ミューリの荷物から櫛を取り出し、上機嫌に菓子を頰張るミューリの髪を梳く。柔らかく、少し冷たく、不思議な手触りだ。量が結構あるので、三つ編みを二房作り、その二つをよじってまとめることにした。
「それにしても……いろいろ面倒なんだね」
「それは、あなたの世話に手間がかかる、という意味ですか?」
「ちーがーいーまーすー」
ミューリはそう言ってから、背中をのけぞらせてこちらを逆さまに見た。
「耳も尻尾も隠して、女であることも隠さないとならないなんて」
「それが世の中というものです。ほら、きちんと前を向いて」
頭を指でつつくと、ミューリはおとなしく姿勢を戻す。その柔らかい髪の毛を編むのは久しぶりで、思いのほか面白かった。昔は髪の毛を編んでくれとしょっちゅうせがまれたものだ。いつ頃からそうしなくなったのかと思い出そうとしていたら、ミューリがまた口を開く。
「ねえ、兄様」
「なんですか?」
一房を編み終わり、残りに取り掛かる。櫛で髪を梳き直していたが、ミューリは言葉を続けてこない。
「どうしました?」
重ねて問うと、菓子を食べる手も止めていたミューリは、感情の窺えない声で言った。
「あの地図のどこかには、耳も尻尾も隠さないでいい場所ってあるのかな」
思わず手が止まる。顔を上げれば、椅子に座ったミューリの向こう側には、雄大な世界地図があった。アティフのような大きな町でさえ、地図の中では片隅にすぎず、ニョッヒラに至ってはようやく描かれているかどうかにすぎない。世界はそれほどまでに広大であり、無限の可能性に満ちている。
そして、気がつく。
ミューリがニョッヒラから外に出たいと願うその最たる理由は、もしかしたらこれかもしれなかった。
「それは……」
しかし、口ごもった。
ミューリは物心つくまで、湯屋の一室から滅多に外に出してもらえなかった。外に出る時は、顔以外を布でぐるぐる巻きにされていた。周りには体が弱く、湯の煙に耐えられないからと説明していたが、もちろん耳と尻尾を隠すためだった。
分別がつくようになってからは、母親のホロが、ミューリに流れる血のこと、悪魔憑きという概念、もしもそれらがばれてしまえば、自分たちはニョッヒラにいられなくなることなどを説明していた。
そのことを知った日、ミューリが自分に泣きながら問うてきたことを、昨日のことのように覚えている。
私は皆から仲間はずれなの?
仮にも聖職者を夢見る者ならば、なんと答えるべきかは明らかだった。辛い時、悲しい時、孤独を感じた時に、空を見ればそこには永遠の自分の味方がいると教えるべき。しかし、その時の自分は、こう答えた。
──少なくとも、自分はなにがあっても、ミューリの味方です。
あの時のミューリは、世界が暗く冷たいのだと知らされ、必死に頼れるなにかを探していた。そのミューリの心に言葉を届けるには、岩よりも固い信念が必要だと感じた。自分がこの世で信じている、もっとも確信に満ちた言葉を伝える必要があると直感したのだ。だから父親のロレンスが、とすら言わなかった。未だ振り向いてもらえない神のことを言わなかったのは尚更だった。自分なら、自分のことならば、それだけは絶対に約束できる。
そして、ミューリは笑ってくれた。良かった、と言って笑ったのだ。
以来、ミューリは自分の運命を受け入れて、耳と尻尾を隠す術も身につけて、普通……かどうかは疑問だが、人の少女としてニョッヒラで暮らしていた。そのことはとっくに割りきれていたと思っていたのだが、そう簡単にはいかなかったのかもしれない。
「それは……」
ミューリの髪の毛を編む手が止まっていた。
噓や気休めは、その手からたちまちミューリに伝わってしまうような気がした。
なにより、簡単に誤魔化せる相手だと見くびることは、ミューリに対して失礼だ。
「難しいでしょうね」
地図の中心に教皇の御座があるように、世界は教会に支配されている。土地の伝説を重視するような場所であっても、人ならざる存在を見たら受け入れるかどうかは賭けになるだろう。
「ミューリ、ですが」
「大丈夫」
ミューリはそう言って、またぐいっと体を仰け反らせてこちらを見た。
「母様に父様がいるように、私には兄様がいるもの。そうでしょ?」
あの時よりも大人びた笑顔だった。それに、わざと変な姿勢をしているのも、深刻に見せないためのこちらへの気遣いだとわかる。
「……そうです。私の話はろくに聞かないのに、よく覚えていましたね」
なので、こちらもそう言ってやった。自分やロレンスのように、理解ある人は必ずいる。それを見つければいいのだ。
ミューリは目を閉じ眉根に皺を寄せ、いーっと歯を見せる。ただ、そのまま姿勢を崩して後ろに倒れそうになったので慌てて受け止めたが、ミューリは受け止めてもらえると確信していたようだ。
目を閉じたまま、随分安らかな顔をしていた。
「なら、大丈夫。どこだって、一緒」
目を開くと、ミューリは照れ臭そうに笑って、体を起こす。
「ほら兄様、早く髪を結ってよ。町の見物に行きたいんだから」
「見物って、ここに遊びに来ているわけではありませんよ」
小言を言うとミューリは細い肩を揺らして笑っていたが、その後ろ姿はほんの少しだけ寂しそうだった。ミューリは母親のホロとは違い、何百年も生きてはいない。口喧嘩となれば大の大人もたじたじだが、見た目どおりのまだ年若い女の子なのだ。これからたくさんの辛いこと、苦しいことを経験するだろう。そのすべてから守ってはやれないが、できる限りのことはしてやりたいと思う。
その想いを込めるように、ミューリの髪の毛を丁寧に編んでいく。
どちらもなにも言わなかった。
そこにあるのは、静かな時間だった。
ミューリの格好を調えてから、『我々の神の書』の作業のことを聞きにステファンの許を訪れたら、執務室の前は荷揚げ場にも劣らない人だかりだった。
「ねえ兄様、なあに、これ?」
一階部分の最奥に位置するステファンの執務室の前では、上等な身なりからあまり上等でない身なりまで、様々な人が難しい顔をして立っていた。お付きを連れている者も多く、その間をデバウ商会の小僧たちが御用聞きに回っているので、余計に密度が高くなっている。
ただ、立ち話を聞く限り、どうも陳情の類のようだった。
「季節の変わり目ですから、皆さん物入りなのでしょう」
冬の間に使い尽くした備蓄を補充するため、買い付け資金を借りに来たという近隣の村の者もいれば、春に向けて資材の購入割り当てを増やしてもらいに来たという職人組合の者もいる。ほかには、遠隔地貿易船ではるばるこの土地までやってきたから、土産物を携えてきた、という商人たちもいた。
この季節は、すでに南のほうではとっくに冬が終わり、止まっていた時間が動き始めている。冬の間は港や街道が凍結していた北の地方の町や村も、空っぽになった倉庫を満たして、春の種蒔きと祭りの準備をしなければならない。
季節は万人に等しくめぐってくるが、物資は公平に分配されるとは限らない。
そのために、少しでも有利に采配してもらおうと、大商会にはこうして人が集まるのだろう。
「みんなあの人に会いたがってるのかあ。兄様は随分立派な人にお出迎えされたんだね」
「少しは見直しましたか?」
「うん。父様と母様はこんなすごいところの手助けをしたんだなってね」
ミューリはにっこり笑顔を向けてくるので、こちらも笑顔を返しておいた。
数拍の間を開けて、拗ねないでよ兄様、とミューリは随分嬉しそうにしていた。