第三幕 ③

「ない。だから……ちょっと、こわい」


 毛布の中でミューリがこちらのうでにしがみついているのは、自分がている間にして机にもどらないかとけいかいしているようでもある。実際、ねむりの中でどうにもうまく表現できなかったとくしゆな単語の訳を思いついて、飛び起きることが何度かあった。

 ただ、確かによくよく考えれば、ミューリにそういうことを話したおくがなかった。幼いころからたくさんの会話をしてきたことを思うと、少し不思議な気がした。


「そうですか……。とはいえ、難しい質問です。一言で言うのはとても難しいのですが」

「話して。それでなつとくできたら、る前のろうそくを二本にしてあげる」


 ろうそく一本分作業を延長できるなら、悪くない。それに、なぜ神の教えにしゆうちやくするのかということをうまく説明できれば、ミューリが神の教えに目覚める良いきっかけになるかもしれない。

 ゆっくりと考えをまとめ、暗いてんじようを見ながら、口を開いた。


「元々、私は教会の神の教えなど信じていませんでした」

「えっ!?」


 ミューリが耳元でおどろきの声を上げる。そのおどろきようは、世間ではお湯をかすのにお金がかかると知った時にひつてきした。


「本当です。私の生まれた村は、いわゆる異教徒の住む村でした。いのりをささげる先と言えばれいな泉か、見上げるばかりのきよぼくであり、神と言えば村を守ってくれると言い伝えられた大きなかえるのことでした」

かえる?」

「そういう言い伝えがあったのです。もしかしたら、昔は本当にいたのかもしれません」


 なにせ、ミューリの母親はきよだいオオカミしんなのだ。


「まあ、そんな村で生まれた自分ですから、教会の教えを学ぼうとなおに思ったわけではありません。皮肉なことなのですが、そう決意したのは、生まれた村が教会の兵にほろぼされそうになってからのことです」


 ミューリにこういう話をしたことがなかった理由を思い出した。おもしろい話ばかりではないからだ。


「交流のある村がどんどんほろぼされ、もちろん打つ手などありませんでした。村の神様にどれだけいのっても、助けなんてやってきません。大人の男の人たちは死をかくで最後までたたかき、女性や子供たちは二度と村に帰ってこられないつもりでげる準備をしていました」


 今も世界のどこかで起こっていることなのだろうが、あの時はもっとひんぱんにこういうことが起きていた。ミューリはだまり、うでにしがみつく力をめてくる。首をすくめていて、話を聞きたがったことを少しこうかいしているようでもあった。


「まあ、結論から言えば、村はぐうぜんが重なってほろびませんでした。今も健在です」


 ミューリは明らかに、ほっとしていた。


「しかし、当時、私の生まれた村がある北の地一帯は、異教徒の地と呼ばれ戦争状態でした」

「……ニョッヒラだけ、安全だったんだっけ?」


 古い土地であるニョッヒラは、当時は異教徒の土地にある正教徒たちの楽園と呼ばれていた。


「そうです。だからまたいつ教会がめてくるとも限らず、村を守る手段は、ひとつしかないと思いました。それは、自分が教会のえらい人になるというものです」


 そう言うと、ミューリは明らかにまどっていた。

 それくらい、単純な発想だと自分でもわかる。


「当時はその……今以上に世間のことをなにも知らない子供でした。どこまでも単純な発想で、同時に打算的でした。変にさかしらだったというか。そんなわけですから、あの時は神の教えを学んではいたものの、信じているのは教会という組織のおそろしさであり、強さでした。周りで神の教えを学んでいる人たちも、将来特権的な仕事にきたいがためで、だれに神の教えをじつせんしてはいませんでしたよ」


