第三幕 ④

 大げさで笑われるかもしれないと思ったが、ミューリは意外なことに笑わなかった。それどころか、こちらのうでにしがみつく力を一段めて、かたあまみするように口を当ててきた。


「それは、わかる。兄様がずっと私の味方だって言ってくれた時、同じように感じた」


 くされたような物言いは、照れているのかもしれない。ミューリが母親のホロから自分の体に流れるオオカミの血のことを教えられた、あの時の話だ。


「聖職者になれば、そういう温かさを、この世でどくの寒さにふるえている人たちに届けることができます。私はどうしようもなくほうに暮れていた子供の時、たまたまホロさんとロレンスさんに出会えましたが、世の中の多くの人にそんな幸運はおとずれません。ですが、自分自身がその幸運の運び手になれることはある、と気がつきました。神の愛は無限で、へだてないのですから」


 そのためには可能な限りに神を理解しなければならない。あらゆる疑念にたいこうできるようにしなければならない。ねむこらえるために生のたまねぎをかじりながら勉学にんでいたのは、まさしくその信念があったからだった。


「えっと……」


 と、ミューリがまどいがちに言ったので、ちょっと言葉に熱がこもりすぎたかと反省した。


「すみません、ややおおぎようでした。ただ、大きく外れてはいないと思います」

「ううん。そうじゃなくて……兄様が勉強してたのには、きちんと理由があったんだなっておどろいた。うちの兄様は、きっとちょっと変なんだって思ってたから」

「え」


 じやつかん傷ついてとなりのミューリを見やると、くらやみの中でなおわかるくらい、意地悪そうに笑っていた。


「でもわかったよ。それだけなこと考えてる兄様はやっぱりちょっと変だし、ヘレンさんとかおどさんに言い寄られてもなびかないよね」

「ミューリ」


 声を低めても、ミューリはうれしそうにするばかりだ。


「それに、村から飛び出した理由も少しわかった。なんで教皇とかいうのが税金を取るか取らないかで兄様がおこるのかわからなかったけど……大事なものを傷つけられてたんだね」


 そのとおりだった。あまりに的確にてきされて、声を上げそうなほどだった。

 教皇は人々の救いとなる神の教えを、税しさに道具として用いている。そのことがどうしても許せないのだ。


「私が今、その理解を得られてどれだけうれしいか伝えられないのが残念です」

「へえ? じゃあ、ぎゅっとして。小さいころみたいに」


 背がびて母親のホロそっくりの見た目になり、山でけものを追い回すよりもかざることに目覚め、成長してしまったなとややさびしくあった。しかし、根っこのところはまだまだ子供のままなのだろう。

 やれやれとしようしながらとなりのミューリをきしめると、ミューリもくつくつと笑っていた。


「けど、兄様さ」

「なんですか?」

「私が母様から耳と尻尾しつぽのことを聞いて泣いてた時に、その大事な神様の話をしなかったのはなんでなの?」


 確かに話の流れ的にはそうだ。

 そして、その理由は、どうにも具合が悪い。


「それはですね……」

「うん」


 ここでせば、ミューリは逆に意地悪く食らいつくだろう。観念することにした。


「私でさえ、神の姿は見たこともないからです」

「へ?」

「ですが、私ならここにいます。見て、れて、話せます。だからです。神のしもべを志す身としては……その……じゆんしているのですが……」


 まったく情けないことこの上ない。こういうところから、教会の多くのまんも生まれるのだろう。ミューリもあきれているにちがいないと思ったら、とうとつに言った。


「もう一度ぎゅっとして」

「ええ?」

「見て、れて、話せるんでしょ? ほら、私のシンコーシンがなくなっちゃうよ!」


 ミューリが神へのしんこう心をいだく日は遠そうだが、それはある意味良いことなのかもしれない。

 ひめの言うとおりにした。

 そして、に仕事をしているせいなのか、いつもの特技なのか、ミューリはいつのまにかうでの中でいきを立てていた。自由気ままなところも相変わらず。ただ、がらとはいえ幼いころとはちがってきしめ続けるのはうでつらい。起こさないようにそっとうではなし、ほうと息をく。

