第三幕 ⑫

 ミューリはあの時、けものの耳も、尻尾しつぽも、女であることもかくそうとしていた。ミューリがどれだけ外の世界にきようしんしんでも、世界はきっとミューリにつらい仕打ちをする。

 ミューリはそのことを、もう何年も前、幼いころに理解していたのだ。


「あのきんぱつは、数日中に町がおおさわぎになるってわかってるはず。だからあんなに自信満々なんだよ。だけどね、兄様」


 ミューリは、まっすぐな目でこちらを見た。


「だとしたら、変なの」

「変? これ以上……なにが……」

「兄様にも覚えがあるでしょ? 人をおこらせるのは簡単だけど、逆に落ち着かせるのはすごく大変だって」


 一転、悪戯いたずらっぽく笑うミューリに、られて力なく笑ってしまう。過去、一度火のついたミューリをいなすのが、どれほど大変だったことか。


「それは……そうですね」

「あのじじいも無策とは思えない。じじいのほうにもなにか秘策があるんだよ。けど、それがまったくわからない。兄様の案じゃ、ゆうちようすぎる。ばりえさをつけないで、いつかちがって魚が食いつくかもしれない、みたいな方法だもの。だから、いかくるった町の人たちをどうにかする策があるんだよ」


 言われてみれば、そうかもしれない。

 大司教もハイランドも、どちらも背負っているものが大きい。ゆうちように構えているはずがないのだ。そのために、ハイランドがあの夜の町の暗い空気をわざと作り出すことに加担しているとは思いたくなかったが、くつはとおっている。では、大司教は? かれはなにを待っているのだろうか?


「大司教様のたくらみがわかれば、ハイランド様の助けになりそうなのですが……」

「ま、兄様にわかるようなものじゃないことだけは確かだね」


 いやそうな目を向けると、兄様がそれだけ良い人って意味だよと言われるが、あまりうれしくない。そんなふうにこちらをひとしきりからかったミューリは、足の痛みが取れたのか木箱から降りて、手をつないでくる。


「おなか空いた」

「はいはい」


 それから広場で軽食を調達したが、しつ室で食べるのは息も食事もまりそうだったので、教会のわきで手早く済ませることにした。広場のにぎやかさをながめながらパンをかじっていると、世界は何事もなく平和に見える。日暮れと呼ぶにはまだ早すぎるが、空はあかねいろに変わってきていて、町には仕事終わりの気だるいここ良さがただよい始めている。気の早いてんみせいを始めているし、居酒屋ものきさきしよくだいろうそくを足したり、ばちや長机を準備していた。

 だが、日が暮れれば町のふんはがらりと変わる。暖かく、にぎやかな明るい昼は終わり、寒く、かがりに照らされたわいざつな夜がやってくる。

 ハイランドは日が暮れても立ち去る気はないだろうから、夜がおとずれてからが勝負だ。


「食べ終わりましたか?」


 親指の腹をめていたミューリはうなずいた。


「気分が悪くなったら、こっそりして構いませんからね」


 一応そう言っておくと、ミューリはきやしやかたを生意気にすくめる。


「兄様こそ、人の悪意にあてられてたおれないでよね」


 この調子ならだいじようそうだ。

 そして神の正しき教えのために、再び教会にもどったのだった。



 しつ室にもどると、きゆうけいと食事のおかげか、いくぶん空気はやわらいでいた。先ほどたおれたこうれいの司教も、まだ顔色はすぐれないが席に着いている。司教たちの後ろにひかえるじゆうたちもほぼそろっていて、自分たちの入室が最後の方だとわかってややあわてた。

 しかし、そんなことも大司教が羊皮紙をめくって続きを読んでいたことに気がついて、んだ。どういう心境の変化なのだろうか。

 そこに書かれている聖典の教えに引かれ、読むのを止められなかった……とはさすがに思えない。おそらくは、このこんくらべで部下であり仲間である司教たちの気持ちがこれ以上はんするのをけるため、次の段階に移行させようというつもりなのだろう。

 問題は、一体なにをするつもりなのか、ということだった。

 ハイランドの計画は、町の人々のふんを利用したものだろう。ミューリの言うようにハイランドが直接あおっている、とは思いたくなかったが、そうする理由は十分にあった。夜のとばりが下り、人々が広場で教会を悪しざまにののしふんの中であれば、じようすべきは大司教になる。

 では大司教はなにをねらっているのだろうか?

 なんにせよ、その場にいる全員が、たがいのじんえいおもわくこうとしているのはちがいない。かべからその様子を見下ろしている天使たちは、一体なにを思うだろう。いまさらのことだ、と思っているのだろうか。

 そう考えていると、部屋を見回して人数を数えていた司教側のじゆうが、しつ室のとびらを閉めて回っていた。まるで、部屋のしようが外にれ出さないようにふたをするかのように。

 そして、再びしつ室にはちんもくもどり、大司教はほんやくを読み進めている。単に目で追っているというわけではなく、やはりていねいに読んでいるのがはっきりとわかった。その様子に、ほんやく者の一人として、じゆんすいきんちようした。今、かれが読んでいるのはどのあたりだろうか。ほんやくの質はどう思われているだろうか。自分が学んできたことは世間でも通用するだろうか。

 功名心、というものはどうやってもなかなか消すことのできないものなのだと理解する。

 そうなってようやく、人々からなんと言われようと、どれだけ聖典の教えからはなれようと、このそうごんな大聖堂の中の特権にしがみつこうとする大司教たちの気持ちの欠片かけらが理解できたような気がした。

 そんなことを思っているのが通じたわけでもなかろうが、大司教はふと、羊皮紙の一点に目を止めた。興味をかれたように前の行にもどり、また読み直したりしている。

 それが単なるかんかせぎのいつかんでないことは、近くの席にいた司教にもその羊皮紙を見せていたことから明らかだ。そして、見せられた司教はがいとうしよを見て、目をみはっている。それからすぐにとなりの司教にも見せていた。

 どんな内容のしよで、いかなる理由であんなことをしているのか、気が気ではなかった。

 積み重ねられた羊皮紙の位置からして、自分がほんやくした場所であることはちがいない。

 せめてどのしよが回覧されているのかわかればと思い、びしてのぞむように前のめりになる。机の上をすべっている羊皮紙の文面を見たしゆんかん、ぞわりとする。明らかに自分のひつせきだった。自分の書いた文章が、立場のある者たちに読まれているという事実に息をむ。

 その言いようのない興奮に夢中になっていたら、知らず足が前に出ていたらしい。ミューリから服を引っ張られ足をまれたし、ハイランドはかたしにかすかなしようを見せてきた。

 この場で自分だけが、子供であるような気がした。

 そうこうしているうちに羊皮紙は一周して、大司教のもとにたどり着く。

 大司教はそれを別の羊皮紙の束の上にていねいに重ねて、せきばらいをはさんだ。


「これが世に聞く聖典のぞくほんやく版かと、おどろきましたな」


 その一言が単なる感想でないことは、しつ室の全員が理解した。

 ハイランドが、ていねいに応じた。


「世の人々に少しでも多く、神の教えを知っていただけたらと願っています。当然、民衆のほううながすようなものでないことはご理解いただけたかと」


 ハイランドの応えに、大司教はゆっくりとうなずく。


「時に、このほんやくをされたのはどなたですかな。ウィンフィール王国の高名な神学者でしょうか」

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