相変わらず自由気ままだと思ったが、やはりその振る舞いはどこか怒っているようにも感じられた。明日以降時間を見つけて相手をしてやらないと。
そんなことを思い、ついつい世話を焼いてしまう自分に呆れたが、もう染みついた習慣みたいなもの。
ミューリと離れることになったら、きっと湯屋の仕事をしなくなったこと以上に、胸にぽっかり穴が開くだろうなと、そんなことを思ったのだった。
翻訳の残りの複写は朝まではかからず、町が完全に静まりきる夜中頃に終わった。
ハイランドのお供をして、途中であくびをしても困ると思い、ミューリの尻尾の温かさの御相伴にあずかりながら眠ったが、夜明けと共に目覚めてしまった。日が昇りきってからようやく目を覚ましたミューリはその話に呆れかえっていたが、興奮しているのだろう、と自分でもわかる。
筆写職人たちもぼちぼちとやってきて、残りの翻訳部分の写しを渡しておく。その複写ができ次第、翻訳が欲しいと言っている人々に渡すよう指示を出しておいた。翻訳の原本は、ハイランドと共に教会に携えていく。
「それで、あなたはなぜその格好を?」
ミューリはニョッヒラから着てきた服を着て、ケープを肩に巻いていた。たった数日の事なのに、女の子らしい格好をすると前よりもやや大人びて見えた。
町で働いたせいかもしれない。
「なぜって、この商会の小僧の格好で教会に行ったら、商会に迷惑がかかるかもしれないでしょ? 昨日話してたじゃない」
デバウ商会としてはハイランドを応援したくとも、現場の商館を預かるステファンとしては、教会と真っ向から対立したくはない。しかも人々の粗野な騒ぎから、内乱による領土取りなのではないかと疑われ出している。
ミューリの判断は正しいと言えば正しいのだが、前提には疑問符がつく。
「おとなしく部屋で待っている、という選択肢は?」
「いーやっ。聖典も読んじゃったし。これ以上働いても新しい情報は手に入らなそうだし」
「私は世界の四分の一しか見ていないし?」
そう言うと、ミューリはきょとんとしてから、くすぐったそうに笑う。
「そうそう」
「まったく……。ですが、ハイランド様がなんと言うかわかりませんよ」
そこにはある種の希望が込められていたのだが、ハイランドの部屋に赴けばあっさりしたものだ。
「その格好はまずかろうが、コルセットをやめて小僧のズボンを穿いて、腰帯を厚めに巻いておけば、うむ。宮廷の行政官見習いに見えよう。ついでに羽ペンをさした帽子でも用意しよう。顔立ちが整っているし堂々としているからな。どんな格好をしてもそれなりに見える」
半分くらいは面白がっているとしか思えなかったが、実際に言われたとおりの服を着て、今度は髪の毛をうなじで雑にくくっただけのミューリは、確かに貴族の共を務めていてもおかしくない気がした。
「格好は大事」
「そのとおり」
ハイランドの同意を得て、ミューリはふんと得意げに鼻を鳴らしていた。
「それでは参るとしよう。朝課の祈りも終わって、人々は教会から工房や店に仕事に出ている頃だ」
ハイランドやお付きの者たちは馬車を仕立てていたが、自分やミューリは歩いてその後を追いかけた。元々道が混雑していて、下手をすれば歩くほうが早い。それに道を歩いたほうが町の空気をよく実感できた。
昨晩のようなざらついた光景はどこにも見られず、アティフの町は太陽に照らされて輝いていた。その光景を見ると、あれは夜の闇が見せた悪い夢だと、少し信じたくなった。
馬車を教会の前に乗りつけるのは、公式の行事でもなければあまり行儀の良いことではない。
裏手に回ると、腕まくりをした若い助司祭たちが手を真っ赤にしながら水仕事をしていた。
古びた布で、ごしごしと教会の壁を磨いている。
「おはよう。大司教殿は?」
馬車から降りたハイランドが声をかけると、ミューリより少し年上といったまだろくに髭も生えていない助司祭の一人が、手を拭ってから寡黙な様子で裏口の扉を開いた。鋼鉄製の武骨な門で、いざという時には敵の侵入を阻むものだ。
「失礼するよ」
先頭のハイランドが通り過ぎる時は目線を下げていたが、お供の者や、自分が通り過ぎる時には露骨に睨みつけていた。薄暗い教会内に入り、裏門が重そうな音を立てて閉じられると、ミューリがこそっと話しかけてくる。
「全く歓迎されてないね」
「朝から余計な仕事をさせられて苛立っているんだろう」
答えたのはハイランドだ。
「ですが、掃除は立派な修行では?」
「なにで汚れるかによるな」
その返答に小首を傾げていると、ミューリが耳打ちしてきた。
「腐った玉子だよ」
思わずその顔を見返してしまう。教会の裏手の道は店などもなく、夜になれば人通りが少なくなる。不満を持つ者たちが腐った玉子を手にやってくる様が容易に想像できた。教会の人間から見れば彼らを煽っているのはハイランドだから、歓迎されるはずもなかった。
一行は大きな教会の中を颯爽と歩いていく。それは不遜と図々しさというよりも、そうしないと追い出されるか、丁寧に案内を乞うていたらいつまで経ってもどこかの部屋で待たされるからだろう。
教会は外から見るよりも大きく感じるし、総石造りの建物はやはり荘厳だ。壁には圧倒されるほど大きな緋色の壁掛けなどが吊るされていたり、天使の形に彫られた石造りの燭台が等間隔に並んでいたりと、贅の限りも尽くしてある。夜の灯りも、獣脂ではなく蜜蠟だろう。
やがて執務室の前にたどり着き、ハイランドは臆することなく両開きの扉を開け放つ。
そして、前に踏み出して、言った。
「おはようございます。今日もこうしてお目見えできることを神に感謝いたします」
執務室は広く、天井は高かった。部屋は細長く、二十人は座ることができそうな、初めて見るほどに長い長机がでんと置かれている。壁には凝った意匠の施された木の棚や長持が並び、その上方には、漆喰塗りの壁にデバウ商会で見かけた絵よりも大きな天使の絵が、十二人分描かれていた。大商会の応接室だって、こんなに豪華ではない。
長机には刺繡が目立つ紫色の僧服を着た司教たちが七人ほど座り、さらに書記が二人羊皮紙を広げている。長机の頂点、壁にかけられた大きな教会の紋章の下には、黄金の刺繡が施された僧服を着た大司教がいた。
彼らの後ろには、それぞれ侍従の若者が二人から三人控えている。教会の雑用をしながら神の教えを学ぶ助司祭か、教会の運営を担う聖堂参事会に雇われている、俗人の秘書だろう。確かにこれで一斉にがなり立てられたら、どんな正論も圧殺されてしまう。
「我らが神に栄光があらんことを」
大司教は応唱したが、その顔は苦りきっていた。
「随分と連れてきたものですな」
早速厭味ったらしい一言目が発されたが、文官が引いた椅子に腰かけながら、ハイランドはたおやかに微笑んでいる。
「人が多ければ、この広い執務室も暖かくなるのではと」
大司教は渋面のまま、鼻から大きく息を吐く。
「ところで、今日はようやく聖典の翻訳が第七章まで進みました。その原稿をお渡しできればと思い」
ハイランドが合図をすると、控えていた文官が羊皮紙を手に司教たちの陣地へと向かう。