第三幕 ②

「こちらにわかるはんき出してありますが……」


 文字が読めないのでは、どこの部分を修正してあるのかがわからないだろう。かといってほんやくの記されている羊皮紙に直接みをするのはまずい。どうしたものかと思っていると、「御安心され」と男はかばんから針山を取り出した。


「これを、つづりのちがっている単語のところにしてください。あとはこちらを参考にして正しいつづりにします」

らしい」


 職人の合理的なには感服する。さつそく男の分担する羊皮紙に、次々針を打っていく。

 残る二人は手首に布を巻いたり、作業の時にはいつもそうしているのか小さなひじかけを用意していた。それがいかにもこれから戦いにおもむたちの準備に見えて、たのもしい。あっという間に作業体制が整った。


「では、教会にひと泡吹かせましょうかね」


 職人の一人がそう言って、おのおの作業にかった。

 さて自分もほんやくの続きを、と思ってふと気がつく。ミューリがいない。そういえば朝御飯がどうこう言っていたことを思い出す。もしかしたら、自分が起きるのを待って食べていなかったのかもしれない。

 あわてて部屋から出ると、ろうまどわくに寄りかかり、中庭をながめながら小鳥にえさをやっているミューリがいた。


「ミューリ」


 と、その名を呼ぶと小鳥がぱっと散ってしまう。


「兄様は意外に動物にきらわれるよね」


 オオカミの血が流れるミューリはそんなことを言って、手の上で小鳥がついばんでいたパンをがぶりと食べる。


「朝御飯を……そのパンは?」

「外の通りで軽くおどってもらってきた」


 ふりふりとこしる。

 どうやら、少しおこっているらしかった。


じようだんだよ」

「わかってます、ですが──」

「私も路銀くらい持ってきてるからね。はい、兄様の分」


 こちらの言葉をさえぎって、ミューリは手にげていたふくろから、からからにかわいたパンと干し肉を取り出して押しつけてきた。


「そのパン、船乗りの人が食べる二度焼きのパンなんだって。歯が折れるくらいかたいよ」


 にっと犬歯を見せて笑う。確かにカチカチのようだが、気になったのはそこではない。


「ええと、ミューリ、私は作業があるのですが……」

「わかってるよ。さすがに、あの部屋に私がいたらみようだって」


 無理やり旅についてきたのはミューリだし、居場所がないとわかってニョッヒラにおとなしく帰ってくれるのであれば、それは実に助かることだ。

 しかし、いざ実際にじや者としか言えないじようきようになると、気になってしまう。


「って、顔に書いてある」

「……」

「ま、帰ってあげないけどね」


 ミューリは意地悪そうに笑って、動けないこちらの胸を指でく。


「ヘレンさんたちが兄様をからかって意地悪する気持ち、わからなくもないなあ」


 なにを生意気なことを、とにらみ返すころには、ひらりときよを開けていた。


「ここはどこもいそがしそうだから、お仕事見つけて働いてるよ。幸い、この格好だし」


 ミューリは昨日に引き続き、商会のぞうが着ているのと同じ服を着ている。

 ただ、かみがいつものままだったので、その服装だとひどくだらしなく見えた。


「ならかみはきちんとしないとだめです」


 そう言って、続けた。


ってあげますから」


 多分、わざとわえていなかったのだ。


「ふふ。はあい」


 うれしそうに笑って、開けたきよめてくる。いいようにされている感があるが、ミューリがげん良くしてくれていればそれでいいかと思い直す。

 ちゆう、何度かそうをするぞうや荷物を運ぶ商会の者たちが通り過ぎたが、客がぞうかみっている様子に、みな不思議そうな顔をしていた。

 確かに少しずかしかったが、自由なミューリだけが意にかいさず、じようげんなのだった。



 それから数日は、ひたすらに作業をした。

 ハイランドがわたしてくれたほんやく文はほとんど直すようなところもなく、むしろ勉強ばかりさせてもらった。ウィンフィール本国ではこの先のほんやくが進んでいるとのことだから、自分がほんやくすれば先行するほんやくたいこうすることになる。なんともおそおおい所業だと思ったが、楽しくもあった。どうせ失うものなどない自由な身。好きにやらせてもらうことにした。

