第三幕 ①

 ハイランドから聖典のほんやくが記された羊皮紙を受け取ったその夜は、結局ほとんどねむることができなかった。机にかじりつき、首っ引きで読みふけってしまった。こんなかいしやくがあるのかとか、こんな言い回しがあったかなど、知的げきに満ち満ちていた。

 ミューリはろうそくまぶしくてねむれないとしばらくおこっていた気がするが、いつの間にか静かになっていた。

 そして、はっと気がつくと外の通りから荷馬車を引く音が聞こえてきていた。今の今までほんやくを読んでいたような気がするのに、いつの間にかねむっていたらしく、かたに毛布がけられていた。ベッドを見やるとミューリが丸まってていて、なんとなくあきれているようにも見えた。

 寒い中に同じ姿勢でいたため、のようになった体をゆっくりとほぐし、軽くひとねむりしようとベッドに入る。ミューリの高い体温で暖まった毛布にきんちようかされ、いつしゆんねむりに落ちていた。

 次に目が覚めた時は、やってしまった、というきよう感できた。


「昼の準備!」


 日が完全にのぼりきっていて、陽光の色から湯屋は朝飯も終わって昼飯の準備にかっている時間だとすぐにわかる。あせと、準備にほんそうしているはずのロレンスへの申し訳なさでいっぱいになる。ぼうなどここ数年なかったのに、と毛布から出たところで、ようやく気がついた。


「……おはよう?」


 机の前でかみいていたミューリが、まどいがちに言った。


「ああ……そうか、湯屋じゃないんですよね……」


 開け放たれた木窓の向こうからは、にぎわった町のさわぎが聞こえてくる。

 それに、かすかに潮のかおりもした。


「兄様、本当に働き者だね」


 ミューリがあきれたように笑っていた。


「あ、それと、おぼうの兄様がぐーすかみんむさぼっている間に、荷物が届いてたよ」


 だんぼうしかられる側なので、ミューリはうれしそうにあまみしてくる。起こしてくれたらよかったのに、と思うのはミューリに期待しすぎだろう。きっと目を覚ました時にこちらがまだているのを見て、にやりとほくそんだにちがいない。

 顔や服に悪戯いたずらされていないよな、と点検するのも忘れなかった。

 それから荷物とやらを見たら、ねむも完全にんだ。


「ミューリ、そこをどいて」

「ほえ?」


 とびらわきに置かれていた一式をかかげると、机の上にどさりと置く。はらわれたミューリはしぶしぶとベッドにこしけた。


「これだけあれば……」


 届けられていたのは、ぼろ布から作られたたっぷりの紙、羊から取られた羊皮紙がかかえるほど。あふれんばかりのインクに、空も飛べそうなほどの量の羽ペンだった。


「兄様、一人でそんなに使うの?」


 ベッドの上に胡坐あぐらをかいて、せっせとかみの手入れをしているミューリはややあきれ気味だ。


「いえ、筆写職人の方の協力もあるはずなのですが……ミューリ、だれか訪ねてきませんでした?」

「ん、ああ、兄様いますかってだれか聞きに来たけど、てますって答えたら、じゃあ待ってますって」

「それですよ!」


 言って、おおまたに部屋から出ていこうとして、ミューリに呼び止められた。


「あ、ねえ、兄様! 朝御飯は!?」

「適当に!」


 そう言い置いて、部屋から出た。

 すでに一日の業務が始まって久しいデバウ商会は、昨日に引き続き人でごった返していた。通りがかったぞうに話を向けると、一階のげ場のすみで所在なげにしている男たちに引き合わされた。かれらはこちらに気がつくと、よっこらせ、とでも言うのが似合いそうなかんまんな動作でこしを上げる。そろってねこで、右手の指には包帯を巻いている。かたかばんはぼろぼろで、服はどろみずの中を引きまわしたようにみだらけ。ついでに言えば、かれらの顔も手も服に負けないくらいまだら模様だった。

