第三幕 ⑦

 ホロが指差したのは、パン屋の露店だ。昼前ということもあって焼きたてのパンが並び、露店の前では小間使いなどが主人や兄達の昼食を調達するためだろう、一人では絶対に食べきれない量のパンを選んでいる。


「パンか?」

「うん。あれ、あのはちみつかかっとるやつ」


 露店の軒先からこれ見よがしにつり下げられている細長いパンのことだ。上から蜂蜜を何べんも垂らしてたっぷりと蜂蜜をからませたそれはどこの町でも人気のいつぴんだ。確か、どこかの町ではパンをのきさきからつるしてこれ見よがしに蜂蜜をたらしながら客引きをしたら、人気のあまり取り合いのけんになってついにパン屋の組合法で蜂蜜はパンにかけてから軒先につるすこと、と決まったという話を思い出した。

 確かにそれほど魅力的なパンだが、それにしてもあま党なオオカミだな、とロレンスは苦笑を禁じえない。


「お前金持ってるだろ。欲しければ買ってくればよい」

「パンと林檎りんごで価値がそう変わるとも思えん。ぬしはわっちが持ちきれない分のパンを持ってくれるのかや? それとも、たくさんのつり銭を出させてあのパン屋の女将おかみいやな顔をさせるのかや?」


 それでようやく理解した。ホロが持っているのはトレニー銀貨だけだ。確かに、パン一個買うには大きすぎるお金だ。林檎ですら、両手で持つのは困難な量になった。


「わかったわかった。細かいの渡すから……両手出せ。ほれ、この黒いやつ一枚で大体あのパン一個だ」


 言われるがままに差し出されたホロの小さい両手からトレニー銀貨を取り上げると、代わりに黒ずんだ銀貨や茶色い銅貨を渡し、そのうちの一枚を指してそう言ってやった。

 ホロはしげしげと自分の手の中のへいを見つめてから、不意に言ったのだった。


りようがえなどしとらんじゃろうな」


 り飛ばそうと思ったが、ホロはその時にはすでに身をひるがえしてパン屋のほうに歩いていた。


「口の減らないやつだ」


 ロレンスはき捨てるようにそう言ったが、実のところそれが楽しくないわけではない。

 ホロが満面の笑みをたたえてパンにかぶりつきながら戻ってきたのを見れば、やっぱり笑わざるを得なかったのだった。


「道を歩いているやつにぶつけるなよ。めごとはごめんだからな」

「わっちを子供扱いかや?」

「口の周りをべたべたにしながらはちみつパンにかぶりついている姿は誰がどう見たって子供だろうよ」

「……」


 突然黙り込んだので怒ったのか、と思ってしまったが、ろうかいオオカミは当然怒ったりはしなかった。


可愛かわいい?」


 小首をかしげて上目づかいにロレンスのほうを見てそんなことを言ったので、ロレンスは頭をひっぱたいてやったのだった。


「まったくじようだんのわからんやつじゃな」

おれなんでね」


 幸い、内心少しうろたえてしまったことは気づかれなかったようだ。


「で、ぬしは何に気づいたのかや」

「ああそうだ。それだ」


 かいな指摘をされる前に、さっさとその話に入ったほうがよさそうだった。


「例の話がこのトレニー銀貨だとすると、あながちゼーレンの話がうそだとも言えなくなる」

「ほう?」

「銀を切り上げる理由というのも一応ある。えーと……これか。この銀貨、フィリング銀貨という。南に下って川を三つ渡った先の国のものだがな、銀の純度がなかなかで市場では人気がある。トレニー銀貨のライバルといったところだ」

「ふむ。へいが国の力を表しているのはいつの時代も一緒のようじゃの」


 み込みの早いけんろうはパンをかじる。


「そうだ。国と国の戦争は何も兵士同士の戦いに限らない。他国の貨幣に自国の市場をせつけんされた時、その国は戦争に負けたのと変わらない。他国の王が、その貨幣流通を減らすと宣言するだけでもう自国の市場はちつそくする。物を売り買いするにも、貨幣がなければ話にならない。言うならば国の経済活動をぎゆうられるのと同じだ」

