第二幕 ⑦

 げ場のさらにおくつながるろうからどやどやと足音がしたかと思えば、海が割れるように人々がすみに寄った。出てきたのはお付きの者を従えた高位の人物で、高位の、とすぐにわかるのは、服の仕立てが見るからにちがうのと、そのふんのせいだ。あるいは王家の血が見せる、男から見てもなお目を引くほどの顔立ちと、目も覚めるような金色のかみのせいかもしれない。ウィンフィール王国には黄金羊の伝説が残っているのもうなずける。

 ハイランドその人だった。


「これはこれはハイランド様」


 ステファンがこしを折って敬礼すると、ハイランドは楽にするようにと手のひらで止める。

 そして、こちらを見やると旧友に会ったかのようながおを見せた。

 あわてて、ステファンにならい頭を下げる。


「ごげんうるわしゅう。ハイランド様」

「コル博士もお変わりなく」


 自分より年若いハイランドは、独特のかすれた声でこちらのことをわざとらしく博士と呼んだ。博士のしようごうは教会からさずけられるけんあるもので、そのしようごうを持つ者がいるところが大学になるほどのもの。つうに考えれば自分が博士であるというのはあり得ないことだが、ハイランドが口にすると、まさか? となる。お付きの者やステファンのおどろきように、さすがにほおが熱くなる。


「おたわむれを。博士などとおそおおいことです」

「では、そちらもそのかたくるしさをやめてもらおうか?」


 悪戯いたずらっぽいみと共に言われてしまう。


「コル、君の学識にはかなわないし、その能力にたよらせてもらう。しかし、君は私におもねるのが仕事ではないだろう?」


 湯屋で議論を戦わせた時も似たようなことを言われたが、それはハイランドの気さくさでありながら、いくぶんかは願いであるのかもしれない。

 おもねるのが仕事、という言葉に、いんぎんなステファンが不自然なほど素知らぬ顔をしていた。


「わかりました。けれど、私は元々こんな話し方なのです」

「結構」


 少年を思わせるじやみを見せてハイランドは言うと、「それで」としようを混ぜた。


「そこにいるむすめは? どうしてここに?」

「いーっ」


 ミューリはこちらのかげから顔を出し、ハイランドに歯をいて見せた。


「はは、相変わらず元気なことだ。ステファン殿どの、砂糖とコケモモのおがあっただろう。それをかのじよに」


 ステファンはきょとんとしていたが、やり手の商人らしくすぐにうやうやしくうなずいていた。


「ではまた後ほど、ばんさんの時にでも」


 ハイランドは言い置いて、さつそうと歩いていった。

 お付きの者もいつしよに出ていったのもあるだろうが、たんに空気の密度が下がった気がする。

 それこそが、貴族の風格というものなのだろう。


「ミューリ、いい加減に失礼なことはやめなさい」


 商会から出ていったハイランドの背中をにらみつけていたミューリに言うと、ぷいっとそっぽを向かれた。


「でも、おはもらっておく」


 ミューリのなお不満げな一言に頭をこんとき、やれやれとため息をついたのだった。



 用意されていた部屋は商館の三階部分にあった。だんは商会をおとずれる商人たちをめたりするのだろう。ベッドがひとつしかなかったので、案内してくれたぞうはもうひとつ用意しましょうかと申し出てくれたが、そこまで手間をかけるのも申し訳ない。それに、ミューリはぞうは悪くないのでさほど気にもならない。もちろん、異性という目で見ることもない。

