「ない。だから……ちょっと、怖い」
毛布の中でミューリがこちらの腕にしがみついているのは、自分が寝ている間に逃げ出して机に戻らないかと警戒しているようでもある。実際、眠りの中でどうにもうまく表現できなかった特殊な単語の訳を思いついて、飛び起きることが何度かあった。
ただ、確かによくよく考えれば、ミューリにそういうことを話した記憶がなかった。幼い頃からたくさんの会話をしてきたことを思うと、少し不思議な気がした。
「そうですか……。とはいえ、難しい質問です。一言で言うのはとても難しいのですが」
「話して。それで納得できたら、寝る前の蠟燭を二本にしてあげる」
蠟燭一本分作業を延長できるなら、悪くない。それに、なぜ神の教えに執着するのかということをうまく説明できれば、ミューリが神の教えに目覚める良いきっかけになるかもしれない。
ゆっくりと考えをまとめ、暗い天井を見ながら、口を開いた。
「元々、私は教会の神の教えなど信じていませんでした」
「えっ!?」
ミューリが耳元で驚きの声を上げる。その驚きようは、世間ではお湯を沸かすのにお金がかかると知った時に匹敵した。
「本当です。私の生まれた村は、いわゆる異教徒の住む村でした。祈りを捧げる先と言えば綺麗な泉か、見上げるばかりの巨木であり、神と言えば村を守ってくれると言い伝えられた大きな蛙のことでした」
「蛙?」
「そういう言い伝えがあったのです。もしかしたら、昔は本当にいたのかもしれません」
なにせ、ミューリの母親は巨大な狼の化身なのだ。
「まあ、そんな村で生まれた自分ですから、教会の教えを学ぼうと素直に思ったわけではありません。皮肉なことなのですが、そう決意したのは、生まれた村が教会の兵に滅ぼされそうになってからのことです」
ミューリにこういう話をしたことがなかった理由を思い出した。面白い話ばかりではないからだ。
「交流のある村がどんどん滅ぼされ、勿論打つ手などありませんでした。村の神様にどれだけ祈っても、助けなんてやってきません。大人の男の人たちは死を覚悟で最後まで戦い抜き、女性や子供たちは二度と村に帰ってこられないつもりで逃げる準備をしていました」
今も世界のどこかで起こっていることなのだろうが、あの時はもっと頻繁にこういうことが起きていた。ミューリは押し黙り、腕にしがみつく力を込めてくる。首をすくめていて、話を聞きたがったことを少し後悔しているようでもあった。
「まあ、結論から言えば、村は偶然が重なって滅びませんでした。今も健在です」
ミューリは明らかに、ほっとしていた。
「しかし、当時、私の生まれた村がある北の地一帯は、異教徒の地と呼ばれ戦争状態でした」
「……ニョッヒラだけ、安全だったんだっけ?」
古い土地であるニョッヒラは、当時は異教徒の土地にある正教徒たちの楽園と呼ばれていた。
「そうです。だからまたいつ教会が攻めてくるとも限らず、村を守る手段は、ひとつしかないと思いました。それは、自分が教会の偉い人になるというものです」
そう言うと、ミューリは明らかに戸惑っていた。
それくらい、単純な発想だと自分でもわかる。
「当時はその……今以上に世間のことをなにも知らない子供でした。どこまでも単純な発想で、同時に打算的でした。変に賢しらだったというか。そんなわけですから、あの時は神の教えを学んではいたものの、信じているのは教会という組織の恐ろしさであり、強さでした。周りで神の教えを学んでいる人たちも、将来特権的な仕事に就きたいがためで、誰も真面目に神の教えを実践してはいませんでしたよ」
大学都市と呼ばれる、教会に博士として認定された賢人たちが集まる賑やかな町でのこと。
勉強には金がかかり、金がかかる場所には詐欺師が集まってくる。自分はそこで有り金を巻き上げられ、借金を背負い、ほうほうの体で逃げ出した。
辛い体験だったが、そのおかげで、今がある。
「それでも私の性格に合っていたのか、神の教えを学ぶのは楽しかったです。いつの間にか自分の血肉となり、身につけば学ぶことそのものが楽しくなります。ただ、どうしても、信仰心というものは自分の胸の中にしっくりと収まりませんでした。確固たる信仰心を抱くには、世界はあまりにも理不尽で、不確実すぎましたからね」
村がある日あっさり滅ぼされそうになったり、単なる幸運によってそれから免れたり、蛙の神様を信奉しているのが自分たちの村だけだと気がついたり、この世には確かなものなどなにひとつないと感じられた。
世界で唯一正しいのは、より強い者の暴力が勝つ、ということだけに思えていた。
「その思いが覆るのは、二人の風変わりな旅人に出会ってからです」
「……父様と、母様?」
「正解です」
些細なことでも、ミューリは褒められて嬉しかったらしい。懐炉代わりに夜は出している尻尾が、共有している毛布の下でわさわさして、くすぐったい。
「でも……なんで? むしろ、母様と出会ったのなら、教会の神なんて噓っぱちだと思わないの?」
それ以上強力な神の存在への反証も、なかなか存在しないだろう。
ただ、信仰というものはもっと別の種類のものなのだ。
「その考えは、正しいと思います。けれど、なんというか、違うんです。神が実際に天上におわすかどうかという、そういう存在論的な話も重要ですが、それとは別に、そもそもこの世には心の底から信じられるなにかがあると、そう教えてくれたのが、お二人なのです」
「……わかんない」
不満そうに、毛布の下で尻尾が動いていた。
「この世に絶対確かなことがあるとしたら、お二人の絆はそのうちのひとつだと思いませんか?」
そう尋ねると、ミューリは少し驚いたらしい。
それから、しばし考えた後に、なぜかちょっと嫌そうに言った。
「そう、かも。父様と母様、気持ち悪いくらい仲がいいんだから」
実の娘から見たら、そんな感想なのかもしれない。
「でも、それが神の教えにどう繫がるの?」
「それはですね」
そう言って目を閉じたのは、ホロとロレンスの二人に出会ってからの、騒がしくて時として危険な、そのくせ妙に笑えるところのある大冒険のことを思い出すためだった。
「お二人はどんな困難に見舞われても、絶望的な状況に陥っても、決して相手の手を離そうとはしませんでした。なぜなら、相手との想いだけはこの世で絶対のものだ、と確信していたからです」
「……」
ミューリがなにも言わなかったのは、やっぱり両親のそんな話をされるのは照れ臭いからだろう。
「なにかを確信できれば、どんな困難にも打ち克てるのだと、お二人を見て思いました。そして、そのなにかは、確かにこの世に存在しうるのだと私は初めて知ったのです。そう思って見渡してみれば、信念というものがどれほどこの冷たい世界を生き抜く中で重要なものか、私はよく理解できました」
それは愛する人への想いだったり、所属する集団や仕える領主への忠誠であったり、中には守銭奴のようにあまり褒められない信念もあるだろう。
だが、共通しているのは、その信念があるからこそ、人々は強くあれる、ということだった。
「と、同時に、そのよるべのない者たちの哀れさや非力さも痛感しました。自分がそうでしたからね」
もうあの頃の絶望は本当の意味では理解できないだろうし、理解したくもない。何物にもすがれないという孤独は、人を生きながらにして死の淵に引きずり込む病魔のようなものだ。
「そこで初めて、自分の中にある神の教えに血が通ったのです」
神は常にあなたと共に。
そういうことだったのかと、頭の蓋が開いた気がした。
「神は絶対に私たちを見捨てない、という教えの意味が分かった時、温かい湯が滝のように突然落ちてきた感じがしました」