第二幕 ⑧

 ミューリの荷物からくしを取り出し、じようげんほおるミューリのかみく。やわらかく、少し冷たく、不思議なざわりだ。量が結構あるので、三つ編みを二ふさ作り、その二つをよじってまとめることにした。


「それにしても……いろいろめんどうなんだね」

「それは、あなたの世話に手間がかかる、という意味ですか?」

「ちーがーいーまーすー」


 ミューリはそう言ってから、背中をのけぞらせてこちらを逆さまに見た。


「耳も尻尾しつぽかくして、女であることもかくさないとならないなんて」

「それが世の中というものです。ほら、きちんと前を向いて」


 頭を指でつつくと、ミューリはおとなしく姿勢をもどす。そのやわらかいかみを編むのは久しぶりで、思いのほかおもしろかった。昔はかみを編んでくれとしょっちゅうせがまれたものだ。いつごろからそうしなくなったのかと思い出そうとしていたら、ミューリがまた口を開く。


「ねえ、兄様」

「なんですか?」


 一ふさを編み終わり、残りにかる。くしかみき直していたが、ミューリは言葉を続けてこない。


「どうしました?」


 重ねて問うと、を食べる手も止めていたミューリは、感情のうかがえない声で言った。


「あの地図のどこかには、耳も尻尾しつぽかくさないでいい場所ってあるのかな」


 思わず手が止まる。顔を上げれば、すわったミューリの向こう側には、ゆうだいな世界地図があった。アティフのような大きな町でさえ、地図の中ではかたすみにすぎず、ニョッヒラに至ってはようやくえがかれているかどうかにすぎない。世界はそれほどまでに広大であり、無限の可能性に満ちている。

 そして、気がつく。

 ミューリがニョッヒラから外に出たいと願うその最たる理由は、もしかしたらこれかもしれなかった。


「それは……」


 しかし、口ごもった。

 ミューリは物心つくまで、湯屋の一室からめつに外に出してもらえなかった。外に出る時は、顔以外を布でぐるぐる巻きにされていた。周りには体が弱く、湯のけむりえられないからと説明していたが、もちろん耳と尻尾しつぽかくすためだった。

 分別がつくようになってからは、母親のホロが、ミューリに流れる血のこと、あくきというがいねん、もしもそれらがばれてしまえば、自分たちはニョッヒラにいられなくなることなどを説明していた。

 そのことを知った日、ミューリが自分に泣きながら問うてきたことを、昨日のことのように覚えている。

 私はみなから仲間はずれなの?

 仮にも聖職者を夢見る者ならば、なんと答えるべきかは明らかだった。つらい時、悲しい時、どくを感じた時に、空を見ればそこには永遠の自分の味方がいると教えるべき。しかし、その時の自分は、こう答えた。

 ──少なくとも、自分はなにがあっても、ミューリの味方です。

 あの時のミューリは、世界が暗く冷たいのだと知らされ、必死にたよれるなにかを探していた。そのミューリの心に言葉を届けるには、岩よりも固い信念が必要だと感じた。自分がこの世で信じている、もっとも確信に満ちた言葉を伝える必要があると直感したのだ。だから父親のロレンスが、とすら言わなかった。いまいてもらえない神のことを言わなかったのはなおさらだった。自分なら、自分のことならば、それだけは絶対に約束できる。

 そして、ミューリは笑ってくれた。良かった、と言って笑ったのだ。

 以来、ミューリは自分の運命を受け入れて、耳と尻尾しつぽかくす術も身につけて、つう……かどうかは疑問だが、人の少女としてニョッヒラで暮らしていた。そのことはとっくに割りきれていたと思っていたのだが、そう簡単にはいかなかったのかもしれない。


