。


『ぬしら、生きて帰れると思うなよ』


 ぶとく地をうような声が響いた直後、爪と金属のぶつかる音や、ちゆうれるはめになる悲鳴が響き、ロレンスは必死に体を起こしてその後を追おうとした。

 しかし、さんげきは一瞬だった。

 狼の体の動きが止まると、おそらく最後まで残されていたのだろう男の声が聞こえてきた。


「か、神はいつもそうだ。いつも……いつも、じんだ」


 ヤレイの声だった。

 それに対する返事はない。その代わりに、ぐわ、と巨大な口を開ける音が聞こえ、ロレンスはたまらずに叫んでいた。


「やめろホロ!」


 がちん、という音は巨大な口が閉じられた音だろう。

 ロレンスはヤレイの上半身が食われたところを想像してしまったが、ヤレイが逃げられたとはとても思えない。りようけんにらまれた鳥は絶対に空を飛べないからだ。

 しかし、しばしの沈黙の後、狭い通路でも難なくくるりと振り向いたホロの口は血にれてはいなかった。

 代わりに、気絶してぐったりとしているヤレイがそのきばにひっかかってぶら下がっていたのだった。


「ホロ……」


 ロレンスはあんのため息とともにその名前をつぶやいたが、ヤレイをどさりと地面に落としたホロは視線をロレンスに向けなかった。

 代わりに、短く言葉を呟いた。


『麦を』


 体つきにふさわしい地をう声に、ロレンスは一瞬体をびくりとすくませてしまう。

 それがあのホロだとわかっていても、どうしようもない。まっすぐに視線を向けられたら、ロレンスだって正気でいられるかどうかわからない。

 その狼は、あまりにもこうごうしい。


『麦を』


 再度言われ、ロレンスは無意識のうちにうなずき手の中の皮袋を差し出そうとした。

 そして、ふと思いとどまった。何か、いやな予感がした。


「麦を、どうするつもりだ?」


 ロレンスが尋ねると、ホロはしばし無言だったが不意に足を前に出した。

 その瞬間、重圧のようなものを感じてロレンスは体をのけぞらせてしまう。

 それが決定的なあやまちだったと気がついたのは、ホロが牙だらけの口を少しゆがめたからだ。


『それが答えじゃ。麦を』

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