第三幕 ⑦

 そして、かべから背をはなし、ととっと前に進み出ると、くるりといた。


「手もつないであげようか?」


 理想のためにがんっていたら、町の人々の予想もしなかった悪意を目の当たりにした。んでいるのが顔に出ていたのだろう。からかいながらも、気を使ってくれる。

 これでは、どちらが年上かわかったものではない。


「……はぐれたら、かないませんからね」

「兄様がね!」


 ミューリに手を引かれながら、来た道をもどる。

 少しだけ足が速いのは、わいざつで暴力的な町のふんから、少しでも早く引っ張り出そうとしてくれているのだろう。さわがしくてわがままで、時折とんでもないことを言い出してきもをつぶされるが、基本的には良いむすめなのだ。

 ならば、と思う。

 ミューリがとても良いむすめなら、ほかにも同じくらい良い人々がいたっておかしくない。

 世の中は疑い出せばきりがないことくらいわかっているし、悪い人がいることだってもちろん理解している。そもそも、自分がロレンスと出会ったのは、師に思いきりだまされたからだった。

 だから、たださを晴らしたいがために教会のけんにする人々がいる一方、多くの人々は聖典のほんやく版を読み、しっかりと教会との正しさとあやまちを理解してくれるはずだ。少なくとも、自分はそう信じたかった。