 それからもう一度がおを見ると、自然と顔がほころんでしまう。


 世界の確かなことのひとつに、このがおじやさを付け加えてもいいかもしれない。

 明日からもまたがんれると、そう思えるがおだった。



 いのりとさくの日々をかえし、ハイランドからわたされたげん稿こうの写本の写本が町に出回るころ、ミューリが読んでいた聖典のほんやくも、自分のほんやくに追いついた。ちょっかいを出したくて仕方がないミューリは、早く、早く、などとわざとかしてきたが、その気持ちは自分も同じだった。ようやく第七章までほんやくが終わった時には、止めていた息を大きく吸い直した感じがしたほどだ。

 聖典の主要な教えは第七章までで、残りは神から言葉をたまわる預言者の旅の模様や、たちの言行録になる。もちろんほんやくざんてい的なもので、手直しは山ほど必要だろうが、大意は伝わるはずだ。

 そして、なんとか間に合った、というおもいがあった。根回しにほんそうしていたハイランドが、いよいよ教会の大司教と本格的に話し合いを始めたのが、昨日のこと。

 話を聞く限り、町のふんは完全にウィンフィール王国派一色だと想像できる。町の人々の尊敬の念と寄付によって成立する町の教会ならば、町の人々の意向は無視できないだろう。

 神の基本的な教えが記された第七章までのほんやくは、その後押しになるはずだった。

 それに、町の人々がこんなにも神の教えに興味を持ってくれることに胸がいっぱいになる。

 世の中は捨てたものじゃない。正しい物は正しく、道は真実へと続いているのだ。

 職人たちも帰った日暮れ過ぎ、まだなんとか太陽のざんが通りをはさんだ向かい側の建物の屋根に感じられるころのことだった。


「兄様ー、作業終わったー?」


 ノックもなしにとびらを開けるのはミューリくらいしかいない。

 くと、なんだかとても久しぶりにミューリの顔を見た気がした。


「今日くらいに終わるって言ってなかった?」

「たった今」

「よしよし」


 まるで親方みたいな言い方に、思わず笑ってしまう。


「あなたも少しは労働について学べましたか?」

「もちろん。私、毎日だいかつやくだからね。あっちこっちで引っ張りだこだよ。けど、一番びっくりしたのは、世の中にはたくさん仕事があるんだなってことかな」


 ほんやくを記した羊皮紙のインクのかわき具合を確かめながら、ミューリの楽しそうな様子に心が休まるのを感じた。


「商会は世を回す水車ですからね」

「地味でめんどうな仕事も多かったけど」

「それが世の中というものです」

「わかってるけど……でもさ、あきれるくらいの量の木箱にぎっしりまったへいの枚数とか数えさせられたりもしたんだよ? それに、あんなにお金がたくさんあるのに、一日中手を真っ黒にして数えて、もらえるのはそのうちのほんのほんのほんのちょっと!」


 そういえばミューリがしきりに手のにおいを気にしている夜があった気がする。魚でもさわったのかと思っていたが、へいの金物くささを気にしていたらしい。


「けど、不思議なんだよね」

「不思議? なにがですか」

「使いっ走りでりようがえ屋さんに走らされたりもしたけど、なんであのお金を使わないんだろって」

だれかから預かっているお金か、大規模な取引用か、あるいは、輸出用ですね」

「輸出? それって、の町に売るってこと? でも、町中でぜにがなくてみんな困ってるのに?」

「この町よりもっと必要としているところがあれば、そちらに売ったほうがもうかるということがあるんでしょう。よくあることですよ」

「ふーん。変なの」


 そのへいの輸出をめぐり、昔の自分は大きなからくりに気がついたことがあるんですよ、とまんしたくなったが、大人げないかと自重した。

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