第三幕 ⑪

 その流れを見た大司教が、羊皮紙から顔を上げ、言った。


「これでは会議ができませんな。このほんやくも読み終わってないことですし、また明日に」


 その言葉にほっとしたのは、司教たちだけではない。明らかにハイランドのお供の者たちも、自分をふくめてめていた息をいた。

 そのしゆんかんだ。


「いえ、夜は長いですから、読み終わるのを待ちましょう」


 ハイランドはぜんと言い放つ。大司教が顔をこわらせ、言葉にまる。仲間の司教たちは、思わずといった様子で、大司教にすがるような目を向ける。

 その様子に、感服した。ハイランドは決して世間知らずの貴族様ではない。

 相手のきんちようゆるむこのしゆんかんを、ひたすらに待っていたのだ。

 望むのならごくまで相手をしてみせよう、とばかりに大司教を見つめるハイランドは、一歩も引く様子を見せていない。大司教もそれがわかるために、二の句をげないでいる。

 しかし、配下の司教たちは体力的にも精神的にも限界に見えた。なによりも、やれやれこれで今日は終わりだ、ときんちようを一度解いてしまっていた。もう一度気をめ直すのは至難のわざだ。明らかに、形勢が逆転していた。

 もしかしたら、大司教はハイランドのことを見くびっていたのかもしれない。しよせん、おしき育ちのなんじやくな貴族様だろうと。ともすれば女性にも見えるような線の細いハイランドには、確かにどろくささのようなものがいつさいない。だが、そこには狩人かりゆうどにも通じるにんたいづよさと、相手の裏をく商人のような、ある種の意地の悪さがあった。


「う……ぐ……」


 大司教はあぶらあせかべてうなるが、こちらもまた、権力の座にくにふさわしい人物だったのかもしれない。


「そう……ですな。ちゆうはんは、良くない」


 みつくような目つきでハイランドのことをにらみながら、大司教はすがった。死なばもろとも、という時の顔はこういうものなのだろう。司教たちは絶望に満ちた顔つきになるが、大司教の言うことには逆らえない。

 そして、その様子をよく見てから、ハイランドは言った。


「ですが、軽く食事くらいはいかがでしょうか」


 それでは相手の気力を回復させてしまう、といつしゆん思ったが、司教たちの顔を見て気がつく。

 かれらの心情が明らかにハイランドにかたむいている。それこそ、救い主を見るかのように。

 してやられたことに気がついた大司教は、苦しげにうなずいた。


「くっ……では、パンと、飲み物を。町にはまだてんが出ているでしょうから」


 じゆうたちは頭を下げ、おのおのしつ室から出ていく。ハイランドはこちらをり向き、すずやかに笑いながら言った。


「お前たちも手伝ってきなさい」


 それが使えきの意味ではなく、体を動かしてきゆうけいをしてこい、ということなのは明らかだ。

 ただ、体力勝負の護衛たちは「おそれながら」とはなれるのをこばんだ。あるじが体にむちってえるのならば、我らもまたじゆんずるのみ、ということだろう。


「では、残りの者で食事の用意を」


 朝からずっと同じ場所に立っていたので、ひざこしが自分の物ではないような気がする。

 ミューリもよたよたとしていて、その細い身体を手で支えた。


だいじようですか?」

「……お湯にかりたい」

「私もです」


 軽口にがおで答えた。しつ室から外に出ると、だれかれもがひざを曲げて体をばしていた。その共通の仕草には敵も味方も関係ない。じゆうやハイランドのお供たちの間には、少し気まずそうにしつつも、なんとなく共感のようなものがあった。

 とはいえかたを並べて市場に行くのははばかられたようで、じゆうたちは裏口から、ハイランドのお供たちは表側の出入り口から外に調達しに行った。自分たちも自分の分くらいは買ってこないとならないが、ミューリが足を痛そうにしていたので、ちゆうろうすみに寄ってきゆうけいすることにした。


「すごかったね」


 通路のわきに積み上げられている木箱にすわったミューリが、笑いながら言った。


「やっぱりあのきんぱつ、性格悪いんだよ」


 思わず辺りを見回すが、だれもいない。教会内をいそがしそうに立ち働く助司祭たちも夕方のいのりのために聖堂のほうにはらっているのかもしれない。それに、ミューリの言い方にはある種の敬意が感じられた。

 なかなかやるじゃないか、と言わんばかりだ。


「兄様があそこにすわってたら、あのじじいが羊皮紙の三枚目に行く前に、降参してたろうね」


 ましてや、配下の司教たちの心情をこちらにかたむけさせることなど、とうてい無理だっただろう。


「でも、あいつらどうするつもりなんだろ」


 気になったのは、そのはすっぱな口の悪さではなく、あいつら、と言ったところだった。


「あいつら?」

じじいきんぱつの両方。どっちも勝算があるはずだから」

「それは私も考えてみましたが」


 ハイランドは民衆がおこり出すのを、大司教は民衆がこの争いに興味をくすのをそれぞれ待っているのではないか。

 そう告げたら、ミューリは思いきりあきれていた。


「兄様はそんなだからなんだよ」

「だ、だめって、なぜですか」


 ミューリは木箱にかたひざを立て、そこにあごを乗せる。まるで、だいしようがこれからとなりむらの子供連中をぶちのめす作戦を語るかのように。


「兄様は弓のうではあるししつこいから、山を歩き回って弓矢で鹿しかを狩るのには向いてるけど、数りやわなは苦手だよね」


 とつぜんなんの話かと思ったが、それはそのとおりだ。時折弓矢を手に山に入り、鹿しかを仕留めることはある。その成果に顔見知りの狩人かりゆうどはくしゆを送ってくれる。しかし、ミューリが山でものると、狩人かりゆうどなわりのしんがいだと言っておこる。毛皮を売って暮らせるほど、うさぎれるからだ。


わなりは意地の悪さの勝負だから」

「意地の、悪さ?」

わなはたくさんけ、少しでもそこに向かうように、むように、道を作る」


 ミューリはそういうことが天才的にうまく、自分はへただった。の通り道も、うさぎの帰り道もてんでわからない。効率的にかんするということが、どうしようもなくへたなのだ。


「兄様はやさしいし、だから」


 ミューリは笑っていた。


「で、あのきんぱつだけど、相手のじじいが取りつく島もないってことはわかってたみたいだから、なにか準備をしてるはず。昨日はわめき立てる作戦でやられたんでしょ? どうみても狩人かりゆうどの素質ありだもの。なんの準備もしてないで、行き当たりばったりなんてあり得ない」

「だとしたら?」


 問いかけると、ミューリはかたをすくめた。


「小手先の対処じゃなくて、根本的にじようきようをひっくり返すような、あのじじいじようせざるを得ないじようきようがくる、とわかってるんじゃないかな。それも、今日か、明日にでも」


 そのしゆんかんおくがあの暗い夜に飛んだ。


「まさか……そんな」


 あの悪意でえたぎったようなさわぎが、自然に起きたものではないというのだろうか。

 ハイランドがそんなことを、あんな、教会のけんあしにするようなことを。

 しようげきに絶句していたら、ミューリは悲しげな顔を見せた。


「兄様がいくらやさしくても、世界が兄様にやさしいとは限らないよ」


 その時のミューリのふんは、世界地図の前でかみを編まれていた時のものにそっくりだった。

刊行シリーズ

新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙XIの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙Xの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙IXの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙VIIIの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙VIIの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙VIの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙Vの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙IVの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙IIIの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙IIの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙の書影