終幕 ①

 真っ暗なやみの中に立っている。そこがどこで何をしているのかわからない。

 上も下も右も左も真っ暗で、そのくせ自分の体はよく見えた。

 一体どこなのだろうか。

 そんなことを思っていると、ふと視界の隅を何かがよぎった。

 ロレンスは反射的にそちらを振り向くが、何もない。気のせいかとも思ったものの、目をらしたりこすったりしていると、再び視界の隅を何かがよぎった。

 ほのお

 とっさに思ってそちらを振り向くと、今度は視線の先にそのよぎった何かがきちんと見えていた。

 ゆらゆらと揺れる、こげ茶色の何か。

 ロレンスは目を凝らしてそれを見つめると、やがてそれが炎ではないことに気がついた。

 毛だ。長いこげ茶色の毛のかたまりが揺れているのだ。

 ふさふさとした、その先っぽが白い毛の塊。

 ロレンスはその瞬間、目を見開き息をむと、全速力でけ出していた。

 あの毛の固まりは。あの先っぽの白さは。

 ホロだ。ホロの尻尾しつぽに間違いない。

 ゆらゆらと揺れながらだんだんと小さくなっていくそれを、必死に追いかけながらロレンスは叫んでいた。

 しかし、声は出ず、ホロの尻尾しつぽとの距離も縮まらない。

 ロレンスはどんどん重くなる足にいらち、歯を食いしばりながらだとわかりつつも右手を前に伸ばしていた。

 そして、ホロの尻尾はとうとつに視界から消えた。

 その直後、ロレンスの目は見慣れない部屋のてんじようを見つめていた。


「うっ」


 とっさに体を起こそうとしてロレンスは左うでに走った激痛にうめいてしまう。一瞬何がなんだかわからなかったが、その激痛が引き金になって様々な記憶がよみがえる。

 メディオ商会に追いかけられていたこと。左腕を刺されたこと。彼らに追い詰められたこと。

 そして、ホロが立ち去ってしまったこと。

 あの時、最後に見たホロの尻尾がかなしげに揺れながら遠のいていくところを思い出し、ロレンスは大きくため息をついた。

 もっとましな言葉があったのではないかと、体を起こすのもおつくうになった頭でそう思った。

 ここがどこなのかという疑問すら、その後悔の前にはちりあくただった。


「あ、お目覚めですか」


 しかし、不意にそんな声に振り向けば、開け放たれたままのとびらの向こうにマールハイトの姿があった。


「傷の具合はいかがですか」


 書類を手にしながらマールハイトはロレンスのほうに歩み寄り、ロレンスの枕もとの木窓を開け放つ。


「ええ……お陰さまで」


 木窓から入ってくるさわやかな風と、それに乗って聞こえてくるけんそうから、ここがミローネ商会の一室だということがわかった。

 と、いうことは、ロレンスはあの後に救援に来たのだろうミローネ商会の者に無事保護されたということだ。


「こちらのぎわで危険な目にあわせてしまい、申し訳ありませんでした」

「いえ。元はといえば私の連れが原因ですから」


 ロレンスの言葉に、マールハイトはなんとも言えないといった表情でうなずき、それから言葉を選ぶようにしばし沈黙して、ゆっくりと口を開いた。


「教会には運良く見つかりませんでした。騒ぎも地下道内で起こったのが幸いしました。もしもロレンスさんのあのお連れの方の姿が教会の目に止まっていたら……もしかしたら支店だけではなく、本店まで火にくべられていたかもしれません」


 その言葉に、ロレンスは驚いて聞き返していた。


「ホロの姿を見たのですか?」

「はい。地下道内にあわてて救援に入った部下から報告がありまして、ロレンスさんを発見したものの巨大なオオカミが私を連れてくるまでロレンスさんは渡さないと言っていると」


 マールハイトがうそをつく理由はどこにもない。だとすれば、ロレンスが気を失った後、ホロは戻ってきてロレンスのそばにいてくれたのだ。


「それで、それでホロは、今どこに?」

「市場のほうに行かれましたよ。気の早いことに、旅装を整えてくると」


 事情を知らないのであろうマールハイトは軽くそう言ったが、ロレンスからすればそれはホロが一人で旅に出ることを示していた。

 きっと今頃は北に向かう道の上だろう。

 それを考えると胸にぽっかりと大きな穴が空いたような気持ちだったが、逆にそれで吹っ切れたような気もした。

 元々ホロとは偶然ともいえないほどみようなことで数日間一緒に過ごしただけなのだ。

 数日の間夢を見ていたのだと思えば、まんできないこともなかった。

 ロレンスはそう思うことで無理やりにでも一応気持ちの切り替えをつけ、頭の中を商人のそれに戻していった。

 マールハイトの言葉には、ホロのことと共に重要なことがもう一つ含まれていたからだ。


「ホロが市場に行ったということは、メディオ商会との取引はうまくいったということですか」

「はい。今朝、トレニー城に走らせた者が無事帰りまして、王との取引をまとめてきました。メディオ商会が最も欲しがりそうな特権を無事引き出せましたよ。そして特権をえさにメディオ商会に交渉を持ちかけましたら、メディオ商会も事態をあくし完全な負けを察していたようです。実にえんかつに事が運びました」