「つまりは、ライバルを倒すために銀の純度を上げるという理由がある、というわけかや」


 あっと言う間にパンを食べ終わり、ホロは指をなめながらそう言った。

 そこまでいけば、ホロは自然とロレンスの言いたいことに気がつくだろう。


「ま、わっちの耳も万能ではないからの」


 そして、やはり気がついたようだった。


「可能性として、ゼーレンが噓をついていない場合も十分にあり得る」

「うん。それはわっちも賛成じゃな」


 意外にしゆしようなのでロレンスは少し驚いた。自分で百発百中ではないと言いつつも、疑ったら疑ったでてっきり自分の耳を疑うのかとか怒ると思ったのだ。


「なんじゃ、わっちが怒ると思ったのかや?」

「そのとおりだ」

「そう思われたことに対してなら怒るかもしらん」


 いたずらっぽく笑ってそう言ったのだった。


「まあ、どちらにせよあり得るということだ」

「ふうん。で、今からどこに行くのかや」

「どの銀貨の話かわかったからな。それを調べに行く」

ぞうへいじよ?」


 な顔をしてそう言ったので思わず笑ってしまった。これには少し怒ったらしい。口をとがらせてにらんできた。


おれらみたいな商人がそんなところに行っても兵士のやりで突かれるだけだ。りようがえ商のところだよ」

「ふん。わっちにだって知らぬことくらいある」


 だんだんと、ホロの性格がつかめてきたような気がした。


「で、両替商のところで最近の銀貨の様子を見るというわけだ」

「ん……見て、どうするのかや」

へいに大きな動きがある時はな、必ずちようのようなものがある」

「嵐の前れのような?」


 例えが面白かったので、少し笑う。


「まあ、そんなところだ。大きく純度が下がる時はほんの少しずつ下がり、大きく上がる時はほんの少しずつ上がる」

「ふうん……」


 と、よくわからない様子だったので、ロレンスはせきばらいをしてから頭の中にたたき込んであるしようの講義を引っ張り出してきた。


「貨幣というのはな、ほとんど信用で成り立っている。そこに入っている銀や金と同じ重さの銀や金の値段と比べたら、銀貨や金貨は明らかに価値が高い。もちろん価値の設定は実にしんちように決められてはいるが、本当はそれだけの値打ちのないものに価値を見出すわけだから、それは信用のかたまりと言っていい。その上、実のところ貨幣なんてものの純度の変化は、よほど大きく変わらない限り正確にはわからない。両替商でもはっきりとはわからない。つぶさない限りわかりっこないんだ。ところがな、貨幣というのがそんな信用の上に成り立っているものだから、ある貨幣に人気が集まれば額面以上の価値を持つことが多々ある。その逆もしかりだ。そして、その人気の上下のきっかけは色々あるが、最も多いのは銀や金の純度の変化だ。だから人は異常にへいの変化に敏感になる。それこそ、てんびん眼鏡めがねでは見つからないほどほんの少しの変化を、大きな変化と思うほどにな」


 ロレンスのじようぜつな説明が終わると、ホロは思案顔で遠くを見る。さすがのホロでもこれを一回では理解できないだろうと、ロレンスはホロの質問にすぐに答えられるようにと待ち構えていたのだが、なかなか質問はこなかった。

 よく見れば、ホロの横顔はわからないことをあれこれ考えている顔ではなく、何かを確かめているような顔だった。

 信じたくはないが、ホロはもしかするとたった一度の説明で理解してしまったのかもしれなかった。


「うむ。つまりはあれじゃな。貨幣を作る側は大きく純度を変える前にほんの少しだけ純度を変えて皆の期待を測り、その反応を見て純度を上げるか下げるかの機会をうかがうというわけじゃな?」

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