 なので、ベッドの代わりにミューリの変装用の服をたのんでおいた。


「ねえ兄様」


 ぶくろの中から、使い慣れたペンとたっぷりのちゆうしやくまれた聖典を取り出していたら、ミューリに声をかけられた。


「今、私たちってどのあたりにいるの? これ、世界の地図だよね?」


 ミューリが立っていたのは、かべに張られた大きな地図の前だ。

 地図は一枚の皮にえがかれていて、ミューリくらいなら簡単に包んでしまえそうなほどに大きい。羊の皮の羊皮紙ではなく、若い牛の皮を丸ごと一頭分使っているのだろう。


「大体このへんですね」


 地図は教皇がおわす南の大都市を中心にえがかれている。そこを基準にすると、アティフは地図のかなり左上のすみっこになる。


「ニョッヒラは?」

「アティフから川を上って、ここです」


 示した場所は、地図の絵がれかけ、そうしよく用にえがかれている人間の顔を持った太陽の、ひげの下あたりだった。


「あはは。この世の果てだね」

「それでも人々は住んでいて、せいいつぱい生きています」

「兄様は昔、旅に出てたんだよね? それはどこ?」


 それはですね、とりちに答えていたが、ミューリのこう心は底なしだった。ちゆうとびらがノックされたので、これ幸いと切り上げる。


「ミューリ、地図ばかり見てないで、えてください」


 届けられたのはぞう用の服一式と、ハイランドがステファンに言いつけてくれた、砂糖とコケモモのだった。


「わっ、すごい!」


 もちろん、ぞう用の服のらしさに感動したわけではない。ぽんっと音がしそうな勢いで耳と尻尾しつぽを出したミューリがこちらに飛びかかってくるのを、ひらりとわす。


「食べるのはえてからです」


 身長差があるので、の盛られたぼんを頭上に上げてしまえばミューリには届かない。悲しげな目で見つめられたが、首を横にるとたちまちげんな顔になる。ころころと表情の変わるミューリは、え用の服をひったくっていった。


「もう、めんどうくさいなあ……」


 不満たらたらな様子でえ始めたが、とんちやくなしに服をぎ捨てるのでさすがに部屋の外に出た。


「ええ? 湯船で散々見てるのに?」


 と、ミューリは不思議そうだったが、そういう問題ではない。とびらに背をつけてため息をつく。

 母親たるホロもさすがオオカミしんと言うべきか、はだを見せることにほとんど躊躇ためらいを見せなかった。

 そうなると、じように反応するこちらになにかよこしまな感情があるみたいで情けないが、いやていしゆく乙女おとめであるべきは向こうのほうだ、と思い直す。

 ただ、ニョッヒラの湯けむりでくもっていない中で見たミューリのはだかは、ちょっと思っていたのとちがっていた。せてどちらかというと筋肉質にすら見えていた体から、いつの間にか少しずつ角が取れ始めているようだった。まだ丸みを帯びているわけではないが、そのきざしを予感させるというのだろうか。

 きちんと成長しているのだと思うと、喜ばしいのと同時に、なぜか少しさびしくもあった。


「照れ屋の兄様ー、えたよー」


 ぼんやりを食べながら待っていたら、とびらの向こうからそんな失礼な声がかけられる。

 とびらを開けて中に入れば、なんとも美しい少年がそこに立っていた。


「えへへ。どうかな?」

「……おどろきます。服というのはやはり大事な物のようです」


 仕立ての良い服、ということもあるのだろうが、ぱりっとしたズボンとつつそでの服、みひとつないうすかわのチョッキと、長めのこしおびを巻けば、だいしようにんの側で御用聞きをする、よくできたぞうそのものだった。


「けど、かみはどうしたらいい? 兄様みたいにわえるだけでもいいかな」


 自分も切るのがめんどうばしているが、ミューリのそれはかなり長い。


「きちんと編んでおいたほうがいいでしょうね」

「わかった」


 と言って、ミューリは机からを引いて持ってくると、手をばしての盛られたぼんを奪い取った。それからすわって背中をこちらに向ける。


「ん」


 編め、ということだろう。おこる気力もなかった。

刊行シリーズ

新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙XIの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙Xの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙IXの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙VIIIの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙VIIの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙VIの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙Vの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙IVの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙IIIの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙IIの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙の書影