第三幕 ⑨

 相変わらず自由気ままだと思ったが、やはりそのいはどこかおこっているようにも感じられた。明日以降時間を見つけて相手をしてやらないと。

 そんなことを思い、ついつい世話を焼いてしまう自分にあきれたが、もうみついた習慣みたいなもの。

 ミューリとはなれることになったら、きっと湯屋の仕事をしなくなったこと以上に、胸にぽっかり穴が開くだろうなと、そんなことを思ったのだった。



 ほんやくの残りの複写は朝まではかからず、町が完全に静まりきる夜中ごろに終わった。

 ハイランドのお供をして、ちゆうであくびをしても困ると思い、ミューリの尻尾しつぽの温かさのしようばんにあずかりながらねむったが、夜明けと共に目覚めてしまった。日がのぼりきってからようやく目を覚ましたミューリはその話にあきれかえっていたが、興奮しているのだろう、と自分でもわかる。

 筆写職人たちもぼちぼちとやってきて、残りのほんやく部分の写しをわたしておく。その複写ができだいほんやくしいと言っている人々にわたすよう指示を出しておいた。ほんやくの原本は、ハイランドと共に教会にたずさえていく。


「それで、あなたはなぜその格好を?」


 ミューリはニョッヒラから着てきた服を着て、ケープをかたに巻いていた。たった数日の事なのに、女の子らしい格好をすると前よりもやや大人びて見えた。

 町で働いたせいかもしれない。


「なぜって、この商会のぞうの格好で教会に行ったら、商会にめいわくがかかるかもしれないでしょ? 昨日話してたじゃない」


 デバウ商会としてはハイランドをおうえんしたくとも、現場の商館を預かるステファンとしては、教会と真っ向から対立したくはない。しかも人々のさわぎから、内乱による領土取りなのではないかと疑われ出している。

 ミューリの判断は正しいと言えば正しいのだが、前提にはもんがつく。


「おとなしく部屋で待っている、というせんたくは?」

「いーやっ。聖典も読んじゃったし。これ以上働いても新しい情報は手に入らなそうだし」

「私は世界の四分の一しか見ていないし?」


 そう言うと、ミューリはきょとんとしてから、くすぐったそうに笑う。


「そうそう」

「まったく……。ですが、ハイランド様がなんと言うかわかりませんよ」


 そこにはある種の希望がめられていたのだが、ハイランドの部屋におもむけばあっさりしたものだ。


「その格好はまずかろうが、コルセットをやめてぞうのズボンを穿いて、こしおびを厚めに巻いておけば、うむ。きゆうていの行政官見習いに見えよう。ついでに羽ペンをさしたぼうでも用意しよう。顔立ちが整っているし堂々としているからな。どんな格好をしてもそれなりに見える」


 半分くらいはおもしろがっているとしか思えなかったが、実際に言われたとおりの服を着て、今度はかみをうなじで雑にくくっただけのミューリは、確かに貴族の共を務めていてもおかしくない気がした。


「格好は大事」

「そのとおり」


 ハイランドの同意を得て、ミューリはふんと得意げに鼻を鳴らしていた。


「それでは参るとしよう。朝課のいのりも終わって、人々は教会からこうぼうや店に仕事に出ているころだ」


 ハイランドやお付きの者たちは馬車を仕立てていたが、自分やミューリは歩いてその後を追いかけた。元々道が混雑していて、下手をすれば歩くほうが早い。それに道を歩いたほうが町の空気をよく実感できた。

 昨晩のようなざらついた光景はどこにも見られず、アティフの町は太陽に照らされてかがやいていた。その光景を見ると、あれは夜のやみが見せた悪い夢だと、少し信じたくなった。

 馬車を教会の前に乗りつけるのは、公式の行事でもなければあまりぎようの良いことではない。

 裏手に回ると、うでまくりをした若い助司祭たちが手を真っ赤にしながら水仕事をしていた。

 古びた布で、ごしごしと教会のかべみがいている。


「おはよう。大司教殿どのは?」


 馬車から降りたハイランドが声をかけると、ミューリより少し年上といったまだろくにひげも生えていない助司祭の一人が、手をぬぐってからもくな様子で裏口のとびらを開いた。鋼鉄製の武骨な門で、いざという時には敵のしんにゆうはばむものだ。


「失礼するよ」


 先頭のハイランドが通り過ぎる時は目線を下げていたが、お供の者や、自分が通り過ぎる時にはこつにらみつけていた。うすぐらい教会内に入り、裏門が重そうな音を立てて閉じられると、ミューリがこそっと話しかけてくる。


「全くかんげいされてないね」

「朝から余計な仕事をさせられていらっているんだろう」


 答えたのはハイランドだ。


「ですが、そうは立派なしゆぎようでは?」

「なにでよごれるかによるな」


 その返答に小首をかしげていると、ミューリが耳打ちしてきた。


くさった玉子だよ」


 思わずその顔を見返してしまう。教会の裏手の道は店などもなく、夜になれば人通りが少なくなる。不満を持つ者たちがくさった玉子を手にやってくる様が容易に想像できた。教会の人間から見ればかれらをあおっているのはハイランドだから、かんげいされるはずもなかった。

 一行は大きな教会の中をさつそうと歩いていく。それはそんずうずうしさというよりも、そうしないと追い出されるか、ていねいに案内をうていたらいつまでってもどこかの部屋で待たされるからだろう。

 教会は外から見るよりも大きく感じるし、総石造りの建物はやはりそうごんだ。かべにはあつとうされるほど大きないろかべけなどがるされていたり、天使の形にられた石造りのしよくだいとうかんかくに並んでいたりと、ぜいの限りもくしてある。夜のあかりも、じゆうではなくみつろうだろう。

 やがてしつ室の前にたどり着き、ハイランドはおくすることなく両開きのとびらを開け放つ。

 そして、前にして、言った。


「おはようございます。今日もこうしてお目見えできることを神に感謝いたします」


 しつ室は広く、てんじようは高かった。部屋は細長く、二十人はすわることができそうな、初めて見るほどに長い長机がでんと置かれている。かべにはったしようほどこされた木のたなや長持が並び、その上方には、しつくいりのかべにデバウ商会で見かけた絵よりも大きな天使の絵が、十二人分えがかれていた。大商会の応接室だって、こんなにごうではない。

 長机にはしゆうが目立つむらさきいろそうふくを着た司教たちが七人ほどすわり、さらに書記が二人羊皮紙を広げている。長机の頂点、かべにかけられた大きな教会のもんしようの下には、黄金のしゆうほどこされたそうふくを着た大司教がいた。

 かれらの後ろには、それぞれじゆうの若者が二人から三人ひかえている。教会の雑用をしながら神の教えを学ぶ助司祭か、教会の運営をになう聖堂参事会にやとわれている、ぞくじんの秘書だろう。確かにこれでいつせいにがなり立てられたら、どんな正論もあつさつされてしまう。


「我らが神に栄光があらんことを」


 大司教は応唱したが、その顔は苦りきっていた。


ずいぶんと連れてきたものですな」


 さつそくいやったらしい一言目が発されたが、文官が引いたこしかけながら、ハイランドはたおやかにほほんでいる。


「人が多ければ、この広いしつ室も暖かくなるのではと」


 大司教はじゆうめんのまま、鼻から大きく息をく。


「ところで、今日はようやく聖典のほんやくが第七章まで進みました。そのげん稿こうをおわたしできればと思い」


 ハイランドが合図をすると、ひかえていた文官が羊皮紙を手に司教たちのじんへと向かう。

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