「元々、ここは異教徒の土地とはいえ、南から船に乗ってやってきた者が定住した町だ。市壁の外に対して、恐れがある。海には魔物が潜むと信じ、人がどうこうできるものではないという確信がある。神のありがたみがほかのところより強く感じられるのだろう。とはいえ」
と、ハイランドはいつくしむように目を細めて、椅子の肘掛けに頰杖を突きながらミューリを見た。ミューリは、神の教えがどうこうなどという話にはてんで興味を示さず、干し林檎の砂糖漬けが盛られた盆を一人で抱えて、むしゃむしゃ食べていた。砂糖漬けの果物が多いのは、長距離航海をする船の上で、旅の無聊を慰める金持ちが多いからだろう。
「人々の多くは、実利で動いている。彼らは税を取られるのに我慢がならないんだ」
菓子があると言われたらふらふらついてくるミューリを見たのは、ハイランドの茶目っけだ。
「建設中の市壁を見ただろう? それに、港から続く石畳の舗装も見事だ」
「立派な町ですね」
「正確には、立派になろうともがいている最中だ。なにかにつけて徴発される税に喘いでいる。この町の人々は賑やかさの割りに、あまり儲かっていない」
その点はデバウ商会からの情報もあるのだろう。
「さらに、この町の司教座は歴史が浅く、教会内で権威が低い。しかも、この町の大司教は、景気の良い町の教会に収まった経験がないらしい」
高貴な者が浮かべる笑みは、時にひどく酷薄だ。
「舞い上がり、教会に入る金はすべて自分の物だと思っている。その分、仕事熱心ではあると町の者たちは口を揃えているがね」
強欲なのに教会の仕事に熱心、というのがうまく頭の中で繫がらなかった。
ハイランドはこちらの様子を見て、くすくすと笑う。
「コル、君ももう少し、書物の外に目を向けたらいい」
「……恐縮です」
「長い剣には長い剣の利点があるが、短剣のようには振る舞えないということだよ」
ハイランドは器に葡萄酒を足し、言った。
「教会と自分の家の区別がないんだろう。だから我が身のこととして聖務に全力で注力する一方、教会を自分の物だとみなして我儘三昧なのだ。おそらく我儘とすら思っていないだろう。だが、傍目には明らかだ。この町で最も富裕な女性は、大司教の妻だと言うからね」
「それは……」
「もちろん、正式な妻ではないが、誰もが知っていることさ。とはいえ」
ハイランドは肩をすくめた。
「庶子の身である私が責められた義理でもない」
貴族や王族が正妻以外の女性に手を出すことは珍しくなく、独身を貫かなければならない聖職者もまた同様なのは、公然の秘密になっている。
そういうものなのだ、と。
「しかし、ここの大司教殿はうまくやりおおせているかというと、少し違う。私の父は教皇の姪とやらと無理やり結婚させられたが、真実の愛は私の母との間にあると人々から見なされている。それに、我が目から見ても、父は愛嬌を備えている」
言葉にはいくらか含みがあるが、言いたいことはわかる。
「一方、大司教殿は聖務に熱心になる余り、居丈高になることもしばしばだそうだ。権力を扱うには慣れが必要だが、それがわかっていないのだろう。浮気や姦通の罪にも厳しいが、どの口でそれを言うんだ、と人々は思いもする。節制となるともはや半笑いで聞くほかない」
熊の職人も言っていた。教会の晩餐はいつも御馳走だと。
「それでも人の死には涙し、結婚の祝福にも涙し、誕生にも涙するという聖務の熱心さは認められてもいる。だからこそ、町の人々は教会に対するねじれた感情をどうにかしたいと願っている。重税を課してその金で放埓三昧だが、聖務の時には頼りになるという厄介な二面性をな」
「敬いたくない、わけではない」
「あるいは、神の言葉を借りれば、素直に愛したいのだな」
敬愛のほうが良いかな、とハイランドは笑ってもいた。
信仰という水の流れを良くした時、世界はより一段と澄み渡るだろう。
「そういうわけで、人々は『我々の神の書』の計画にも好意的でね。翻訳できている分だけでいいのですぐに見せてくれとせがまれているくらいだ」
「紙やインクの手配に工房に向かったら、親方らしき人からも激励されましたよ」
ハイランドは笑うと、部屋の隅に控えていた侍従に合図を出す。すると、いかにも文官といった雰囲気の自分と同い年くらいの青年が、羊皮紙の束をこちらに手渡してきた。
