第三幕 ⑬

 そのしゆんかんばしっぱなしでくくっていたかみが、ミューリの尻尾しつぽのように逆立ったような気がした。机の上をすべっていた羊皮紙は、ちがいなく自分のひつせきだった。自分が担当した場所だ。

 それを、大司教は高名な神学者がなしたものだと思ったのだ。


「いえ、大司教様が手にされている部分については、こちらの若き学者が」


 ハイランドのしようかいを受け、これ以上ないほどに背筋をばして目線を上げた。とてもではないが居並ぶ司教たちの視線を受け止められなかった。だが、その代わりに視線の先にはかべかかげられた教会のもんしようがあった。自分の学んだことがこの神の教えを広める大きな家の中で、さいな意味を持つことができたそのことを、神から祝福されているかのようだった。


「ほほう。そして、その学者にほんやくらいしたのが、あなたであると」

「いかにも。がウィンフィール王国は、神の教えをどくせんすることを望みませんし、神もお望みではないでしょう」


 先制の当てこすりだったが、大司教はさらりと受け流す。


「ふむ。それがハイランド殿どの、ひいてはウィンフィール王国国王のじゆくりよの末ということであれば、仕方ありませんな」


 大司教は感じ入ったように話しているが、その言葉の内容がいまいちれなかった。

 ななめ後ろから見えるハイランドの表情は、落ち着きとゆうくずしていないので、かれらにはわかるなにかなのだろうか。

 そう思っていたら、大司教の口から、重みをもった一言が発せられた。


「では、この文書に書かれていることの責任は、ハイランド殿どの、ならびにウィンフィール王国が負われるということでよろしいな?」


 なにか風向きがおかしい。

 そう感じた直後、大司教は側にひかえるじゆうに羊皮紙をわたし、こちらに持ってこさせた。

 ハイランドがややまどっていたのは、大司教の行動が度をえて予想外だったからだろう。

 羊皮紙をし、あんなことを言う理由はひとつしかない。ほんやくは聖典の語句を独自にかいしやくするこうに他ならないから、議論の余地は探せばいくらでもある。しかし、アティフの大司教はおよそ聖典をまともに読んだこともないだろう、とハイランドはみなしていた。まさかその大司教が教理問答をけてくるつもりだろうか。

 明確な誤訳があったのか? と思ったが、いや、と思い直す。何度も見直した。それに、質のしはあろうとも、そう簡単にまれるようなしよはないはずだ。

 じゆうから羊皮紙が、ハイランドのもとに届けられる。間近に見るそれは、やはり見慣れた自分のひつせきであり、内容も神を賛美する預言者の言葉に満ちたしよだ。かいしやくに大きな余地がある、たとえ話や思わせぶりなしよではない。

 ハイランドも一目見て、その羊皮紙に記されているほんやくが聖典のどこにあたるのかいつしゆんでわかったらしく、特に読みもせず、こちらに回してきた。


「このしよになにか?」


 ハイランドから羊皮紙を受け取り、頭から文字を追っていく。やはりちがいはない。自分の文字を追いかけていると、その部分を書いた時の興奮や喜び、あるいは夜中の作業のねむこしの痛みを思い出す。

 しかし、とつぜんミューリに服を引っ張られた。

 ミューリは、羊皮紙に顔を近づけ、文字ではなく、羊皮紙そのものを見ていた。


「これ……」


 ミューリがそう言うのと、大司教が口を開くのはほぼ同時だった。


「下から四行目は、本来の聖典であれば神への賛美をかえす感動的なしよではありませんかな」


 下から四行目?

 上から読んでいた物を、逆から追いかける。

 そして、思わず声が出た。


「え?」


 ハイランドがくのが気配でわかったが、それどころではなかった。自分の目が信じられず、足元がぐらりとれ、がせりあがってくる。

 なんだこれは?


「どうした、コル」


 視線を動かすことすらできなかった。ハイランドはから立ち上がり、羊皮紙をうばる。直後、びくりと体をすくませて顔を上げた。朝から夕方までにおよぶ、神経をすり減らすような根くらべでもなお顔色をひとつ変えなかった人物が、全身でどうようしていた。

 だが、見たのは自分のほうではない。大司教のほうだ。


「まさか……いや、どうやって……」


 その一言で、救われた。そう。どうやって?

 これは自分のちがいではありえない。神を賛美するしよに書かれていたのは、神はぶたであり、その教えはぶたの鳴き声に等しいという一文なのだから。


「まさかもなにも、ひつせきそろっている。そこの若きがくそうが、あなたのもと、記したものにちがいあるまい」


 大司教の言葉に、ハイランドは手元の羊皮紙を苦しげな顔で見る。確かにひつせきそろっている。

 不気味なほど、かんぺきに自分の文字だった。

 あの夜にあくしのみ、勝手にこの文字を書かせたとしか思えなかった。

 だが、その時だ。


「兄様、職人のにおいがする」


 ミューリのささやきで、すべてを理解した。

 筆写をたのんだ職人は三人いた。そのうちの一人は文字が読めなかった。それでも筆写職人としてはむしろうでが良いほうだった。なぜか? それは、文字とはある種の絵画であり、正確に写し取れれば仕事として成立するからだ。

 そして、正確に写し取ることができれば、使用した単語をならえることで、あらゆる文章をぞうできる。羊の皮の中に、きつねしのませることができる。自分たちの部屋には、だれかがしのんでいた。すべては仕組まれていた。ミューリの警告は正しかった。

 もっとしんけんに羊皮紙を点検していればと、やんでもやみきれない。


「コル、責めるべきはきたない手を使うやつらのほうだ」


 そこに、ハイランドが声をかけてくれた。目が合うと、うなずかれた。


「それに、きゆうけい中にこっそりえられたのかもしれない。ぼうぎよは不可能だ」


 確かに前日の内にえていたら発覚する危険もある。そう考えれば、ハイランドの言葉が正しいのかもしれない。

 なお胸の苦しみは残ったが、ハイランドになぐさめられ、思考にゆうができた。なんにせよ、自分を責めている場合ではない。

 大体、わなにはめられていたのは事実だとしても、こんなあからさまなことに意味があるのだろうか? と思った。技術的にはぞうが十分あり得ることなのだから、書いた書かないのみずろんになるのは目に見えている。しかも、あまりにもわざとらしい一文だ。

 これはさらなるかんかせぎのつもりなのだろうか? しかし、そんなことでめているという事実そのものが町の人々にれたらどうなるだろうか? 民衆は、ハイランドやその配下の自分がとちくるったと思うより、大司教がきたない手口を使ったと思うのではないのか。

 まったく逆効果としか思えない。

 もしもそれがなんらかの効果を持つのならば、それは……。

 それは、と気がついた時、血の気が引いた。


「そのような文書をしたため、所持する者は」


 大司教が、言った。


「やはりたんということでちがいないようですな」

「なんということを!」


 ハイランドがさけぶのと同時に、しつ室のとびらが勢い良く開かれた。

 そこにはずらりと町の兵士が並んでいた。


しんみようにしろ! おまえたちにはたん、ならびに禁書の作成と所持のけんがかけられている」

鹿な!」


 てるようなハイランドの一言が合図だったかのように、護衛たちがけんつかに手をかけた。かなかったのは、神聖なる聖堂でけんけば、そくぎやくぞくとみなされるからだ。

 たんけん

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