「とにかく、ああいう仕事は嫌。港の仕事みたいなのが一番楽しいな」
「港?」
聞き返すと、ミューリは目をきらきら輝かせていた。
「大きな船に見上げるくらい荷物が積み上げてあってさ、その上に飛び乗って、陸で待ってる人たちに荷物を放り投げるの。港は船で押し合いへし合いしてて波が立って揺れまくるから、大変なんだよ! 特に今日なんて、すごい細長いトンボみたいな船が日暮れ近くに無理やり入ってきたりしてさ、港のしきたりがわかっちゃいないから、皆で罵ってやった!」
ミューリはふんと鼻を鳴らして胸を張る。すっかりデバウ商会の一員の、いっぱしの小僧気取りだ。素直な娘だし元気もいいので、ああいう場所の空気には染まりやすいのだろう。
トンボみたいな船、というのは風に頼らず巨大な櫓を何十本と並べて腕力で突き進む、快速船のことだろうか。なにか急ぎの荷があったのかもしれない。
それはさておき、喧騒に湧く港で、うずたかく積み上げられた荷物の上に飛び乗り作業する様を、軽く想像してみる。
「それは……結構危ないのでは?」
「ああ、何人か海に落ちてたよ。ずっと落ちなかったのは私だけ」
ミューリは得意満面、そう言った。ニョッヒラでは氷のように冷たい急流の側で、沢から沢に飛び移るような遊びを平気でしていた。もちろん泳ぎも達者だ。
ただ、問題はそこではない。
「私はあなたをロレンスさんとホロさんから預かっているんです。万が一怪我でもしたらどうするんですか」
「あ、知ってる。キズモノにしたら、責任をとらないといけないんだよね?」
「……」
大きくため息をつく。踊り子のヘレンたちから、意味も分からないままに聞きかじっているのだろう。
「ちょっと違いますが……概ねあっています」
「そう?」
ミューリがそんなことを言った直後、ぐう、と牛の鳴き声みたいな音がした。
「それよりお腹すいた。ねえねえ、作業終わったなら外に出られるんでしょ?」
ここ数日は、ずっと部屋で食事をしていた。ミューリは外の賑やかな場所でニョッヒラにはない食事をしたかったらしいが、こちらが梃子でも動かないとわかると、おとなしく商会の者に買ってきてもらったパンやらを部屋で食べていた。
「はいはいわかりました。私も久しぶりに体を動かさないと、このまま石になってしまいそうですしね」
「何度か本当に死んでるんじゃないかと思ったよ」
と、ミューリはけらけら笑ってから、突然なにかに気がついたように顔を上げた。
「あ、兄様!」
「なんですか?」
「外に出るなら、その格好はやめたほうがいい」
言われ、自分の格好を見下ろすが、ニョッヒラから出て来た時のままなにも変わっていない。
それとも、顔になにかついているのだろうかと思って頰を撫でたら、ミューリはぶんぶんと首を横に振る。
「そのいかにも聖職者っぽい外套脱いで」
「ええ?」
「いいから!」
言われるがままに脱ぐと、ミューリは上から下までじろじろ見て、うーんと唸る。
「まだなんかそれっぽいんだけど……」
「ミューリ? 一体なんですか?」
「兄様、ちょっと頭下げて」
聞き返すのも面倒で、言われたとおりに頭を下げた途端、わしゃわしゃと髪の毛をかきまぜられた。
「……ミューリ」
「こうして、あ、これいいかも」
辺りを見回したミューリは、インク壺の蓋を開け、細い小指の先にちょんとつけると、こちらの頰にざっと線を引く。そして、反対側にもこすりつけてから、距離を開けてこちらを見る。
「まあ、いいかな」
「ミューリ」
声に怒りを混ぜたものの、ミューリは怯みもせず、腰に両手を当てて胸を張る。
「今、聖職者の格好で外を出歩いたら危ないよ」
「……え?」
「力仕事の人たちの気が立ってるからね」
夕焼けに夜の帳が下りつつあり、ミューリの目が薄闇の中で怪しく光る。
「仕事の合間に町の人から話を色々集めてきたんだよ。頑張ったんだから」
「色々って……」