 大学都市と呼ばれる、教会に博士としてにんていされたけんじんたちが集まるにぎやかな町でのこと。

 勉強には金がかかり、金がかかる場所には師が集まってくる。自分はそこで有り金を巻き上げられ、借金を背負い、ほうほうの体でした。

 つらい体験だったが、そのおかげで、今がある。


「それでも私の性格に合っていたのか、神の教えを学ぶのは楽しかったです。いつの間にか自分の血肉となり、身につけば学ぶことそのものが楽しくなります。ただ、どうしても、しんこう心というものは自分の胸の中にしっくりと収まりませんでした。確固たるしんこう心を抱くには、世界はあまりにもじんで、不確実すぎましたからね」


 村がある日あっさりほろぼされそうになったり、単なる幸運によってそれからまぬがれたり、かえるの神様をしんぽうしているのが自分たちの村だけだと気がついたり、この世には確かなものなどなにひとつないと感じられた。

 世界でゆいいつ正しいのは、より強い者の暴力が勝つ、ということだけに思えていた。


「その思いがくつがえるのは、二人の風変わりな旅人に出会ってからです」

「……父様と、母様?」

「正解です」


 さいなことでも、ミューリはめられてうれしかったらしい。かい代わりに夜は出している尻尾しつぽが、共有している毛布の下でわさわさして、くすぐったい。


「でも……なんで? むしろ、母様と出会ったのなら、教会の神なんてうそっぱちだと思わないの?」


 それ以上強力な神の存在への反証も、なかなか存在しないだろう。

 ただ、しんこうというものはもっと別の種類のものなのだ。


「その考えは、正しいと思います。けれど、なんというか、ちがうんです。神が実際に天上におわすかどうかという、そういう存在論的な話も重要ですが、それとは別に、そもそもこの世には心の底から信じられるなにかがあると、そう教えてくれたのが、お二人なのです」

「……わかんない」


 不満そうに、毛布の下で尻尾しつぽが動いていた。


「この世に絶対確かなことがあるとしたら、お二人のきずなはそのうちのひとつだと思いませんか?」


 そうたずねると、ミューリは少しおどろいたらしい。

 それから、しばし考えた後に、なぜかちょっといやそうに言った。


「そう、かも。父様と母様、気持ち悪いくらい仲がいいんだから」


 実のむすめから見たら、そんな感想なのかもしれない。


「でも、それが神の教えにどうつながるの?」

「それはですね」


 そう言って目を閉じたのは、ホロとロレンスの二人に出会ってからの、さわがしくて時として危険な、そのくせ妙に笑えるところのある大ぼうけんのことを思い出すためだった。


「お二人はどんな困難にわれても、絶望的なじようきようおちいっても、決して相手の手をはなそうとはしませんでした。なぜなら、相手とのおもいだけはこの世で絶対のものだ、と確信していたからです」

「……」


 ミューリがなにも言わなかったのは、やっぱり両親のそんな話をされるのはくさいからだろう。


「なにかを確信できれば、どんな困難にもてるのだと、お二人を見て思いました。そして、そのなにかは、確かにこの世に存在しうるのだと私は初めて知ったのです。そう思ってわたしてみれば、信念というものがどれほどこの冷たい世界をく中で重要なものか、私はよく理解できました」


 それは愛する人へのおもいだったり、所属する集団や仕える領主への忠誠であったり、中にはしゆせんのようにあまりめられない信念もあるだろう。

 だが、共通しているのは、その信念があるからこそ、人々は強くあれる、ということだった。


「と、同時に、そのよるべのない者たちのあわれさや非力さも痛感しました。自分がそうでしたからね」


 もうあのころの絶望は本当の意味では理解できないだろうし、理解したくもない。何物にもすがれないというどくは、人を生きながらにして死のふちきずりびようのようなものだ。


「そこで初めて、自分の中にある神の教えに血が通ったのです」


 神は常にあなたと共に。

 そういうことだったのかと、頭のふたが開いた気がした。


「神は絶対に私たちを見捨てない、という教えの意味が分かった時、温かい湯がたきのようにとつぜん落ちてきた感じがしました」

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