 なにも知らない者が見れば、貧しい旅人か、重税の村からげてきたのうと思うかもしれない。しかし、じんのごとき強さをほこようへいが返り血で真っ赤なように、ゆうしゆうな筆写職人はインクのみまみれなのだ。

 他のどこを見てもへいしきっているのに、目だけはらんらんかがやいている男たちだった。


「我々が神の正しき教えのお役にたてるとか」

「もちろんです。ようこそいらっしゃいました」


 三人の男たちの手をにぎり返し、けつけてくれたことに感謝した。


「しかし、この季節はみなさんおいそがしいのでは?」

「ははは。そりゃあもう。ですが、私は公証人の主人から行ってこいと言われましてね」

「私は港のちようぜい組合から」

「市政参事会の文書庫から参りました」


 読み書きできる者は重宝されるし、文書を複写する作業をになえる者はもっと重宝される。その作業は余人が想像する以上につらく、修道院では苦行のひとつに数えられている。なかなかになが現れない仕事であり、それを根気良く、誤りなくできる者となるとさらに限られる。

 ハイランドがおそらくはあの紙職人を通じて手配してもらったのだろう人材なのだから、相当にゆうしゆうなはず。かれらがけた場所はてんてこいだろう。


「それでも、我々がハイランド様、ひいてはウィンフィール王国に協力することで、我々がけた以上のもうけになると主人はんだのですよ。十分の一税はあらゆるものにかかりますからな。それがめんじよされるかもしれないとなれば、私程度の職人の一人や二人、しくもないというわけです」

「それに、ほかの大規模な職人組合は、どうやら配下の職人にハイランド様のお考えをけんでんさせたり、いざという時には人を出して教会前に集まる算段らしいのです。ですが、私らの主人たちは仕事の性格上、あまり人手を持ちません。なんの協力もしないで十分の一税がめんじよされたら、町で身の置き所がなくなってしまう」

「加えて、単純に聖典になにが書かれているのかみな興味があります。教会の言い分はどうにもなつとくしがたいが、神は実際のところどう言っているんだ? と」


 職人たちの反応から、ハイランドの計画はうまくいっていることがよく伝わってくる。

 世界が変わるかもしれないという感覚に、言いようのない興奮を覚える。


「ハイランド様からお聞きしたところによれば、あなた様は学識豊かな神学者だとか」

「ぜひ我々にも御指南を」

「え、あ、いえいえ、めつそうもありません。おそおおいことです」


 ハイランドはずいぶんあっちこっちで持ち上げてくれているらしいが、はったりをかせて人々をせんどうするという意味もあるのだろう。ハイランドは人がいいだけの貴族ではない。


「ほほう。けんそんの美徳を備えた聖職者というのを初めて見ましたぞ」

「さすが、ご立派」


 こうなるところまでがハイランドの策略のような気がして、目を丸くする筆者職人たちを前に苦笑いするばかりだった。

 そして、かれらの作業場を確保するのがまた大変だった。デバウ商会の商館は、いくつもの建物を無理やりろうでくっつけたような作りで、案内がないと迷ってしまうくらいに複雑で広い。

 それでもなお、どの部屋もいっぱいで、結局自分たちの間借りしている部屋を使うことになった。


「ミューリ、そっちを持って」


 と、ベッドや調度品をすべてかべぎわに寄せ、の部屋から机を持ってきて中に入れた。

 たちまちこうぼうか教会の筆耕室かという感じになった部屋の中で、ミューリだけがぽつんとベッドの上でひざかかえていた。


「それで、写す文書はどれになりますか」

「こちらです。分担して写していってください」

つづりのちがいは正してありますかな。私は字が読めませんので」


 文字を読めない筆写職人はめずらしくない。文字も結局絵みたいなものなので、模写する能力があれば仕事はできる。むしろそのほうが元の文書の文字を忠実に再現できるので、喜ばれることさえある。問題は、ちがいもまた正確に写し取ってしまうことだ。

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