大げさで笑われるかもしれないと思ったが、ミューリは意外なことに笑わなかった。それどころか、こちらの腕にしがみつく力を一段込めて、肩に甘嚙みするように口を当ててきた。
「それは、わかる。兄様がずっと私の味方だって言ってくれた時、同じように感じた」
不貞腐れたような物言いは、照れているのかもしれない。ミューリが母親のホロから自分の体に流れる狼の血のことを教えられた、あの時の話だ。
「聖職者になれば、そういう温かさを、この世で孤独の寒さに震えている人たちに届けることができます。私はどうしようもなく途方に暮れていた子供の時、たまたまホロさんとロレンスさんに出会えましたが、世の中の多くの人にそんな幸運は訪れません。ですが、自分自身がその幸運の運び手になれることはある、と気がつきました。神の愛は無限で、分け隔てないのですから」
そのためには可能な限りに神を理解しなければならない。あらゆる疑念に対抗できるようにしなければならない。眠気を堪えるために生のたまねぎを齧りながら勉学に打ち込んでいたのは、まさしくその信念があったからだった。
「えっと……」
と、ミューリが戸惑いがちに言ったので、ちょっと言葉に熱がこもりすぎたかと反省した。
「すみません、やや大仰でした。ただ、大きく外れてはいないと思います」
「ううん。そうじゃなくて……兄様が勉強してたのには、きちんと理由があったんだなって驚いた。うちの兄様は、きっとちょっと変なんだって思ってたから」
「え」
若干傷ついて隣のミューリを見やると、暗闇の中でなおわかるくらい、意地悪そうに笑っていた。
「でもわかったよ。それだけ真面目なこと考えてる兄様はやっぱりちょっと変だし、ヘレンさんとか踊り子さんに言い寄られてもなびかないよね」
「ミューリ」
声を低めても、ミューリは嬉しそうにするばかりだ。
「それに、村から飛び出した理由も少しわかった。なんで教皇とかいうのが税金を取るか取らないかで兄様が怒るのかわからなかったけど……大事なものを傷つけられてたんだね」
そのとおりだった。あまりに的確に指摘されて、声を上げそうなほどだった。
教皇は人々の救いとなる神の教えを、税欲しさに道具として用いている。そのことがどうしても許せないのだ。
「私が今、その理解を得られてどれだけ嬉しいか伝えられないのが残念です」
「へえ? じゃあ、ぎゅっとして。小さい頃みたいに」
背が伸びて母親のホロそっくりの見た目になり、山で獣を追い回すよりも着飾ることに目覚め、成長してしまったなとやや寂しくあった。しかし、根っこのところはまだまだ子供のままなのだろう。
やれやれと苦笑しながら隣のミューリを抱きしめると、ミューリもくつくつと笑っていた。
「けど、兄様さ」
「なんですか?」
「私が母様から耳と尻尾のことを聞いて泣いてた時に、その大事な神様の話をしなかったのはなんでなの?」
確かに話の流れ的にはそうだ。
そして、その理由は、どうにも具合が悪い。
「それはですね……」
「うん」
ここで誤魔化せば、ミューリは逆に意地悪く食らいつくだろう。観念することにした。
「私でさえ、神の姿は見たこともないからです」
「へ?」
「ですが、私ならここにいます。見て、触れて、話せます。だからです。神の僕を志す身としては……その……矛盾しているのですが……」
まったく情けないことこの上ない。こういうところから、教会の多くの欺瞞も生まれるのだろう。ミューリも呆れているに違いないと思ったら、唐突に言った。
「もう一度ぎゅっとして」
「ええ?」
「見て、触れて、話せるんでしょ? ほら、私のシンコーシンがなくなっちゃうよ!」
ミューリが神への信仰心を抱く日は遠そうだが、それはある意味良いことなのかもしれない。
姫の言うとおりにした。
