そんなやり取りの合間に、小僧を捕まえて用件を伝えておく。本当ならば順番を待つべきなのかもしれないが、どう見ても廊下は先着順に並んでいない。異国の文化丸出しに、頭に布をぐるぐる巻きにして首から金の装飾品を提げた浅黒く日焼けした一団は、後からやってきて、さっさと執務室に呼ばれていた。
金か、権威か、重要度か。
ハイランドの威光と、ロレンスとホロの伝手を利用しても罰は当たるまい。
小僧は他の人の隙間を縫って執務室に入ると、ほどなく戻ってきた。
「皆さまがこちらにいらっしゃったのは急なことでしたので、これから諸々の手配をするとのことでした」
責められはしない。この騒ぎだ。
「それでは、我々のほうで人や道具を集めに回ってきます」
そう言ってから、付け加える。
「支払いはこちらにつけておいても?」
「コル様たちのあらゆるお支払いは、当商会が勘定を持つようにとのことです」
「感謝いたします」
そう答え、ミューリに目配せして、ごった返す商会から外に出た。
外も似たような騒ぎだが、天井がない分、いくらか空気がたくさんある気がした。
「すごいね、兄様、聞いた?」
外に出ると、ミューリが真っ先にそんなことを言った。
「勘定は持つって。なら、兄様の節制も関係ないよね」
「買い食いはしません」
「え~?」
「勘定は持つというのは、あちらからの敬意の現れです。こちらはその敬意にふさわしいふるまいをすべきです。そもそも、ずらずらと露店の食べ物の支払いを請求したら、相手にどう思われると思いますか?」
「え……お腹が空いてたのかな……とか?」
「……」
頭痛に似たものを堪えてから、とにかく歩き出した。
「節制というのは、単に量を少なくすればいい、ということではありません。食べたい物、飲みたい物、あるいは欲しい物などを、欲望の赴くままに手に入れようとせず、自らを律しようという精神のことです」
そう言ってから、吝嗇と節制の違いにもふと気がついた。
「そして、吝嗇とは自らを律するのとは違い、なにかを、この場合は貨幣を得るために汲々とすることです。わかりましたか?」
説教は人々の啓蒙のためでありながら、自らのためでもある、と聞いたことがあるが、なるほどそのとおりだった。
「なんとなく、わかったけど……」
隣についてきているミューリは、なお不満げだ。
「それじゃあ、節制してもなにも得られないってことだよね? それってなんのためにするの?」
「えっ」
それはいつものこちらが困るとわかっていてする質問とは違っていた。ミューリが純粋に疑問に思っていることくらいすぐにわかる。それに、ミューリの素直すぎる質問は、あまりにも深淵であった。
なぜ? なんのために?
それらしい答えがすぐに口から出そうになって、どれも違う気がした。
考え込みながら歩いていたら、すんでのところで荷馬車に轢かれそうになっていた。こちらの袖を摑んで、全体重をかけて引っ張り寄せてくれたのは、ほかならぬミューリだった。
「もう、兄様の馬鹿!」
「すみません」
しかし、謝ったのは荷馬車のことについてではない。ミューリの素朴な問いに答えられないことについてだった。
節制が大事なのは、もちろん聖典にて節制が奨励され、徳目のひとつに数えられているからだが、聖典に書かれていなくとも善いとされることはたくさんある。ましてや、なぜそれが正しいのかなどと考え出すと、なんの理由もない気がした。
あるとすれば、ただひとつ。
「なんとなく、それが正しいことのように思えるのです」
はあ? とばかりにミューリがこちらを怪訝な顔で見ていた。
「節制を嫌がる人はいるでしょうが、その人でさえ、節制そのものの良さは理解できるのではないでしょうか」
「……」
怪訝を通り越して、なにか心配そうな顔をしているミューリをよそに、もう一度自問する。
それが自然、と思うことを素直に追い求めるのは間違っているのだろうか。
善とはすなわち、自然なことである、と喝破した古代の思想家もいた気がする。
「しかし、そうなると禁欲の誓いはどうなるのでしょう……」
結婚は祝福されるべきことなのに、聖職者は自然なその欲を押し殺すことを奨励される。
無欲は自然?
禁欲が自然だなどと、一体誰が同意するのか。
「ううむ……」
当たり前に受け入れていたことに疑問を持つと、そこにはとてつもないものが横たわっていると気がつくことがある。道に立ち尽くして考え事をしていたら、誰かに袖を引かれた。
見れば、泣きそうな顔をしているミューリだった。
「兄様……もう我儘言わないから、許してよ……」
「え?」
聞き返すと、ひっしとしがみついてくる。しばらくなにを言われているかわからなかったが、どうやら立ち止まったまま動かなくなったのを、買い食いしたがっていたことへの当てつけだと思ったらしい。子供のようにしがみついてくるミューリを見下ろして、少しだけ思う。
次からはこの手を使おうと。
「いや、ちょっと考えすぎました」
そう言ってミューリの頭に手を置き、安心させるようにぐしぐし撫でた。けれど、不意に向けられた問いは、止まり木を見つけられない鳥みたいに頭の中を巡ったまま。
もやもやとした不快感に似たもどかしさがありつつも、この鳥がどこに向かうのか、それが少し楽しみでもあった。
町は広場を中心に区画に分けられているので、迷ったと思ったらこの町のどこにいても見える鐘楼を目指して広場に向かえばよい。実に合理的だと感心する。
食べ物をねだらなくなったミューリを連れて町を歩き、町の東側に広がる職人街に向かった。港がある町にふさわしく、木工関係の工房がとても多い。また、木を削ったり切ったり加工する工房の軒先では、真っ黒いどろどろとした木のヤニを木材に塗ったりもしていた。それを詰めるための木樽に隠れていたミューリは、臭いを思い出して嫌な顔をするかと思いきや、熱心に作業を見つめていた。
「ああやって使うんだね」
「防水と防腐のために塗るそうです。遠隔地貿易船に乗る際や、戦場に向かう際などは、肉をあれに漬け込んで腐らなくすることもあるようです」
「ふーん。燻製みたいな香りがついて、おいしいかもね」
なるほど、物は考えようだと思った。
それからさらに歩を進めると、毛皮を扱う区画にたどり着く。開け放たれた風通しの良い一階部分の工房で、皮をなめす各工程が行われていたり、皮ひもが作られていたりする。
暖かそうな白貂の毛皮が並べられていて、どこの貴族が買うのだろうと思ったりもした。
そうこうしていると、店の看板のつもりなのだろう、通りに面した壁にずらりと巨大な牛皮がぶら提げられた店舗にたどり着いた。
「地図に使ってたやつかな」
ミューリが皮の匂いを嗅いでいると、工房の中で剃刀の柄をいじっていた男がこちらに気がつく。
「なにか用かい」
ミューリがこそっと、毛皮が取れそうな人だね、と言ったので、笑うのを堪えなければならなかった。それくらい毛深い職人で、縦にも横にも大きく、丸っきり熊だった。
「若い聖職者さんに、デバウ商会の小僧とは珍しい取り合わせだ。なにか書き物用の道具をお探しかな」
悪戯ばかりのミューリの頭をそっと小突いてから、咳払いを挟んで言った。
「下書き用の紙と、インク、羊皮紙と、滑石もください」
滑石はでこぼこの羊皮紙の表面を平らにするために、削って粉を擦り込むのに使う。
「よっしゃ、任せな! と言いたいところだがね、つい昨日山ほどの注文が来て、今も羊皮紙を増やしているところさ」
熊の職人はごつい肩をすくめ、作業台の上の羊皮紙に手を伸ばしてひらひらさせた。