そんな彼らを眺めながらそぞろ歩き、日が暮れても通りに出ていた露店で、鱈の切り身を脂で揚げた物を挟んだパンを買った。ミューリは昼間の仕事で駄賃を得たのか、自分の財布から貨幣を取り出して、豚の腸詰も追加していた。
「確かに、あのままの格好で出てきていたら、おちおち食事もできないでしょうね」
酔っぱらいに絡まれ、お前はどっちの味方かと詰め寄られるのが目に見えている。
「見た目ってのは大事なんだよ?」
わかる? とばかりに小首を傾げられたので、笑顔でうなずいてからミューリの頭を小突いておいた。
通りの辻に立ち、行き交う人々を眺めながらパンをかじっていると、様々なことがわかる。
彼らがなにに興味を持ち、どんなことを話しているのか。中には、聖典の俗語翻訳版の写しがあると見せびらかす者もいた。畏敬の声が上がり、まるでそれさえあれば教会の悪弊を一蹴できると言わんばかりだった。
酔っているのはもちろんなので、彼らの言動を鵜吞みにするのは危険だ。しかし、彼らの期待の度合いが窺えた。これだけ多くの町の人々が味方しているのであれば、ハイランドの希望は叶うはず。大司教といえど、町の人々の意向は無視できない。その悪弊をきっと改め、教皇はおかしいと共に声を上げてくれることだろう。
「このままなら、正義が為されるかもしれませんね」
アティフの教会が嚆矢となって、次の町、次の町と繫がっていくかもしれない。自分がやっていた作業がその一助になると想像したら、わくわくしていてもたってもいられなくなる。
そんな希望に満ちた目で街角から様子を眺めていたら、すっかり町に溶け込んだ様子で壁にもたれかかり、パンをかじっていたミューリがため息をついた。
「正義……正義?」
「なんでですか? 皆、ハイランド様の示す正しい方向を向いているでしょう?」
尋ねると、ミューリは無表情にこちらを見て、本物の小僧のように顎をしゃくった。
なんだろうかと視線を向ければ、居酒屋が通り沿いに並べている長机で騒いでいる男たちだった。
「はっはっは!」
「ほーら、ほーら、見ろよ、見ろよ~」
囃し立てるような声と共に、犬の鳴き声も聞こえる。酔っ払いが手に干し肉を持って、野良犬をからかっているのだ。それ自体は珍しくない。市壁の中は動物で溢れている。
「そーら、十分の一の肉だ! 拾って食え!」
干し肉を放ると、犬が一目散に駆けていって肉を食べる。それを見て男たちは大笑いしている。そして、すぐに犬の様子がおかしいことに気がついた。
司祭服に似せた前掛けをつけさせられているのだった。
「犬の司祭様! 俺たちの十分の一のパンもどうぞ!」
犬が餌を食べるたびに、男たちはひっくり返らんばかりに大笑いしていた。
ミューリは半笑いだったが、こちらは全く笑えなかった。
あまりにもあからさまな、権威の冒瀆だったからだ。
「昨日くらいからあんな調子なんだよ。お酒飲んで騒ぐ人はニョッヒラで見慣れてるけど、ああいう人たちはそれとは全然違う。ちょっと……怖い」
ミューリはパンを食べ終え、手で服を払っていた。
「今日は昼間に、町の近くの島の教会から、そこの司教様が来たんだけどね。その時も凄かったんだから」
「……どんなふうに?」
犬は餌がもらえて大喜び。尻尾を振れば振るほど、男たちは大笑いだ。
「教会の偉い人が乗っている船って、教会の紋章を染め抜いた帆を掲げる決まりらしいのね。だから、皆すぐにどんな人が船に乗っているかわかった。そうしたら、物凄い割れんばかりの拍手と大歓声」
ミューリを見ると、その顔は暗い。表情と内容がちぐはぐだった。
それとも、ミューリは司教が歓迎されるのを嫌がっているのだろうか?
そう思っていたら、美貌の小僧はため息をつく。
「誰も歓迎なんてしてないんだよ。商会の人が教えてくれたけど、大司教の応援に呼ばれたんだって。町の雰囲気が教会に敵対してるから、あの金髪に対抗するためにって。それを皆わかってるから、わざとらしい拍手と大歓声で迎えたの。船をひっくり返すわけにもいかないしね。船から降りて来た司教さんは、戸惑って顔が青ざめてたよ。まずいところに来ちゃったって」
悪意。
そこにあるのは、権威に対しふつふつと煮立った悪意だ。
「誰も本当は歓迎してないのに、もみくちゃにされるのって怖いと思うな。その司教さんはいい人そうだったけど、逃げるように港から出て行ったよ」
全員が全員、特権の上に胡坐を搔いているわけではないだろう。この町の大司教でさえ、そうだ。聖務には熱心だというのだから、本当に悪い人なのではない。
「ここで何日か働いてみて思ったけど、みんな細かいことなんてどうでもいいんだよ。なんだろう、なんていうか、熱くなれる対象があればなんだっていいって感じかな。誰も彼もが、俺たちのなけなしの金を奪いやがってって怒ってるんだけど、十分の一税ってそんなに高いの? って聞いたら、俺たちは取られたことねえけどなあって、楽しそうに笑ってた」
確かに、一日荷物を運んでいくらの支払いをされる者たちから、いちいち税を集めているはずがない。そういうのは大きな商会や、関所、あるいは土地収入から取られるのだろう。もちろん、巡り巡って自分たちの支払いに影響している、と考えることもできるかもしれないが、それを実感するのは難しいはずだ。
「ねえ、兄様。兄様がどんなことを信じているかわかってるつもりだし、翻訳してる姿は本当に夢中で楽しそうだったから、ずっと黙ってたけどさ」
と、こちらを見上げた目は、見たことがないくらい真剣だった。
「兄様が翻訳した紙の写しも出回ってたけど、なんかそれがあれば、教会のどんな悪口を言ってもいいみたいなことになってるんだよ」
「翻訳版は、そんなものでは──」
「兄様がどう思うか、そこになにが書かれているかは、あんまり関係ないみたい」
神の教えなど細かいことはどうでもいい。こちらが日課として聖典の暗誦をしているのを見つければ、これ幸いと勝手に頭を垂れて、御加護があれば儲けもの、と考える商人たちだっていた。それが普通なのだ。
「だからね、本当に気をつけたほうがいいよ。あの金髪が、こうなるとわかっててやってるのかどうかも」
「それは……」
「あいつ、いいことしか言わないんだもの」
世界の半分の、もう半分。
ミューリの目を見つめ返すが、言葉は返せなかった。視線を逸らすと、からかわれている犬が目に入る。自分が無邪気すぎるのだろうか? だが、信仰とは本来無邪気なものだ。無邪気が悪いとするのなら、一体どうすれば良いのだろう?
ハイランドが聖人のような動機で動いているとはさすがに思わない。けれど、向かう先には正しさが待っているような気もする。
確かなことがなにかわからないこの感覚。
無性に、聖典が読みたかった。
「ミューリ」
「ん?」
からかわれる犬と、大笑いする人々を見ながら、言った。
「商館に戻りませんか」
自分はああいう悪意のために聖典を翻訳していたわけではない。教会の権威を虚仮にしたいわけではない。おかしいことをおかしいと述べて、単に正してもらいたいだけなのだ。
もちろん、彼らのような者がすべてではないだろうし、ハイランドがけしかけているとも思えない。それでも、自分は世界の四分の一しか見ていなかったのだと気づかされた。
「いいよ」
もっと買い食いしたい、と騒ぐかと思ったが、ミューリはあっさり返事をした。