そして、壁から背を離し、ととっと前に進み出ると、くるりと振り向いた。
「手も繫いであげようか?」
理想のために頑張っていたら、町の人々の予想もしなかった悪意を目の当たりにした。落ち込んでいるのが顔に出ていたのだろう。からかいながらも、気を使ってくれる。
これでは、どちらが年上かわかったものではない。
「……はぐれたら、かないませんからね」
「兄様がね!」
ミューリに手を引かれながら、来た道を戻る。
少しだけ足が速いのは、猥雑で暴力的な町の雰囲気から、少しでも早く引っ張り出そうとしてくれているのだろう。騒がしくて我儘で、時折とんでもないことを言い出して肝をつぶされるが、基本的には良い娘なのだ。
ならば、と思う。
ミューリがとても良い娘なら、ほかにも同じくらい良い人々がいたっておかしくない。
世の中は疑い出せばきりがないことくらいわかっているし、悪い人がいることだってもちろん理解している。そもそも、自分がロレンスと出会ったのは、詐欺師に思いきり騙されたからだった。
だから、ただ憂さを晴らしたいがために教会の権威を虚仮にする人々がいる一方、多くの人々は聖典の翻訳版を読み、しっかりと教会との正しさと過ちを理解してくれるはずだ。少なくとも、自分はそう信じたかった。
ミューリと共に商館に戻り、この時間でもまだ残務に追われている者たちの隙間を縫って、三階の部屋に向かった。
「なんでもいいけど、今日くらいはゆっくり寝ること! わかった?」
「わかりましたわかりました」
がうがうと吠えるミューリに笑い掛けながら、扉を開けた。するとたちまちインクの香りが溢れ出し、外の喧騒でささくれ立った心が落ち着くような気がした。
インクの香りは、知と静謐の香りだった。
「ただ、寝る前に少し顔を洗いたいですね。それと、ミューリ、あなたもすこし埃臭いので、お湯をもらって──」
と、話しながら蠟燭に火をつけて、ようやく戸口のところでミューリが立ち止ったままなことに気がついた。
「ミューリ?」
ミューリはこちらの問いかけに反応せず、ぶるりと身震いしたかと思うと、耳と尻尾を露わにした。そして、部屋に入ると扉を閉じ、鼻を鳴らす。
なにかの冗談だろうかと思っていると、ミューリは見えない糸を手繰り寄せるように一直線に歩き出し、机の前に立った。
「ミューリ」
疑問形ではなく、その名を呼んだ。机の上には、翻訳されたばかりの原稿がきちんと揃えて積まれている。部屋を出る前と、おそらく、なにも変わっていない。
「私たちがいない間、誰かがここにいたよ。何人かで」
疑わなかったのは、ミューリの耳と尻尾の毛がぴりぴりと逆立っていたからだ。
それに、部屋には特に鍵もついてない。誰もが自由に出入りできる。
「まさか、盗まれた?」
羊皮紙の束をめくり、蠟燭で照らしてざっと確認する。しかし、枚数はあっているし、筆跡も自分のものだ。
「塗りつぶされているわけでもない……。誰かが、興味本位で読みに来ただけでは?」
商会には熱心な信徒もいた。そろそろ翻訳が終わると噂を聞きつけてやってきたが不在で、我慢できずに読んでいたのかもしれない。
そう思っていると、机の周りをなおも中腰になって嗅ぎ回っていたミューリは、体を起こして鼻をこすった。
「さあね。私にわかるのは、誰かがここにいたということだけ。母様みたいに狼になれたら、誰がいたのかもわかるんだけど」
ミューリは悔しそうに言って、一回くしゃみをしていた。
ミューリは耳と尻尾を自在に出し入れできる一方、母親のホロのように巨大な狼になることはできない。半分人の血が流れているからだろう。
「とにかく、兄様はもう少し気をつけてよ?」
「わかりました。ですが、あまり人を疑いすぎるのもどうかと思います」
そう主張すると、腕組みをしたミューリは尻尾をゆっくり大きく揺らし、不満げにこちらを見ていた。
そして、大きくため息をつくと降参するように肩をすくめていた。
「では、お湯をもらってきますが……念のため、短剣を床に突き立てて、柄で扉を押さえてつっかえ棒にしておいてください」
「そんなことするくらいなら、私も行くよ」
怒ったように言われ、それもそうかと思い直す。
蠟燭を手持ちの燭台に載せ替え、部屋を出ようとした時だった。
「あ、ちょうど三階に誰か来たよ。誰だろ、この足音はルイスかな」
耳をひくひく動かして、ミューリはそんなことを言った。働く中で仲良くなった小僧の名前かもしれない。ならばついでに湯を頼むかと思っていたら、ミューリがふっと耳と尻尾を隠す。扉がノックされたのは、その数瞬後だ。
「お休み中のところ失礼します」
きちんと挨拶もされた。不在の合間に部屋に入り込み、なにがしかを行っていた者ではないだろう。
「はい」
返事をして扉を開けると、ミューリより二歳か三歳は年下の少年が立っていた。
「失礼します。ハイランド様がお呼びです」
その一言で、部屋にいたのはハイランドだったのではと思い当たる。彼なら依頼主として、成果物を勝手に読む権利があるし、平民の部屋に無断で入ることになんらの呵責もないだろう。
「わかりました。すぐに伺います」
そう返事をすると、小僧は恭しく頭を垂れて、ちらりと視線を部屋の中に向けたのがわかった。澄まし顔を一転笑顔にして、小さく手も振っていた。
もちろん、気づかない振りをするくらいの優しさは持ち合わせている。
扉を閉じると、職人たちの使う机に寄りかかったミューリが、にこにこしていた。
「ルイス君でしたか?」
「うん。港で一緒に働いて、二回海に落ちてた」
ミューリの笑みは、親しみのそれなのか、海に落ちた間抜けさを笑うものなのか、いまいち判別がつかない。多分、両方だろう。
「じゃあ、ちょっとハイランド様のところに行ってきますが」
言葉を切ったのは、わざとだ。
「もちろん私も行く」
「お菓子はないかもしれませんよ?」
「あんまり餌付けされたら目が曇るから、ちょうどいいよ」
実際、ハイランドが菓子をミューリに与えるのは、警戒心丸出しの山の獣を手なずける楽しみに近いのかもしれない。
「失礼なことはしないように」
「はあい、と」
机から離れ、先に部屋から出ていく。
自分も後に続こうとして、ふと部屋の中を振り向いた。
翻訳の原稿はあのままにしておいて大丈夫だろうか。
「兄様?」
廊下から声をかけられ、一瞬の迷いの後、持っていくことにした。
なんにせよ、第七章までの翻訳の報告をする必要がある。
「お待たせしました」
「うん。それはそうと、コケモモ、林檎と来たから、つぎは梨かな?」
お菓子の予想をしているミューリの食い意地に笑い、歩き出す。
ただ、長い廊下の向こう側、手元の灯りの届かない先に、深い闇を見た。
気をつけて損はない。
そう思い直し、ハイランドの許に向かったのだった。
夜の帳がすっかり下りてからの呼び出し。しかも、ハイランドは昨日から大司教と話し合いを始めている。
呼び出される理由はたくさんあるだろう。
「ああ、来たか」
部屋にとおされると、ハイランドは目も覚めるような白い布がかけられたテーブルの前に座っていた。そこには料理が並べられていたが、どれも熱を失って久しく見える。
「すみません。お食事中でしたか」
「いや」
ハイランドは苦笑し、ナイフを軽く弄ぶ。
「食欲がなくてね」