第三幕 ⑧

 結局ナイフを放り出し、の背もたれに体を預けていた。


こうしようで張りつめてらっしゃるのでしょう。あまり御無理をなさらず」

「張りつめている……のとは少しちがうかもしれない。かい、そして、らくたんだな」


 らくたんということは、こうしようがうまくいっていないのだろうか。


「あれほど町の人々の支持があってもなお、大司教様はかたくななのですか?」


 すると、ハイランドは少し笑った。


「町の人々の支持、か」


 となりにいたミューリのげんが悪くなるのが気配でわかった。ハイランドのみは、どこかあざけるようなものだった。しかし、それは自らに向けられたものらしい。


「私もそう思っていた。ところが、さわいでいるのは下層の者たちばかりだ」


 げ夫、漁師、あるいは、やといの者。


「しかも、かれらのような者は暴力的にさわぐことしか知らない。今日、大司教殿どのおうえんとして配下の司教を呼んだらしいが、その司教は教会に着くなり、へたりんでいたよ。まるで戦場をかいくぐってきたかのようにおびえていた」


 ミューリから聞いた、全くかんげいされていない場所で、はくしゆだいかんせいを向けられた司教だろう。


「その結果、私はどう見られていると思う」


 冷めきった食事の前でつかれたようにすわるハイランドは、悲しげに言った。


「内乱をせんどうし、この町を王国の版図に加えようとしているのではないかと疑われている」

「えっ」


 それはウィンフィール王国と教皇の争いとはまた全く別の話になる。


「町では聖典のほんやく版をかかげ、まわしている者たちがいるだろう? そのせいで、聖典のほんやくというのはうそで、内乱のほうを呼びかける文書なのではないか、と大司教につうされたよ」

「そんな」

「もちろん、読めばわかる。大司教殿どのにもけんじようしてきた。だが、町のけんしようちようが我々を反乱の先導者ではないかとしているせいで、町の主要な者たちはしりみしてしまっている。万が一その見立てが本当だった場合、私にくみすることはぎやくぞくくみすることになるからね」


 ぎやく的に話すハイランドは、うすく笑ってはいたが苦しそうだった。

 それに、そもそもこのデバウ商会の商館をさいはいするステファンのいんぎんさも、敬意ではなく敬遠に近いと言っていた。かれらはこの町で商売をする者であり、長い物には巻かれたほうが得な立場なのだから。

 そう考えると、自分たちが留守の間にほんやくげん稿こうを読みにきたのがだれなのか、わかった気がした。デバウ商会の面々であり、自分があの部屋で反乱のほうを呼びかける文書をしたためていないかと、かくにんしに来たのだろう。

 ハイランドは大きく息を吸い、長く、ゆっくりとき出した。


「国では、教皇のせいで人生の大事な節目に神の御加護を得られないたみあふれている。我々は神を信じないのではない。ましてやこれを機に他国の領土を切り取ろうなどと思っているのではない。神の御加護と金を同じてんびんに乗せている、あの教皇のことが気に食わないのだ。なぜその単純なくつがわからないのか……私にはわからない」


 こぶしにぎりしめ、テーブルの上でふるえさせていた。そのやるせなさがわかるため、自分のこぶしにまで力がこもってしまう。

 しかし、やがてふっと力をくと、ずかしそうなみを見せた。


「あるいは、こうやっておこらせるためかもしれない。おこったら負けだ。こうしよう事では特にな」


 ハイランドは酒を手に取り、軽く口にふくんでから、言った。


「大司教とのこうしようもそうだ。向こうはずらりと並べられるだけ人を並べて、全員で好き勝手な言葉のつぶてを投げてきたよ。あれでは黒い物を黒と述べるのも難しい」


 武力ではいじよするわけにもいかないから、数の暴力というわけだ。


「そこで、コル。君にたのみがある」

「私に?」

「少しでも頭数を増やしたい。むこうが明日も同じ戦術を取るかはわからないが、こうしようについてきてくれないか」


 予想もしていなかったことに口を開こうとしたら、がおで制された。


「神学的な助言はあおぐかもしれないが、なにか積極的に発言しろとは言わない。その場にいて、堂々としていてくれればいい。君は名だたる神学者たちと交遊する、若きゆうしゆうな学者だとふいちようしてある。いかめしい顔で立っていてくれれば、それだけで効果的なはずだ。大司教殿どのが教理問答をけるようなことはまずない。かれらは神の教えに通じて司教職を手に入れたのではなく、人の世のわたり方に通じてそのを手に入れたのだからね」


 それはハイランドのへんけんというより、実際に話してみた感想なのだろう。


「そして、聖典などきちんと読んだことのない大司教でも、ここは港町だ。ニョッヒラの行き帰りに、高名な聖職者が立ち寄ることもあるはずだから、顔や名前くらいは知っているだろう。あのだれそれ、と名を出してとくちようを伝えて、いかにも親交があるように話せば、司教たちは君を高名な神学者と同列にみなすだろう」


 まるで畑の若芽をねらう小鳥やからすはらのようだが、役に立てるならなんだっていい。


「本当はこんな無様な策を使いたくはない。しかし、真実を述べれば相手がおのれさとるなんていうらしい世界は、本の中にしかないようだ」


 理想と現実のはざで、ハイランドはもうしているようだった。

 だが、本と言われ、自分の手にはその理想のかたまりのような本があることを思い出した。


「ところで、ほんやくについてなのですが、第七章までざんてい的に」

「おお!」


 ハイランドの顔がぱっとかがやき、こちらまでうれしくなる。


「手直しは当然必要でしょうが、大意は伝わるかと」

「いや、よくがんってくれた」


 羊皮紙を差し出すと、ハイランドはいつくしむように目を細めて文字を追いかけていく。


「うむ……ああ、いい文章だ」


 当然お世辞だろうが、多少のほこらしさはほうしゆうとして許されるだろう。


「すべてを読む時間がないのがしい。これはどこまで複写を?」

「第七章のちゆうばんまで複写は追いついています。残りの部分を今日書き上げたので、朝までには複写できるかと。それを職人たちにわたせば、私たちがこの部分を教会に持っていっても、写本をどんどん作れます」

「察しが良くて助かる。そうしてしい」

かしこまりました」


 ハイランドから羊皮紙を受け取ると、着実な前進とぜんに希望が生まれてくる。


「これは歴史的な第一歩だ。人々が聖典を読み、なにが正しいのかに気がつくという第一歩になる。たのむぞ、コル」


 ハイランドのげきれいを受けて、部屋をあとにしたのだった。



 結局、その日の夜もろうそくともすことになったのだが、ミューリはおこらなかった。部屋から追い出すこともせず、せっせと複写をする横で、ほんやくした文章をじっと読んでいた。いよいよミューリも神の教えに目覚めてくれたか、と思うのは、きっとはかない希望だろう。ったらかしにされていたことや、あるいはハイランドのことが気に食わないので、またぞろ仕事をわたされていることが不満なのかもしれない。

 ちゆう、ふとこちらのかたに頭を乗せてきたのも、その表れだろう。

 銀色のかみに指をしずめるようにでてやると、耳と尻尾しつぽが少し音を立てた。

 だんさわがしいミューリは、結局最後まで一言もしゃべらずにほんやくを読み終えたらしい。

 こちらのかたから顔を起こすと、大きくびをして、あくびを付け足してからこちらの手元をかくにんする。まだ先は長いとわかったのか、特になにも言わずにから立ち上がり、さっさとベッドに向かってしまう。

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