「父もこの計画には早くから賛同してくれていて、国で暇を持て余している聖職者をかき集めて作業を進めている。主に神の教えを講義するという名目でね。彼らも働かねば食っていけないし、父には好意的だからうまくいっているようだ。しかし、象牙の塔に住む者たちは、こと俗語となれば弱いからな。在野の学者たちの意見を切に聞きたがっている」
博士と言われなかっただけましだが、学者でもまだこそばゆい。
そんな気持ちを見て取ったのか、ハイランドはくすくすと笑う。
「コル。謙遜は美徳だと私も認めるがね、周りからどう見られるかは、意外に言った者勝ちなのだよ」
胸を張れ、ということだろう。
「精進します」
やれやれ、とハイランドは笑っていた。
「その羊皮紙に書かれている先の分も翻訳は進められているはずだが、君も進めてくれ。国に送れば、彼らがそれを大いに参考するだろう」
畏れ多いことだが、大きなものに立ち向かうとは、こういうことだ。腹に力を込めて、羊皮紙を受け取った。聖典の俗語翻訳は、人々を啓蒙し、教会のおかしさを明らかにするひとつの戦いと言える。これが武器となり、盾となると思うと、羊皮紙の束がずしりと重く感じられた。
「畏まりました」
力強く返事をし、ハイランドも満足げだった。
「それと、お嬢さんにも食べた菓子の分の働きを期待しているよ」
ハイランドの親しみたっぷりの視線の先では、ミューリが食べ終わった菓子の盆についた砂糖を指で舐め取っているところだった。指をくわえているところに視線が集まり、さしものミューリも少し気まずそうにしている。
「私の前でそんな振る舞いをするのは、特権状に守られた道化師か、そこの娘くらいしかいない」
「まったく申し訳もなく……ミューリ!」
叱りつけると、ミューリは首を竦めつつも、反抗的な目つきだ。
「いや、それでいいんだ。私たちが首を突っ込んでいるのは、権威との戦いだからな。権威は人を盲目にし、考える力をも奪う。ましてや、おかしなことをおかしいと言う勇気となれば尚更だ。期待しているというのは噓ではない。だから……文字は読めるのか?」
その問いに、ミューリはきょとんとしていた。
「文字だよ。教会文字とは言わないが」
「ああ、それは、多少でしたら」
代わりに答えると、ハイランドは喜んだ。
「そうか。なら、君のような娘には退屈だろうが、聖典に目をとおして欲しい。きっと、我々では及びもつかない真実を射抜いてくれるだろう」
ミューリはまんざらでもなさそうに得意げな顔をしているが、ハイランドの買い被りだろう。
「ハイランド様、お言葉ですが」
と、苦言を呈そうとしたところだ。
「世辞ではないよ。その者には妙に感じるところがあってね。宿泊した湯屋の女主人もそうだったが……いずれか知られた名家の出なのでは?」
ハイランドの見立てに、ぎくりとする。ホロやミューリの血筋を名家と呼ぶのなら、それは文字どおり人智を超えたものになる。家系の創始伝に超常の者を据えるのは、それこそ世界に数多ある王家の中でも、なお格式ある家だけだ。
「ほら兄様、わかる人にはわかるんだよ」
しかし、こちらの心配も他所に、ミューリは胸を張っている。謙遜の欠片も窺えない。
「ははは。そちらのお嬢さんのほうが世の仕組みをわかっているようだ」
尻尾を出していたら、きっとわっさわっさと振っていたことだろう。
「額面どおりに受け取らないように」
と釘を刺したが、なにか手応えがあるようには見えなかった。
「まあ、詮索はしない。聖典にもあるくらいだ」
隠されたことはいずれ暴かれる。
それがいい意味なのかどうかは、この場合は難しい。
「それに、私は君たちを信用している」
臣下を手なずけ、人の上に立つ者の言葉だと思って聞いておく。ハイランドの人物を貶めるわけではなく、ハイランドは貴族であり、自分たちとは違うのだと言い聞かせておかないと、つい引き込まれてしまうせいだ。魅力的な人物であり、こんなハイランドの領地の聖堂付き司祭になれたら、素晴らしいことだろう。
しかし、できればそんな私欲は持たないままに協力したい。ここには、一人一人の利益を超越した、大義があるのだから。
「世界を正す、第一歩に」
ハイランドはそう言って、葡萄酒を高々と掲げたのだった。