結局ナイフを放り出し、椅子の背もたれに体を預けていた。
「交渉で張りつめてらっしゃるのでしょう。あまり御無理をなさらず」
「張りつめている……のとは少し違うかもしれない。不愉快、そして、落胆だな」
落胆ということは、交渉がうまくいっていないのだろうか。
「あれほど町の人々の支持があってもなお、大司教様は頑ななのですか?」
すると、ハイランドは少し笑った。
「町の人々の支持、か」
隣にいたミューリの機嫌が悪くなるのが気配でわかった。ハイランドの笑みは、どこか嘲るようなものだった。しかし、それは自らに向けられたものらしい。
「私もそう思っていた。ところが、騒いでいるのは下層の者たちばかりだ」
荷揚げ夫、漁師、あるいは、日雇いの者。
「しかも、彼らのような者は暴力的に騒ぐことしか知らない。今日、大司教殿が応援として配下の司教を呼んだらしいが、その司教は教会に着くなり、へたり込んでいたよ。まるで戦場をかいくぐってきたかのように怯えていた」
ミューリから聞いた、全く歓迎されていない場所で、拍手と大歓声を向けられた司教だろう。
「その結果、私はどう見られていると思う」
冷めきった食事の前で疲れたように座るハイランドは、悲しげに言った。
「内乱を扇動し、この町を王国の版図に加えようとしているのではないかと疑われている」
「えっ」
それはウィンフィール王国と教皇の争いとはまた全く別の話になる。
「町では聖典の翻訳版を掲げ、振り回している者たちがいるだろう? そのせいで、聖典の翻訳というのは噓で、内乱の蜂起を呼びかける文書なのではないか、と大司教に痛罵されたよ」
「そんな」
「もちろん、読めばわかる。大司教殿にも献上してきた。だが、町の権威の象徴が我々を反乱の先導者ではないかと見做しているせいで、町の主要な者たちは尻込みしてしまっている。万が一その見立てが本当だった場合、私に与することは逆賊に与することになるからね」
自虐的に話すハイランドは、薄く笑ってはいたが苦しそうだった。
それに、そもそもこのデバウ商会の商館を采配するステファンの慇懃さも、敬意ではなく敬遠に近いと言っていた。彼らはこの町で商売をする者であり、長い物には巻かれたほうが得な立場なのだから。
そう考えると、自分たちが留守の間に翻訳の原稿を読みにきたのが誰なのか、わかった気がした。デバウ商会の面々であり、自分があの部屋で反乱の蜂起を呼びかける文書をしたためていないかと、確認しに来たのだろう。
ハイランドは大きく息を吸い、長く、ゆっくりと吐き出した。
「国では、教皇のせいで人生の大事な節目に神の御加護を得られない民が溢れている。我々は神を信じないのではない。ましてやこれを機に他国の領土を切り取ろうなどと思っているのではない。神の御加護と金を同じ天秤に乗せている、あの教皇のことが気に食わないのだ。なぜその単純な理屈がわからないのか……私にはわからない」
拳を握りしめ、テーブルの上で震えさせていた。そのやるせなさがわかるため、自分の拳にまで力がこもってしまう。
しかし、やがてふっと力を抜くと、恥ずかしそうな笑みを見せた。
「あるいは、こうやって怒らせるためかもしれない。怒ったら負けだ。交渉事では特にな」
ハイランドは酒を手に取り、軽く口に含んでから、言った。
「大司教との交渉もそうだ。向こうはずらりと並べられるだけ人を並べて、全員で好き勝手な言葉の礫を投げてきたよ。あれでは黒い物を黒と述べるのも難しい」
武力で排除するわけにもいかないから、数の暴力というわけだ。
「そこで、コル。君に頼みがある」
「私に?」
「少しでも頭数を増やしたい。むこうが明日も同じ戦術を取るかはわからないが、交渉についてきてくれないか」
予想もしていなかったことに口を開こうとしたら、笑顔で制された。
「神学的な助言は仰ぐかもしれないが、なにか積極的に発言しろとは言わない。その場にいて、堂々としていてくれればいい。君は名だたる神学者たちと交遊する、若き優秀な学者だと吹聴してある。厳めしい顔で立っていてくれれば、それだけで効果的なはずだ。大司教殿が教理問答を吹っ掛けるようなことはまずない。彼らは神の教えに通じて司教職を手に入れたのではなく、人の世の渡り方に通じてその椅子を手に入れたのだからね」
それはハイランドの偏見というより、実際に話してみた感想なのだろう。
「そして、聖典などきちんと読んだことのない大司教でも、ここは港町だ。ニョッヒラの行き帰りに、高名な聖職者が立ち寄ることもあるはずだから、顔や名前くらいは知っているだろう。あの誰それ、と名を出して特徴を伝えて、いかにも親交があるように話せば、司教たちは君を高名な神学者と同列にみなすだろう」
まるで畑の若芽を狙う小鳥や烏を追い払う案山子のようだが、役に立てるならなんだっていい。
「本当はこんな無様な策を使いたくはない。しかし、真実を述べれば相手が己の愚を悟るなんていう素晴らしい世界は、本の中にしかないようだ」
理想と現実の狭間で、ハイランドは摩耗しているようだった。
だが、本と言われ、自分の手にはその理想の塊のような本があることを思い出した。
「ところで、翻訳についてなのですが、第七章まで暫定的に」
「おお!」
ハイランドの顔がぱっと輝き、こちらまで嬉しくなる。
「手直しは当然必要でしょうが、大意は伝わるかと」
「いや、よく頑張ってくれた」
羊皮紙を差し出すと、ハイランドは慈しむように目を細めて文字を追いかけていく。
「うむ……ああ、いい文章だ」
当然お世辞だろうが、多少の誇らしさは報酬として許されるだろう。
「すべてを読む時間がないのが惜しい。これはどこまで複写を?」
「第七章の中盤まで複写は追いついています。残りの部分を今日書き上げたので、朝までには複写できるかと。それを職人たちに渡せば、私たちがこの部分を教会に持っていっても、写本をどんどん作れます」
「察しが良くて助かる。そうして欲しい」
「畏まりました」
ハイランドから羊皮紙を受け取ると、着実な前進と前途に希望が生まれてくる。
「これは歴史的な第一歩だ。人々が聖典を読み、なにが正しいのかに気がつくという第一歩になる。頼むぞ、コル」
ハイランドの激励を受けて、部屋をあとにしたのだった。
結局、その日の夜も蠟燭を灯すことになったのだが、ミューリは怒らなかった。部屋から追い出すこともせず、せっせと複写をする横で、翻訳した文章をじっと読んでいた。いよいよミューリも神の教えに目覚めてくれたか、と思うのは、きっと儚い希望だろう。放ったらかしにされていたことや、あるいはハイランドのことが気に食わないので、またぞろ仕事を言い渡されていることが不満なのかもしれない。
途中、ふとこちらの肩に頭を乗せてきたのも、その表れだろう。
銀色の髪の毛に指を沈めるように撫でてやると、耳と尻尾が少し音を立てた。
普段は騒がしいミューリは、結局最後まで一言もしゃべらずに翻訳を読み終えたらしい。
こちらの肩から顔を起こすと、大きく伸びをして、あくびを付け足してからこちらの手元を確認する。まだ先は長いとわかったのか、特になにも言わずに椅子から立ち上がり、さっさとベッドに向かってしまう。