「それは……」


 ミューリのかみを編む手が止まっていた。

 うそや気休めは、その手からたちまちミューリに伝わってしまうような気がした。

 なにより、簡単にせる相手だと見くびることは、ミューリに対して失礼だ。


「難しいでしょうね」


 地図の中心に教皇の御座があるように、世界は教会に支配されている。土地の伝説を重視するような場所であっても、人ならざる存在を見たら受け入れるかどうかはけになるだろう。


「ミューリ、ですが」

だいじよう


 ミューリはそう言って、またぐいっと体をらせてこちらを見た。


「母様に父様がいるように、私には兄様がいるもの。そうでしょ?」


 あの時よりも大人びたがおだった。それに、わざと変な姿勢をしているのも、深刻に見せないためのこちらへのづかいだとわかる。


「……そうです。私の話はろくに聞かないのに、よく覚えていましたね」


 なので、こちらもそう言ってやった。自分やロレンスのように、理解ある人は必ずいる。それを見つければいいのだ。

 ミューリは目を閉じまゆしわを寄せ、いーっと歯を見せる。ただ、そのまま姿勢をくずして後ろにたおれそうになったのであわてて受け止めたが、ミューリは受け止めてもらえると確信していたようだ。

 目を閉じたまま、ずいぶん安らかな顔をしていた。


「なら、だいじよう。どこだって、いつしよ


 目を開くと、ミューリはくさそうに笑って、体を起こす。


「ほら兄様、早くかみってよ。町の見物に行きたいんだから」

「見物って、ここに遊びに来ているわけではありませんよ」


 小言を言うとミューリは細いかたらして笑っていたが、その後ろ姿はほんの少しだけさびしそうだった。ミューリは母親のホロとはちがい、何百年も生きてはいない。くちげんとなれば大の大人もたじたじだが、見た目どおりのまだ年若い女の子なのだ。これからたくさんのつらいこと、苦しいことを経験するだろう。そのすべてから守ってはやれないが、できる限りのことはしてやりたいと思う。

 そのおもいをめるように、ミューリのかみていねいに編んでいく。

 どちらもなにも言わなかった。

 そこにあるのは、静かな時間だった。



 ミューリの格好を調ととのえてから、『我々の神の書』の作業のことを聞きにステファンのもとおとずれたら、しつ室の前はげ場にもおとらない人だかりだった。


「ねえ兄様、なあに、これ?」


 一階部分のさいおうに位置するステファンのしつ室の前では、上等な身なりからあまり上等でない身なりまで、様々な人が難しい顔をして立っていた。お付きを連れている者も多く、その間をデバウ商会のぞうたちが御用聞きに回っているので、余計に密度が高くなっている。

 ただ、立ち話を聞く限り、どうもちんじようたぐいのようだった。


「季節の変わり目ですから、みなさん物入りなのでしょう」


 冬の間に使つかくしたちくじゆうするため、買い付け資金を借りに来たというきんりんの村の者もいれば、春に向けて資材のこうにゆう割り当てを増やしてもらいに来たという職人組合の者もいる。ほかには、えんかく地貿易船ではるばるこの土地までやってきたから、土産みやげものたずさえてきた、という商人たちもいた。

 この季節は、すでに南のほうではとっくに冬が終わり、止まっていた時間が動き始めている。冬の間は港やかいどうとうけつしていた北の地方の町や村も、空っぽになった倉庫を満たして、春のたねきと祭りの準備をしなければならない。

 季節はばんにんに等しくめぐってくるが、物資は公平に分配されるとは限らない。

 そのために、少しでも有利にさいはいしてもらおうと、大商会にはこうして人が集まるのだろう。


「みんなあの人に会いたがってるのかあ。兄様はずいぶん立派な人におむかえされたんだね」

「少しは見直しましたか?」

「うん。父様と母様はこんなすごいところの手助けをしたんだなってね」


 ミューリはにっこりがおを向けてくるので、こちらもがおを返しておいた。

 数はくの間を開けて、ねないでよ兄様、とミューリはずいぶんうれしそうにしていた。

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