ミューリはあの時、獣の耳も、尻尾も、女であることも隠そうとしていた。ミューリがどれだけ外の世界に興味津々でも、世界はきっとミューリに辛い仕打ちをする。
ミューリはそのことを、もう何年も前、幼い頃に理解していたのだ。
「あの金髪は、数日中に町が大騒ぎになるってわかってるはず。だからあんなに自信満々なんだよ。だけどね、兄様」
ミューリは、まっすぐな目でこちらを見た。
「だとしたら、変なの」
「変? これ以上……なにが……」
「兄様にも覚えがあるでしょ? 人を怒らせるのは簡単だけど、逆に落ち着かせるのはすごく大変だって」
一転、悪戯っぽく笑うミューリに、釣られて力なく笑ってしまう。過去、一度火のついたミューリをいなすのが、どれほど大変だったことか。
「それは……そうですね」
「あの爺も無策とは思えない。爺のほうにもなにか秘策があるんだよ。けど、それがまったくわからない。兄様の案じゃ、悠長すぎる。釣り針に餌をつけないで、いつか間違って魚が食いつくかもしれない、みたいな方法だもの。だから、怒り狂った町の人たちをどうにかする策があるんだよ」
言われてみれば、そうかもしれない。
大司教もハイランドも、どちらも背負っているものが大きい。悠長に構えているはずがないのだ。そのために、ハイランドがあの夜の町の暗い空気をわざと作り出すことに加担しているとは思いたくなかったが、理屈はとおっている。では、大司教は? 彼はなにを待っているのだろうか?
「大司教様の企みがわかれば、ハイランド様の助けになりそうなのですが……」
「ま、兄様にわかるようなものじゃないことだけは確かだね」
嫌そうな目を向けると、兄様がそれだけ良い人って意味だよと言われるが、あまり嬉しくない。そんなふうにこちらをひとしきりからかったミューリは、足の痛みが取れたのか木箱から降りて、手を繫いでくる。
「お腹空いた」
「はいはい」
それから広場で軽食を調達したが、執務室で食べるのは息も食事も詰まりそうだったので、教会の脇で手早く済ませることにした。広場の賑やかさを眺めながらパンをかじっていると、世界は何事もなく平和に見える。日暮れと呼ぶにはまだ早すぎるが、空は茜色に変わってきていて、町には仕事終わりの気だるい心地良さが漂い始めている。気の早い露店は店仕舞いを始めているし、居酒屋も軒先の燭台に蠟燭を足したり、火鉢や長机を準備していた。
だが、日が暮れれば町の雰囲気はがらりと変わる。暖かく、賑やかな明るい昼は終わり、寒く、篝火に照らされた猥雑な夜がやってくる。
ハイランドは日が暮れても立ち去る気はないだろうから、夜が訪れてからが勝負だ。
「食べ終わりましたか?」
親指の腹を舐めていたミューリはうなずいた。
「気分が悪くなったら、こっそり抜け出して構いませんからね」
一応そう言っておくと、ミューリは華奢な肩を生意気にすくめる。
「兄様こそ、人の悪意にあてられて倒れないでよね」
この調子なら大丈夫そうだ。
そして神の正しき教えのために、再び教会に戻ったのだった。
執務室に戻ると、休憩と食事のおかげか、幾分空気は和らいでいた。先ほど倒れた高齢の司教も、まだ顔色は優れないが席に着いている。司教たちの後ろに控える侍従たちもほぼ揃っていて、自分たちの入室が最後の方だとわかってやや慌てた。
しかし、そんなことも大司教が羊皮紙をめくって続きを読んでいたことに気がついて、吹き飛んだ。どういう心境の変化なのだろうか。
そこに書かれている聖典の教えに引かれ、読むのを止められなかった……とはさすがに思えない。おそらくは、この根競べで部下であり仲間である司教たちの気持ちがこれ以上離反するのを避けるため、次の段階に移行させようというつもりなのだろう。
問題は、一体なにをするつもりなのか、ということだった。
ハイランドの計画は、町の人々の雰囲気を利用したものだろう。ミューリの言うようにハイランドが直接煽っている、とは思いたくなかったが、そうする理由は十分にあった。夜の帳が下り、人々が広場で教会を悪しざまに罵る雰囲気の中であれば、譲歩すべきは大司教になる。
では大司教はなにを狙っているのだろうか?
なんにせよ、その場にいる全員が、互いの陣営の思惑を出し抜こうとしているのは間違いない。壁からその様子を見下ろしている天使たちは、一体なにを思うだろう。今更のことだ、と思っているのだろうか。
そう考えていると、部屋を見回して人数を数えていた司教側の侍従が、執務室の扉を閉めて回っていた。まるで、部屋の瘴気が外に漏れ出さないように蓋をするかのように。
そして、再び執務室には沈黙が舞い戻り、大司教は翻訳を読み進めている。単に目で追っているというわけではなく、やはり丁寧に読んでいるのがはっきりとわかった。その様子に、翻訳者の一人として、純粋に緊張した。今、彼が読んでいるのはどのあたりだろうか。翻訳の質はどう思われているだろうか。自分が学んできたことは世間でも通用するだろうか。
功名心、というものはどうやってもなかなか消すことのできないものなのだと理解する。
そうなってようやく、人々からなんと言われようと、どれだけ聖典の教えから離れようと、この荘厳な大聖堂の中の特権にしがみつこうとする大司教たちの気持ちの欠片が理解できたような気がした。
そんなことを思っているのが通じたわけでもなかろうが、大司教はふと、羊皮紙の一点に目を止めた。興味を惹かれたように前の行に戻り、また読み直したりしている。
それが単なる時間稼ぎの一環でないことは、近くの席にいた司教にもその羊皮紙を見せていたことから明らかだ。そして、見せられた司教は該当の個所を見て、目を瞠っている。それからすぐに隣の司教にも見せていた。
どんな内容の個所で、いかなる理由であんなことをしているのか、気が気ではなかった。
積み重ねられた羊皮紙の位置からして、自分が翻訳した場所であることは間違いない。
せめてどの箇所が回覧されているのかわかればと思い、背伸びして覗き込むように前のめりになる。机の上を滑っている羊皮紙の文面を見た瞬間、ぞわりとする。明らかに自分の筆跡だった。自分の書いた文章が、立場のある者たちに読まれているという事実に息を吞む。
その言いようのない興奮に夢中になっていたら、知らず足が前に出ていたらしい。ミューリから服を引っ張られ足を踏まれたし、ハイランドは肩越しにかすかな微笑を見せてきた。
この場で自分だけが、子供であるような気がした。
そうこうしているうちに羊皮紙は一周して、大司教の許にたどり着く。
大司教はそれを別の羊皮紙の束の上に丁寧に重ねて、咳払いを挟んだ。
「これが世に聞く聖典の俗語翻訳版かと、驚きましたな」
その一言が単なる感想でないことは、執務室の全員が理解した。
ハイランドが、丁寧に応じた。
「世の人々に少しでも多く、神の教えを知っていただけたらと願っています。当然、民衆の蜂起を促すようなものでないことはご理解いただけたかと」
ハイランドの応えに、大司教はゆっくりとうなずく。
「時に、この翻訳をされたのはどなたですかな。ウィンフィール王国の高名な神学者でしょうか」