荷揚げ場のさらに奥に繫がる廊下からどやどやと足音がしたかと思えば、海が割れるように人々が隅に寄った。出てきたのはお付きの者を従えた高位の人物で、高位の、とすぐにわかるのは、服の仕立てが見るからに違うのと、その雰囲気のせいだ。あるいは王家の血が見せる、男から見てもなお目を引くほどの顔立ちと、目も覚めるような金色の髪の毛のせいかもしれない。ウィンフィール王国には黄金羊の伝説が残っているのもうなずける。
ハイランドその人だった。
「これはこれはハイランド様」
ステファンが腰を折って敬礼すると、ハイランドは楽にするようにと手のひらで止める。
そして、こちらを見やると旧友に会ったかのような笑顔を見せた。
慌てて、ステファンに倣い頭を下げる。
「ご機嫌麗しゅう。ハイランド様」
「コル博士もお変わりなく」
自分より年若いハイランドは、独特のかすれた声でこちらのことをわざとらしく博士と呼んだ。博士の称号は教会から授けられる権威あるもので、その称号を持つ者がいるところが大学になるほどのもの。普通に考えれば自分が博士であるというのはあり得ないことだが、ハイランドが口にすると、まさか? となる。お付きの者やステファンの驚きように、さすがに頰が熱くなる。
「お戯れを。博士などと畏れ多いことです」
「では、そちらもその堅苦しさをやめてもらおうか?」
悪戯っぽい笑みと共に言われてしまう。
「コル、君の学識には敵わないし、その能力に頼らせてもらう。しかし、君は私におもねるのが仕事ではないだろう?」
湯屋で議論を戦わせた時も似たようなことを言われたが、それはハイランドの気さくさでありながら、幾分かは願いであるのかもしれない。
おもねるのが仕事、という言葉に、慇懃なステファンが不自然なほど素知らぬ顔をしていた。
「わかりました。けれど、私は元々こんな話し方なのです」
「結構」
少年を思わせる無邪気な笑みを見せてハイランドは言うと、「それで」と苦笑を混ぜた。
「そこにいる娘は? どうしてここに?」
「いーっ」
ミューリはこちらの陰から顔を出し、ハイランドに歯を剝いて見せた。
「はは、相変わらず元気なことだ。ステファン殿、砂糖とコケモモのお菓子があっただろう。それを彼女に」
ステファンはきょとんとしていたが、やり手の商人らしくすぐに恭しくうなずいていた。
「ではまた後ほど、晩餐の時にでも」
ハイランドは言い置いて、颯爽と歩いていった。
お付きの者も一緒に出ていったのもあるだろうが、途端に空気の密度が下がった気がする。
それこそが、貴族の風格というものなのだろう。
「ミューリ、いい加減に失礼なことはやめなさい」
商会から出ていったハイランドの背中を睨みつけていたミューリに言うと、ぷいっとそっぽを向かれた。
「でも、お菓子はもらっておく」
ミューリのなお不満げな一言に頭をこんと小突き、やれやれとため息をついたのだった。
用意されていた部屋は商館の三階部分にあった。普段は商会を訪れる商人たちを泊めたりするのだろう。ベッドがひとつしかなかったので、案内してくれた小僧はもうひとつ用意しましょうかと申し出てくれたが、そこまで手間をかけるのも申し訳ない。それに、ミューリは寝相は悪くないのでさほど気にもならない。もちろん、異性という目で見ることもない。
なので、ベッドの代わりにミューリの変装用の服を頼んでおいた。
「ねえ兄様」
頭陀袋の中から、使い慣れたペンとたっぷりの注釈が書き込まれた聖典を取り出していたら、ミューリに声をかけられた。
「今、私たちってどのあたりにいるの? これ、世界の地図だよね?」
ミューリが立っていたのは、壁に張られた大きな地図の前だ。
地図は一枚の皮に描かれていて、ミューリくらいなら簡単に包んでしまえそうなほどに大きい。羊の皮の羊皮紙ではなく、若い牛の皮を丸ごと一頭分使っているのだろう。
「大体このへんですね」
地図は教皇がおわす南の大都市を中心に描かれている。そこを基準にすると、アティフは地図のかなり左上の隅っこになる。
「ニョッヒラは?」
「アティフから川を上って、ここです」
示した場所は、地図の絵が途切れかけ、装飾用に描かれている人間の顔を持った太陽の、髭の下あたりだった。
「あはは。この世の果てだね」
「それでも人々は住んでいて、精一杯生きています」
「兄様は昔、旅に出てたんだよね? それはどこ?」
それはですね、と律儀に答えていたが、ミューリの好奇心は底なしだった。途中で扉がノックされたので、これ幸いと切り上げる。
「ミューリ、地図ばかり見てないで、着替えてください」
届けられたのは小僧用の服一式と、ハイランドがステファンに言いつけてくれた、砂糖とコケモモの菓子だった。
「わっ、すごい!」
もちろん、小僧用の服の素晴らしさに感動したわけではない。ぽんっと音がしそうな勢いで耳と尻尾を出したミューリがこちらに飛びかかってくるのを、ひらりと交わす。
「食べるのは着替えてからです」
身長差があるので、菓子の盛られた盆を頭上に上げてしまえばミューリには届かない。悲しげな目で見つめられたが、首を横に振るとたちまち不機嫌な顔になる。ころころと表情の変わるミューリは、着替え用の服をひったくっていった。
「もう、面倒臭いなあ……」
不満たらたらな様子で着替え始めたが、頓着なしに服を脱ぎ捨てるのでさすがに部屋の外に出た。
「ええ? 湯船で散々見てるのに?」
と、ミューリは不思議そうだったが、そういう問題ではない。扉に背をつけてため息をつく。
母親たるホロもさすが狼の化身と言うべきか、肌を見せることにほとんど躊躇いを見せなかった。
そうなると、過剰に反応するこちらになにか邪な感情があるみたいで情けないが、いや貞淑な乙女であるべきは向こうのほうだ、と思い直す。
ただ、ニョッヒラの湯けむりで曇っていない中で見たミューリの裸は、ちょっと思っていたのと違っていた。瘦せてどちらかというと筋肉質にすら見えていた体から、いつの間にか少しずつ角が取れ始めているようだった。まだ丸みを帯びているわけではないが、その兆しを予感させるというのだろうか。
きちんと成長しているのだと思うと、喜ばしいのと同時に、なぜか少し寂しくもあった。
「照れ屋の兄様ー、着替えたよー」
ぼんやり菓子を食べながら待っていたら、扉の向こうからそんな失礼な声がかけられる。
扉を開けて中に入れば、なんとも美しい少年がそこに立っていた。
「えへへ。どうかな?」
「……驚きます。服というのはやはり大事な物のようです」
仕立ての良い服、ということもあるのだろうが、ぱりっとしたズボンと筒袖の服、染みひとつない薄皮のチョッキと、長めの腰帯を巻けば、大商人の側で御用聞きをする、よくできた小僧そのものだった。
「けど、髪の毛はどうしたらいい? 兄様みたいに結わえるだけでもいいかな」
自分も切るのが面倒で伸ばしているが、ミューリのそれはかなり長い。
「きちんと編んでおいたほうがいいでしょうね」
「わかった」
と言って、ミューリは机から椅子を引いて持ってくると、手を伸ばして菓子の盛られた盆を奪い取った。それから椅子に座って背中をこちらに向ける。
「ん」
編め、ということだろう。怒る気力もなかった。