その流れを見た大司教が、羊皮紙から顔を上げ、言った。
「これでは会議ができませんな。この翻訳も読み終わってないことですし、また明日に」
その言葉にほっとしたのは、司教たちだけではない。明らかにハイランドのお供の者たちも、自分を含めて詰めていた息を吐いた。
その瞬間だ。
「いえ、夜は長いですから、読み終わるのを待ちましょう」
ハイランドは毅然と言い放つ。大司教が顔を強張らせ、言葉に詰まる。仲間の司教たちは、思わずといった様子で、大司教にすがるような目を向ける。
その様子に、感服した。ハイランドは決して世間知らずの貴族様ではない。
相手の緊張が緩むこの瞬間を、ひたすらに待っていたのだ。
望むのなら地獄まで相手をしてみせよう、とばかりに大司教を見つめるハイランドは、一歩も引く様子を見せていない。大司教もそれがわかるために、二の句を継げないでいる。
しかし、配下の司教たちは体力的にも精神的にも限界に見えた。なによりも、やれやれこれで今日は終わりだ、と緊張を一度解いてしまっていた。もう一度気を引き締め直すのは至難の業だ。明らかに、形勢が逆転していた。
もしかしたら、大司教はハイランドのことを見くびっていたのかもしれない。所詮、お屋敷育ちの軟弱な貴族様だろうと。ともすれば女性にも見えるような線の細いハイランドには、確かに泥臭さのようなものが一切ない。だが、そこには狩人にも通じる忍耐強さと、相手の裏を搔く商人のような、ある種の意地の悪さがあった。
「う……ぐ……」
大司教は脂汗を浮かべて唸るが、こちらもまた、権力の座に就くにふさわしい人物だったのかもしれない。
「そう……ですな。中途半端は、良くない」
嚙みつくような目つきでハイランドのことを睨みながら、大司教は追い縋った。死なば諸共、という時の顔はこういうものなのだろう。司教たちは絶望に満ちた顔つきになるが、大司教の言うことには逆らえない。
そして、その様子をよく見てから、ハイランドは言った。
「ですが、軽く食事くらいはいかがでしょうか」
それでは相手の気力を回復させてしまう、と一瞬思ったが、司教たちの顔を見て気がつく。
彼らの心情が明らかにハイランドに傾いている。それこそ、救い主を見るかのように。
してやられたことに気がついた大司教は、苦しげにうなずいた。
「くっ……では、パンと、飲み物を。町にはまだ露店が出ているでしょうから」
侍従たちは頭を下げ、各々執務室から出ていく。ハイランドはこちらを振り向き、涼やかに笑いながら言った。
「お前たちも手伝ってきなさい」
それが使役の意味ではなく、体を動かして休憩をしてこい、ということなのは明らかだ。
ただ、体力勝負の護衛たちは「恐れながら」と離れるのを拒んだ。主が体に鞭打って耐えるのならば、我らもまた殉ずるのみ、ということだろう。
「では、残りの者で食事の用意を」
朝からずっと同じ場所に立っていたので、膝と腰が自分の物ではないような気がする。
ミューリもよたよたとしていて、その細い身体を手で支えた。
「大丈夫ですか?」
「……お湯に浸かりたい」
「私もです」
軽口に笑顔で答えた。執務室から外に出ると、誰も彼もが膝を曲げて体を伸ばしていた。その共通の仕草には敵も味方も関係ない。侍従やハイランドのお供たちの間には、少し気まずそうにしつつも、なんとなく共感のようなものがあった。
とはいえ肩を並べて市場に行くのは憚られたようで、侍従たちは裏口から、ハイランドのお供たちは表側の出入り口から外に調達しに行った。自分たちも自分の分くらいは買ってこないとならないが、ミューリが足を痛そうにしていたので、途中の廊下で隅に寄って休憩することにした。
「すごかったね」
通路の脇に積み上げられている木箱に座ったミューリが、笑いながら言った。
「やっぱりあの金髪、性格悪いんだよ」
思わず辺りを見回すが、誰もいない。教会内を忙しそうに立ち働く助司祭たちも夕方の祈りのために聖堂のほうに出払っているのかもしれない。それに、ミューリの言い方にはある種の敬意が感じられた。
なかなかやるじゃないか、と言わんばかりだ。
「兄様があそこに座ってたら、あの爺が羊皮紙の三枚目に行く前に、降参してたろうね」
ましてや、配下の司教たちの心情をこちらに傾けさせることなど、到底無理だっただろう。
「でも、あいつらどうするつもりなんだろ」
気になったのは、そのはすっぱな口の悪さではなく、あいつら、と言ったところだった。
「あいつら?」
「爺と金髪の両方。どっちも勝算があるはずだから」
「それは私も考えてみましたが」
ハイランドは民衆が怒り出すのを、大司教は民衆がこの争いに興味を失くすのをそれぞれ待っているのではないか。
そう告げたら、ミューリは思いきり呆れていた。
「兄様はそんなだから駄目なんだよ」
「だ、だめって、なぜですか」
ミューリは木箱に片膝を立て、そこに顎を乗せる。まるで、餓鬼大将がこれから隣村の子供連中をぶちのめす作戦を語るかのように。
「兄様は弓の腕はあるししつこいから、山を歩き回って弓矢で鹿を狩るのには向いてるけど、数獲りや罠は苦手だよね」
突然なんの話かと思ったが、それはそのとおりだ。時折弓矢を手に山に入り、鹿を仕留めることはある。その成果に顔見知りの狩人は拍手を送ってくれる。しかし、ミューリが山で獲物を捕ると、狩人は縄張りの侵害だと言って怒る。毛皮を売って暮らせるほど、栗鼠や兎が獲れるからだ。
「罠狩りは意地の悪さの勝負だから」
「意地の、悪さ?」
「罠はたくさん仕掛け、少しでもそこに向かうように、追い込むように、道を作る」
ミューリはそういうことが天才的にうまく、自分はへただった。栗鼠の通り道も、兎の帰り道もてんでわからない。効率的に俯瞰するということが、どうしようもなくへたなのだ。
「兄様は優しいし、真面目だから」
ミューリは笑っていた。
「で、あの金髪だけど、相手の爺が取りつく島もないってことはわかってたみたいだから、なにか準備をしてるはず。昨日は喚き立てる作戦でやられたんでしょ? どうみても狩人の素質ありだもの。なんの準備もしてないで、行き当たりばったりなんてあり得ない」
「だとしたら?」
問いかけると、ミューリは肩をすくめた。
「小手先の対処じゃなくて、根本的に状況をひっくり返すような、あの爺が譲歩せざるを得ない状況がくる、とわかってるんじゃないかな。それも、今日か、明日にでも」
その瞬間、記憶があの暗い夜に飛んだ。
「まさか……そんな」
あの悪意で煮えたぎったような騒ぎが、自然に起きたものではないというのだろうか。
ハイランドがそんなことを、あんな、教会の権威を足蹴にするようなことを。
衝撃に絶句していたら、ミューリは悲しげな顔を見せた。
「兄様がいくら優しくても、世界が兄様に優しいとは限らないよ」
その時のミューリの雰囲気は、世界地図の前で髪を編まれていた時のものにそっくりだった。