 また筆写職人たちのうでも良く、ハイランドから受け取ったげん稿こうはどんどんその枚数を増やしていった。細密職人によってらんがいそうしよくなどをしなければ、一日に五枚は書けるらしい。全十三章の聖典の内、ハイランドから受け取ったげん稿こうが前四章分で、それらはたちまち数を増やしていった。

 出来上がるたびにハイランドはそれを受け取り、アティフの都市貴族や、へきの外に住む土地持ちの貴族にわたしていた。また町の人々からもようせいがあり、二部ほどわたした翌日には、各組合の責任者がうちにもしいとせてきてさわぎになった。

 ハイランドのゆうぜいのおかげなのかもしれなかったが、元々この町にはそういう下地があったのだろう。すぐ側の海はこくなほど冷たく、川をさかのぼれば雪深い山にあたる。職人たちに聞けば、ごく最近までれた北の海からやってくるかいぞくしゆうげきがあったらしい。へきの外はのんびり住むことのできるかんきようではなく、町全体が神の教えにえていた。

 そんな具合だったので、連日連夜おそくまで作業するのも苦にならなかった。これまではだれに必要とされることもなく、ひたすら勉強にんでいた。ついにそれが役に立つとなれば、どんなつらさもつらさの内になど入らなかった。職人たちは日暮れと共に帰ったが、当然、そこで作業を止めることはなかった。あまりによるおそくまでろうそくともしているせいで、ついに夜はミューリに部屋から追い出された。仕方なくろうに大きめの木箱とを置き、毛布にくるまりながら作業をしたら、より集中できたくらいだった。ミューリはそれをあてつけだとおこっていたが、多分、一人でねむるのが寒かったのだろう。

 目が覚めてから、目を開けていられなくなるまで、ことによっては夢の中でさえひたすらに聖典のことを考える時間は至福だった。ニョッヒラではロレンスの理解があったものの、湯屋の仕事がなくなるわけではない。まさしくあこがれていた生活だった。

 ただ、ゆいいつその生活を乱すのは、ニョッヒラでもアティフでも、やはりミューリだ。商会の仕事を手伝い終わるとミューリは部屋にもどってきて、その日にあったことをちくいち報告してきた。生返事ばかりしていたらやがて静かになったが、その代わり、を並べて聖典を読むようになっていた。聖典のほんやくを読んでいて、わからないことについてならきちんと質問に答えた、というのも理由かもしれない。

 ただ、あまりに根をめていたせいか、ミューリはこちらの体調を心配するようになった。朝出かける時に用意してくれた食事が、帰ってきた時に全く減っていないのだから、それも当然だったかもしれない。

 いつもはこちらがミューリの生活態度をしかるのに、立場が全く逆転してしまっていた。夜も部屋から追い出されることがなくなり、代わりにろうそくきた時点で無理やりベッドにまれた。その様子がごとのようにおもしろく、ミューリに弟か妹がいたら、きっと良い姉になっただろう、などと思ったりした。

 とはいえ、やはり自分の熱意はミューリには理解しがたいことだったのだろう。ある日、またもや机から引きはがすようにして連れて行かれたベッドの中で、ミューリはこう言った。


「ねえ、兄様。ひとつ聞いてもいい?」


 返事をしようとしたが、ろくにのどを使っていないせいか、ひどくんでから、なんですかと言った。


「兄様は、どうしてそんなになるくらい神様の教えに夢中なの?」


 ミューリとしては小言のつもりだったのかもしれないが、ずいぶん根源的な問いだった。


「ごほ……んんっ。話したことありませんでしたか?」

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