「ここから五枚は羊皮紙を取らないとならない。並みの職人なら三枚が限度ってところだがね」
さりげなく腕自慢をしてくるが、五枚はすごい。羊皮紙などはそのまま動物の皮なので、ぼろ布などを漉いてつくる紙とは違って、腕次第で薄く切り分けることができる。
「他の工房も同じように注文がいっぱいでしょうか」
そう尋ねると、熊の職人はきょとんとしてから、がははと笑った。
「随分大きな町から来たようだな。羊皮紙や文具を扱うのはうちの工房とその系列だけだ。公証人がわんさかいて、ひっきりなしに羊皮紙の注文が入るような町じゃない」
「そうですか……」
となると、どうしたものか。
唸っていると、熊の職人はふと、なにかに気がついたようだった。
「あれ、そういや昨日の注文も、納品先はデバウ商会だったな」
「え?」
「ああ、そうだ。思い出した。かなり身なりの良い一行が来て、紙をあるだけくれってな具合だったな……羊皮紙を切れるのが嬉しすぎて忘れていた」
身なりの良い一行が、あるだけの紙をデバウ商会に納品してくれと頼むのなら、心当たりはひとつしかない。
そう思っていると、工房の奥から熊の職人とは対照的な、瘦せた白髪の老人が出てきた。
「おや、お客さんかね」
「おお、親爺い、昨日の大口の客はあれ、どこの誰だっけね」
「ああ? お前は相変わらず皮を薄く切るしか能のない奴だな。そんなことじゃ商売はできんぞ。あれはウィンフィール王国の貴族様だ」
やはり、ハイランドだったらしい。
「へえ? 島国の貴族様がこの町になんの御用なんだ」
「まったく……たまには組合の会合に顔を出せと言っとるだろう。十分の一税を巡って王国と教会は対立しとるだろう? あの貴族様は、税は理不尽だという王国の代弁者だ。アティフの司教座を味方にするべく、説得しに来たらしい。そして、その前にまず町の者たちを味方につけようという考えらしくてな、各組合と会合を持っておる。今日も朝からそれで出かけておったんだ」
「ああ、へえ……」
熊の職人は明らかに興味がなさそうで、道具の剃刀をちらちら見ていた。二人の関係を見ていると、なんとなく白髪の老人のほうに共感してしまう。
「へえ、じゃないわ、馬鹿者。あの貴族様が説得に成功したら、教会に税を納めなくてよくなるんだぞ」
「おお、そりゃすごい。大司教の晩餐はいつも豪華だと言うからな。連中の贅沢のためについに金を払わなくてよくなるのか」
乱暴な言い方ではあったが、熊の職人の言葉は町の人間の気持ちそのままだろう。
「けど、それとうちの注文となんの関係が?」
剃刀の刃を撫でる熊の職人の頭を、白髪の老人が遠慮なく殴る。ごんっと良い音がした。
そして、白髪の老人はこちらに向き直ると、眩しそうに目を細めた。
「デバウ商会の小僧さんを連れておるということは、あなた様はあの貴族様のお手伝いに来なさったんだろう?」
「あ、はい」
「いやあ、王国のことは以前から知っておったがね、今日の会合で詳しく話を聞いておったまげたのなんの。特にあのハイランド様とやらはできた御仁だ。しかも、想像もしなかったような発想をなさる」
老人は話しながらこちらに握手を求めてきて、ついでにミューリの手も握って深々と頭を下げていた。
「教会と王国の言い分のどちらが正しいかなど、儂ら下々の者が関われるとは到底思っていなかった。それが、まさか聖典を俗語に翻訳するから、神の教えを直接見てくれなんて、いやあ、こんなことがあるもんかね」
喋りながら老人は声を詰まらせかけた。