 マールハイトは誇らしげに答える。


「そうですか。それはよかった……。しかし、そうすると私は丸一日くらいねむっていたということですか」

「え? ええ、そうなりますね。あ、昼食はいかがですか。先ほど昼を回ったばかりなので、まだちゆうぼうも火を落としていないでしょうから、温かいものを用意できますが」

「いや、結構です。それより、取引のしようさいを聞かせてもらえませんか」

「はい。わかりました」


 無理にめしすすめないあたりが南の人間だとロレンスは少しおかしく思った。これがこの辺の人間となると意地でもロレンスに飯を食わせようとしただろう。


「我々が回収した銀貨の総枚数は三十万七千二百十二枚。王はかなりだいたんに銀の切り下げを行うようで、即金にて三十五万枚相当のへいで支払っていただけるとのことです」


 さすがに目もくらむような数字だ。ただ、ロレンスはその数字に怖気おじけづくことなく自分の利益を計算する。

 契約ではミローネ商会の得た利益に対して五分。ざっと計算すれば、銀貨二千百枚のもうけだ。

 それだけあれば、ロレンスの夢、自前の商店を開く夢は現実のものとなる。


「ロレンスさんとの契約によれば、お渡しするのは我々が得た利益の五分です。相違ございませんね?」


 マールハイトの言葉にロレンスはうなずき、マールハイトもうなずく。

 そして、マールハイトは一枚の書類をロレンスに手渡したのだった。


「ご確認ください」


 その言葉はロレンスの耳に入らなかった。

 手渡された紙には、信じられない数字が書かれていたのだ。


「こ……れは」

「銀貨にして百二十枚。それが我々の利益の五分です」


 マールハイトの言葉はあまりにもれいてつだ。

 ただ、ロレンスはそれに対して怒ることもできない。なぜなら、ロレンスの手の中にある書類には、ロレンスの分け前がそんなはした金になった理由が実にしようさいに書かれていたからだ。


「我々が用意したへいうんぱん料、また王が支払う銀貨の運送料、銀貨運送に伴う関税、それに、契約そのものに対する契約手数料。王に入れ知恵したのは御用商人でしょう。特権を引き渡す代わりに、せめて銀貨買取の際の損くらいは取り返そうと思ったのでしょう」


 明細を見れば、王はその立場を実にうまく利用して、ミローネ商会から金を取り返そうと画策しているのが見て取れる。

 ミローネ商会が集めた銀貨の運搬料をミローネ商会に負担させた上に、王が支払う銀貨も為替かわせではなく銀貨そのもので支払うと言い張っている。数十万枚に及ぶ銀貨の運搬にはばくだいな費用がかかる。馬や人、銀貨を入れる木箱、それに護衛の者達。

 その上、王は契約の際の契約書作成料という名目で、ものすごい金額をふんだくっている。

刊行シリーズ

新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙XIの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙Xの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙IXの書影
狼と香辛料XXIV Spring LogVIIの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙VIIIの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙VIIの書影
狼と香辛料XXIII Spring LogVIの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙VIの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙Vの書影
狼と香辛料XXII Spring LogVの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙IVの書影
狼と香辛料XXI Spring LogIVの書影
狼と香辛料XX Spring LogIIIの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙IIIの書影
狼と香辛料XIX Spring LogIIの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙IIの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙の書影
狼と香辛料XVIII Spring Logの書影
狼と香辛料XVII Epilogueの書影
狼と香辛料XVI 太陽の金貨<下>の書影
狼と香辛料XV 太陽の金貨<上>の書影
狼と香辛料XIVの書影
狼と香辛料XIIISide ColorsIIIの書影
狼と香辛料XIIの書影
狼と香辛料XISide ColorsIIの書影
DVD付き限定版 狼と香辛料と金の麦穂の書影
狼と香辛料Xの書影
狼と香辛料ノ全テの書影
狼と香辛料IX対立の町(下)の書影
狼と香辛料VIII対立の町(上)の書影
狼と香辛料VIISide Colorsの書影
狼と香辛料VIの書影
狼と香辛料Vの書影
狼と香辛料IVの書影
狼と香辛料IIIの書影
狼と香辛料IIの書影
狼と香辛料の書影