「役割分担だよ! 兄様は部屋の中で頑張ってるけど、世の中のことが全然わかってないからね。代わりに私が目となり耳となってってやつだよ! 冒険の基本でしょ?」
ぽかんとしていると、ミューリははっきり不機嫌そうな顔になった。
「まさか本当に暇つぶしで働いてただけだと思ってるの?」
「いや……」
てっきり、そうなのだと思っていた。
「もう! 兄様はそんなことだから駄目だって言うの! あの金髪だってなにを企んでるかわからないじゃない!」
ハイランドのような高位の人間が、単純な理由で動くとはもちろん思っていない。
しかし、ミューリはそれ以上に、根本から信じていないようだった。
「やっぱり、兄様は世の中の四分の一しか見てない」
「半分ですらないのですか?」
世の中にいるのは男と女。それでどうやら女のことは全くわかっていないらしいので、世の半分はわかっていない。甘んじてその評価を受け入れるとしても、さらに半分とはどういうことか。
すると、ミューリは困ったような、少し悲しいような顔をして、言った。
「兄様は人の良いところしか見ないからね」
この天真爛漫な少女は、時として深い場所に針を刺す。
「しかし、人は善意の塊じゃない。そうでしょ?」
冷たい真実だった。年の頃が半分のミューリに言われてしまうのだから、もしかしたら自分は四分の一のさらに半分しか見えていないのかもしれない。
茫然としているところに、ミューリの温かい手がこちらの手に重ねられる。
「もっとも、兄様が悪巧みしてるところって想像できないんだけど」
ミューリのことを見下ろすと、悪巧みばかりのミューリはくすぐったそうに笑う。
「だから私が兄様を守ってあげる。兄様が見てない場所を見て、崖から真っ逆さまに落ちないようにしないとね」
なにを生意気な、と思ったが、思考に没頭するあまり、荷馬車に轢かれそうになったところをミューリに助けられた。
どうにも言い返せないのだが、黙ってばかりでは沽券に関わる。
「では、私は狭い視界でなにを見ていればいいんですか?」
ミューリはこちらを斜めに見上げると、呆れたように首を振る。
「目を離せないのが一人いるでしょ?」
明らかに用法を間違えているが、ミューリはあまりにも自信満々だ。
その落差がおかしくて、つい笑ってしまっていた。
「そうですね」
「そうだよ」
ミューリはにっと歯を見せる。そして、こちらの腕に額を当てた。
「だからね……」
「え?」
声がくぐもって聞き取れず、聞き返した時にはもうミューリは腕から離れていた。
「それより、お腹すいた!」
なにか大事なことを言われたような気もしたが、鼻が痒くて擦りつけられただけのような気もする。なんにせよ、目を離せないのは確かなのだ。
「あまり食べすぎてはだめですよ」
「はあい」
気のない返事もいつものもの。
さっさと部屋を出て行くミューリの後を追いかけて、やれやれと笑ったのだった。
夜の町の賑わいは、昼とはまた違うものだった。
それはどちらかというとニョッヒラに近く、いわば酒と肉の宴と言える。
ニョッヒラと違うのは、通りにまではみ出した長椅子に腰かけて騒ぐのが、筋骨隆々のたくましい男たちということだ。港で働く荷揚げ夫や、大きな鋸で木材を加工する職人、あるいは大型船を繫いでおくような、恐ろしく太い綱を編む者かもしれない。潮で焼け、さらに酒で焼けている彼らのひび割れるような笑い声や怒鳴り声には、独特の迫力がある。
そして、ミューリの忠告は正しかったとすぐに理解した。
「大司教は結局どうするつもりなんだ?」
「今朝のお祈りも助司祭しか顔を見せなかった。我らがウィンフィール様に恐れをなしてやがる」
「違う違う、大司教とウィンフィール様はずっと教会内で会議してるんだよ」
誰も彼もが、話題にしているのは教会とウィンフィール王国、あるいはハイランドのことだった。事の趨勢を見守っているふうの者たちもいれば、税に不満を述べてハイランドを救世主と叫ぶ者もいる。