「失礼……。なにせ、儂らは司祭や教会の贅沢や放埓に呆れてはおっても、逆らえる立場ではないのでなあ。ここは港町だ。海で事故に遭うかどうかは神のみぞ知る。聖務停止など言い渡されたら、町の息の根が止まってしまう。冷たい風が吹き荒れる、冬の真っ暗な海に船を出すのは並大抵の勇気では足りんものだ。しかも事故は絶えず、この町に住んでおれば、必ず身内に海と関わる仕事の者がいる」
レノスで司教座の説得に失敗した後、アティフに切り替えたのにはそれなりの理由があったようだ。船には聖人の名をつけ、船首には聖母や天使の像を彫り込み、道中の加護とする。それに、港で水揚げされる山ほどの鱈やニシンを見れば、漁師の数も相当なものだろうとわかる。そして、ここは南の国のような、暖かで穏やかな海沿いの町ではない。町の外に広がるのは、落ちれば命はない、極寒の灰色の海だ。
「儂らがその直接の手伝いをできるとは、まことに光栄なこと。儂はこのとおり老いたる身だが、あの熊は腕だけは確かなのでな」
やはり誰もが彼を見て熊を連想するらしい。ミューリが隣でうつむき、笑うのを堪えていた。
「知り合いの筆写職人にも声をかけておるから、複写するのもお任せあれ。翻訳が進むそばからじゃんじゃん増やして、人々に教会のおかしさを知らしめましょうぞ!」
この老人も町の人間も、神の御加護を疑っているわけではない。単に、神の地上代理人である教会の内部の悪弊や、その振る舞いに不満を持っているにすぎない。
やはりウィンフィール王国の行動は、蛮行ではなく、必要な行動なのだと再確認する。
自分の信じる世界は、この先にある。
正しき神の教えは、ハイランドの目指す先にある。
「共にがんばりましょう」
老人の手を握り返し、そう言ったのだった。
「ミューリ、あなたもハイランド様のすごさが少しは分かったでしょう?」
工房からの帰り道、ミューリにそう言うと、渋々ながらにうなずいていた。
その日は、それから町を少し見て回り、建設中の市壁や、海が見える坂道から灰色の海を見て時間を過ごし、商館に戻った。
夜はステファンが主宰する、ハイランドを主賓にした形式的な食事に招かれ、毒にも薬にもならない会話をした。ただ、晩餐での様子を見ていると、ステファンの慇懃さには、ハイランドにおもねるためというよりももう少し別のなにかがあるような気がした。
「それはそうだろう。町の者たちと話すと、私がデバウ商会の商館に逗留していることに皆が驚く。この商館の主であるステファン氏は、大司教と同郷らしくてね、教会への納品などで深い関係にある。まさか教会と敵対する私に便宜を図るとは、というところだ。ステファン氏は、上層部に言われて渋々私を泊めているんだよ。彼のような商人は、大義よりも目の前の利益だ。十分の一税がなくなったとしても、それで教会の資金力が削がれれば、それだけ当面の取引が減ってしまう、程度にしか考えていない」
晩餐の後、ハイランドの部屋に呼ばれた。晩餐では顔に微笑を張りつけることばかり気にかけて、なにを食べたかもよく覚えていない。図太いミューリはたらふくごちそうを詰め込んでいて、もう動きたくないと渋ったが、お菓子があると言われてのこのこやってきた。
「デバウ商会も一枚岩というわけではないのですね」
「あれだけ大きい商会はもはや国と同じだろう。一致団結などあり得まい。ましてや、連中は商人だ。屋根の上の風見鶏よりもくるくる回る」
尊敬してやまないロレンスが元行商人なので、微笑む程度にとどめておいた。
「しかし、紙の手配をしに職人の工房に行き、話を聞いて確信しました。やはり、教皇の聖務停止は明らかな間違いです」
「私も町の各組合の者と話をして、レノスとは全く反応が違って驚いている。まるで自分が救世主にでもなったかのようだ」
ハイランドはかすれた声で笑いながら、葡萄酒に口をつけた。