 ミューリと共に商館にもどり、この時間でもまだ残務に追われている者たちのすきって、三階の部屋に向かった。


「なんでもいいけど、今日くらいはゆっくりること! わかった?」

「わかりましたわかりました」


 がうがうとえるミューリに笑いけながら、とびらを開けた。するとたちまちインクのかおりがあふれ出し、外のけんそうでささくれ立った心が落ち着くような気がした。

 インクのかおりは、知とせいひつかおりだった。


「ただ、る前に少し顔を洗いたいですね。それと、ミューリ、あなたもすこしほこりくさいので、お湯をもらって──」


 と、話しながらろうそくに火をつけて、ようやく戸口のところでミューリが立ち止ったままなことに気がついた。


「ミューリ?」


 ミューリはこちらの問いかけに反応せず、ぶるりとぶるいしたかと思うと、耳と尻尾しつぽあらわにした。そして、部屋に入るととびらを閉じ、鼻を鳴らす。

 なにかのじようだんだろうかと思っていると、ミューリは見えない糸をせるように一直線に歩き出し、机の前に立った。


「ミューリ」


 疑問形ではなく、その名を呼んだ。机の上には、ほんやくされたばかりのげん稿こうがきちんとそろえて積まれている。部屋を出る前と、おそらく、なにも変わっていない。


「私たちがいない間、だれかがここにいたよ。何人かで」


 疑わなかったのは、ミューリの耳と尻尾しつぽの毛がぴりぴりと逆立っていたからだ。

 それに、部屋には特にかぎもついてない。だれもが自由に出入りできる。


「まさか、ぬすまれた?」


 羊皮紙の束をめくり、ろうそくで照らしてざっとかくにんする。しかし、枚数はあっているし、ひつせきも自分のものだ。


りつぶされているわけでもない……。だれかが、興味本位で読みに来ただけでは?」


 商会には熱心な信徒もいた。そろそろほんやくが終わるとうわさを聞きつけてやってきたが不在で、まんできずに読んでいたのかもしれない。

 そう思っていると、机の周りをなおもちゆうごしになってぎ回っていたミューリは、体を起こして鼻をこすった。


「さあね。私にわかるのは、だれかがここにいたということだけ。母様みたいにオオカミになれたら、だれがいたのかもわかるんだけど」


 ミューリはくやしそうに言って、一回くしゃみをしていた。

 ミューリは耳と尻尾しつぽを自在に出し入れできる一方、母親のホロのようにきよだいオオカミになることはできない。半分人の血が流れているからだろう。


「とにかく、兄様はもう少し気をつけてよ?」

「わかりました。ですが、あまり人を疑いすぎるのもどうかと思います」


 そう主張すると、うでみをしたミューリは尻尾しつぽをゆっくり大きくらし、不満げにこちらを見ていた。

 そして、大きくため息をつくと降参するようにかたをすくめていた。


「では、お湯をもらってきますが……念のため、たんけんゆかてて、つかとびらさえてつっかえ棒にしておいてください」

「そんなことするくらいなら、私も行くよ」


 おこったように言われ、それもそうかと思い直す。

 ろうそくを手持ちのしよくだいえ、部屋を出ようとした時だった。


「あ、ちょうど三階にだれか来たよ。だれだろ、この足音はルイスかな」


 耳をひくひく動かして、ミューリはそんなことを言った。働く中で仲良くなったぞうの名前かもしれない。ならばついでに湯をたのむかと思っていたら、ミューリがふっと耳と尻尾しつぽかくす。とびらがノックされたのは、そのすうしゆん後だ。


「お休み中のところ失礼します」


 きちんとあいさつもされた。不在の合間に部屋にはいみ、なにがしかを行っていた者ではないだろう。


「はい」


 返事をしてとびらを開けると、ミューリより二さいか三さいは年下の少年が立っていた。


「失礼します。ハイランド様がお呼びです」


 その一言で、部屋にいたのはハイランドだったのではと思い当たる。かれなららい主として、成果物を勝手に読む権利があるし、平民の部屋に無断で入ることになんらのしやくもないだろう。


「わかりました。すぐにうかがいます」


 そう返事をすると、ぞううやうやしく頭を垂れて、ちらりと視線を部屋の中に向けたのがわかった。まし顔を一転がおにして、小さく手もっていた。

 もちろん、気づかないりをするくらいのやさしさは持ち合わせている。

 とびらを閉じると、職人たちの使う机に寄りかかったミューリが、にこにこしていた。


「ルイス君でしたか?」

「うん。港でいつしよに働いて、二回海に落ちてた」


 ミューリのみは、親しみのそれなのか、海に落ちたけさを笑うものなのか、いまいち判別がつかない。多分、両方だろう。


「じゃあ、ちょっとハイランド様のところに行ってきますが」


 言葉を切ったのは、わざとだ。


「もちろん私も行く」

「おはないかもしれませんよ?」

「あんまりけされたら目がくもるから、ちょうどいいよ」


 実際、ハイランドがをミューリにあたえるのは、けいかい心丸出しの山のけものを手なずける楽しみに近いのかもしれない。


「失礼なことはしないように」

「はあい、と」


 机から離れ、先に部屋から出ていく。

 自分も後に続こうとして、ふと部屋の中をいた。

 ほんやくげん稿こうはあのままにしておいてだいじようだろうか。


「兄様?」


 ろうから声をかけられ、いつしゆんの迷いの後、持っていくことにした。

 なんにせよ、第七章までのほんやくの報告をする必要がある。


「お待たせしました」

「うん。それはそうと、コケモモ、りんと来たから、つぎはなしかな?」


 おの予想をしているミューリの食い意地に笑い、歩き出す。

 ただ、長いろうの向こう側、手元のあかりの届かない先に、深いやみを見た。

 気をつけて損はない。

 そう思い直し、ハイランドのもとに向かったのだった。



 夜のとばりがすっかり下りてからの呼び出し。しかも、ハイランドは昨日から大司教と話し合いを始めている。

 呼び出される理由はたくさんあるだろう。


「ああ、来たか」


 部屋にとおされると、ハイランドは目も覚めるような白い布がかけられたテーブルの前にすわっていた。そこには料理が並べられていたが、どれも熱を失って久しく見える。


「すみません。お食事中でしたか」

「いや」


 ハイランドはしようし、ナイフを軽くもてあそぶ。


「食欲がなくてね」

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