そして、真面目に仕事をしているせいなのか、いつもの特技なのか、ミューリはいつのまにか腕の中で寝息を立てていた。自由気ままなところも相変わらず。ただ、小柄とはいえ幼い頃とは違って抱きしめ続けるのは腕が辛い。起こさないようにそっと腕を離し、ほうと息を吐く。
それからもう一度寝顔を見ると、自然と顔がほころんでしまう。
世界の確かなことのひとつに、この寝顔の無邪気さを付け加えてもいいかもしれない。
明日からもまた頑張れると、そう思える寝顔だった。
祈りと思索の日々を繰り返し、ハイランドから渡された原稿の写本の写本が町に出回る頃、ミューリが読んでいた聖典の翻訳も、自分の翻訳に追いついた。ちょっかいを出したくて仕方がないミューリは、早く、早く、などとわざと急かしてきたが、その気持ちは自分も同じだった。ようやく第七章まで翻訳が終わった時には、止めていた息を大きく吸い直した感じがしたほどだ。
聖典の主要な教えは第七章までで、残りは神から言葉を賜る預言者の旅の模様や、弟子たちの言行録になる。もちろん翻訳は暫定的なもので、手直しは山ほど必要だろうが、大意は伝わるはずだ。
そして、なんとか間に合った、という想いがあった。根回しに奔走していたハイランドが、いよいよ教会の大司教と本格的に話し合いを始めたのが、昨日のこと。
話を聞く限り、町の雰囲気は完全にウィンフィール王国派一色だと想像できる。町の人々の尊敬の念と寄付によって成立する町の教会ならば、町の人々の意向は無視できないだろう。
神の基本的な教えが記された第七章までの翻訳は、その後押しになるはずだった。
それに、町の人々がこんなにも神の教えに興味を持ってくれることに胸がいっぱいになる。
世の中は捨てたものじゃない。正しい物は正しく、道は真実へと続いているのだ。
職人たちも帰った日暮れ過ぎ、まだなんとか太陽の残滓が通りを挟んだ向かい側の建物の屋根に感じられる頃のことだった。
「兄様ー、作業終わったー?」
ノックもなしに扉を開けるのはミューリくらいしかいない。
振り向くと、なんだかとても久しぶりにミューリの顔を見た気がした。
「今日くらいに終わるって言ってなかった?」
「たった今」
「よしよし」
まるで親方みたいな言い方に、思わず笑ってしまう。
「あなたも少しは労働について学べましたか?」
「もちろん。私、毎日大活躍だからね。あっちこっちで引っ張りだこだよ。けど、一番びっくりしたのは、世の中にはたくさん仕事があるんだなってことかな」
翻訳を記した羊皮紙のインクの乾き具合を確かめながら、ミューリの楽しそうな様子に心が休まるのを感じた。
「商会は世を回す水車ですからね」
「地味で面倒な仕事も多かったけど」
「それが世の中というものです」
「わかってるけど……でもさ、呆れるくらいの量の木箱にぎっしり詰まった貨幣の枚数とか数えさせられたりもしたんだよ? それに、あんなにお金がたくさんあるのに、一日中手を真っ黒にして数えて、もらえるのはそのうちのほんのほんのほんのちょっと!」
そういえばミューリがしきりに手の臭いを気にしている夜があった気がする。魚でも触ったのかと思っていたが、貨幣の金物臭さを気にしていたらしい。
「けど、不思議なんだよね」
「不思議? なにがですか」
「使いっ走りで両替屋さんに走らされたりもしたけど、なんであのお金を使わないんだろって」
「誰かから預かっているお金か、大規模な取引用か、あるいは、輸出用ですね」
「輸出? それって、他所の町に売るってこと? でも、町中で小銭がなくてみんな困ってるのに?」
「この町よりもっと必要としているところがあれば、そちらに売ったほうが儲かるということがあるんでしょう。よくあることですよ」
「ふーん。変なの」
その貨幣の輸出を巡り、昔の自分は大きなからくりに気がついたことがあるんですよ、と自慢したくなったが、大人げないかと自重した。