居並ぶ司教たちは誰一人友好的な顔をしていないが、控えている侍従は丁寧に羊皮紙を受け取り、大司教に献上した。
「それが反乱の文書でないことは、私が口で言うよりも読んでいただければ信じていただけることかと。もちろん、神は争いを好まれず、融和を説かれております」
目の前に置かれた羊皮紙を一枚めくり、大司教は顔を上げる。
「読ませてもらっても?」
「もちろん」
ハイランドの声が少し弾んでいるように聞こえた。自分も少し意外だった。てっきり、受け取るだけで見もしないかと思ったからだ。大司教は早速一枚目を読み、丁寧に文字を追いかけると、二枚目に取り掛かる。とても慎重に、黙読していた。
その間、広い執務室には三十人からがいるのに、誰も口を開こうとしない。時折、誰かの身じろぎや咳払いが空しく響き渡る。大司教はじっと羊皮紙に目を落とし、顔も上げない。
なにかおかしい、と思ったのは、二枚目に異様に時間がかかってからだった。
「どうされましたか」
ハイランドが口を開くと、大司教は二枚目をめくり、三枚目に進む。まるで偶然、ようやく読み終わったかのように。それからまた、大司教は三枚目に異様に時間をかけていた。
ハイランドを見れば、その横顔は怒りに強張っていた。
罠にはめられたのだ、とようやく気がついた。
こちらは聖典の翻訳が内乱蜂起をけしかける文書なのではないかと疑われ、その潔白を証明するために大司教に読んでもらっている。ならば最後まで読んでもらわなければならないが、大司教からしたら読み終える必要はどこにもない。話し合いができなくて困るのは、ハイランドのほうなのだから。
催促し早く読むようにと言っても無駄だろうし、遅いと怒り出せば尚更相手の思うつぼ。
もう付き合いきれん、と席を立ってくれたら万々歳。これは交渉ではなく、大司教たちはそもそも聞く耳を持っていないのだから。神の教えに通じているからではなく、人の世の渡り方に通じているからその椅子に座っている、と言ったハイランドの言葉はあまりにも正しかった。
単に静かだった執務室に、重苦しい空気が満ち満ちる。ハイランドは貴族の威厳を崩さず、長机に片腕を乗せ、じっと大司教を見つめている。それはまるで、一瞬でも目を逸らせば逃げてしまう野鼠を見つめるかのようだ。
しかし、この膠着した状態を、一体どうするつもりなのか。大司教があの原稿を読み終えるとはとても思えない。催促しても無駄。席を立っても無駄。完全に囚われていた。
レノスでの失敗、という話がふと蘇る。もしかしたら、ハイランドは同じようにレノスの大司教にしてやられたのではなかろうか。神学の議論ならば自分と十分に渡り合えるほどだが、自分と同じように、底意地の悪い世間には慣れていないのではないか。
そう思ったが、さりとて自分もまたなにもできないことが情けなく、歯がゆかった。
それからどれくらいの時間が経った頃か、執務室の外から鐘の音が聞こえてくる。昼を告げる、教会の鐘楼の鐘が鳴らされたのだろう。それで気がついたのは、執務室の内部がどれほど膠着していようと、外では人々が普通に生活し、時間が流れている、ということだ。ハイランドはその流れに賭けているのではなかろうか、と思った。
夜が更ければ、再びあの猥雑で暴力的な時間がやってくる。酒に酔った男たちが、犬に司祭服を着せて権威を冒瀆し、鶏のもも肉と聖典の翻訳版の切れ端を手にした理屈っぽい商人が、肉を嚙みながら教会への暴言を吐き散らす。
それでなくても、デバウ商会の商館では、職人たちが翻訳版を筆写して配っている。それを読めば、良識ある者ならば教会の横暴に正当性などないとすぐにわかる。そうなれば、人々は教会の裏門にではなく、表門に卵を投げつけるかもしれない。人々が教会の悪弊を正そうと立ち上がった時、ハイランドは満を持して交渉のための剣を抜くだろう。
そして、そんなふうに考えたら、大司教の側の目論見も見えてきた。まったく逆の賭けに出ているのかもしれない。
ミューリが商会の下働きをするついでに集めてきた話では、騒いでいる下層の者たちは単に騒げるから騒いでいる、ということだった。信仰の正しさもなにもなく、十分の一税の直接の重さに喘いでいるわけですらない。騒ぐのは一過性の流行にすぎず、このまま何事もなければ、彼らの関心は別のところに行ってしまうことは容易に予測できた。
季節は冬から春に移り変わろうとしていて、一年の中で最も忙しい季節に差し掛かる。デバウ商会に陳情にやってきていた人々の数を見ても明らかだ。これからは春の祭りや教会の儀式なども目白押しだから、宗教的権威としてそれらを取り仕切る大司教は、ハイランドの交渉を後回しにする口実には事欠かない。
聖務とは塩気のようなものであり、季節の移り変わり、人生の節目など、日々の生活に教会の存在は欠かせなかった。ハイランドと交渉しているがために聖務に支障が出るとなれば、ハイランドに悪感情を持つ者も出てくるだろう。そもそも、ウィンフィール王国の民衆が苦しんでいるのは、その聖務を全面的に停止されているからだった。
人々が怒りの声を上げるのが先か、それとも目の前の生活へと関心を戻すのが先か。
息が詰まりそうな緊張の中、静かに、思う。これは、世界をどういうふうに信じるかの戦いだ。人々は、正しいものは正しいとみなしてくれるし、そのために立ち上がってくれる。少なくとも自分は、またハイランドも、そう信じているはずだった。
神よ、と祈った。
だが、その神の僕であるはずの大司教たちが間違っていることを祈るのは、果たして正しいことなのかどうか。天と地が逆になったかのような構図に、眩暈を覚えてしまう。船頭が言ったように、川はまっすぐには流れていないのだ。
これが世の中だと言えばそうなのだろうが、単純な生活のニョッヒラが遠くに感じられた。
そうして、体を少しずつ削り取られるかのような時間が、痛みを覚えるほどゆっくりと過ぎていった。ハイランドも大司教も口を開かないので、昼食を、と提案する者もいない。さらに時間が経ち、執務室の高い天井付近にある明り取り窓から差し込む日差しの向きが、執務室に入ってきた時とは逆になった。
足腰の痛みも辛く、それはその場にいる全員が感じていることだろう。立っている者のみならず、座っている者も同様だ。ひたすら椅子に座っているというのは、それはそれで体に大変な負担をかける。歳を重ねている司教たちは、目に見えて消耗していた。対して、ハイランドの側は自分も含めて若い人々が多い。司教の後ろに控える侍従たちこそ若かったが、根競べではこちらに分があるように思われた。
ひとつ心配なのはミューリのことだったが、山を駆けまわる体力があるだけに、なんとか耐えているようだった。ただ、明日からは来ないだろうなと思うと、少し笑いそうになった。
ついに明り取り窓から入る日差しが傾き、色も濃くなってきた頃のこと。きっと人々の頭には、もう少しで今日が終わる、というその思いしかなかっただろうところに、大きな物音が響いた。高齢の司教が、長机に倒れ込んで突っ伏していた。
「司教様!」
侍従たちが駆け寄り、司教を運んでいく。執務室の扉が開き、川の流れを堰き止めていた堤が崩れるように、緊張が流れ出ていった。