その瞬間、伸ばしっぱなしでくくっていた髪が、ミューリの尻尾のように逆立ったような気がした。机の上を滑っていた羊皮紙は、間違いなく自分の筆跡だった。自分が担当した場所だ。
それを、大司教は高名な神学者がなしたものだと思ったのだ。
「いえ、大司教様が手にされている部分については、こちらの若き学者が」
ハイランドの紹介を受け、これ以上ないほどに背筋を伸ばして目線を上げた。とてもではないが居並ぶ司教たちの視線を受け止められなかった。だが、その代わりに視線の先には壁に掲げられた教会の紋章があった。自分の学んだことがこの神の教えを広める大きな家の中で、些細な意味を持つことができたそのことを、神から祝福されているかのようだった。
「ほほう。そして、その学者に翻訳を依頼したのが、あなたであると」
「いかにも。我がウィンフィール王国は、神の教えを独占することを望みませんし、神もお望みではないでしょう」
先制の当てこすりだったが、大司教はさらりと受け流す。
「ふむ。それがハイランド殿、ひいてはウィンフィール王国国王の熟慮の末ということであれば、仕方ありませんな」
大司教は感じ入ったように話しているが、その言葉の内容がいまいち汲み取れなかった。
斜め後ろから見えるハイランドの表情は、落ち着きと余裕を崩していないので、彼らにはわかるなにかなのだろうか。
そう思っていたら、大司教の口から、重みをもった一言が発せられた。
「では、この文書に書かれていることの責任は、ハイランド殿、ならびにウィンフィール王国が負われるということでよろしいな?」
なにか風向きがおかしい。
そう感じた直後、大司教は側に控える侍従に羊皮紙を渡し、こちらに持ってこさせた。
ハイランドがやや戸惑っていたのは、大司教の行動が度を越えて予想外だったからだろう。
羊皮紙を寄越し、あんなことを言う理由はひとつしかない。翻訳は聖典の語句を独自に解釈する行為に他ならないから、議論の余地は探せばいくらでもある。しかし、アティフの大司教はおよそ聖典をまともに読んだこともないだろう、とハイランドはみなしていた。まさかその大司教が教理問答を吹っ掛けてくるつもりだろうか。
明確な誤訳があったのか? と思ったが、いや、と思い直す。何度も見直した。それに、質の良し悪しはあろうとも、そう簡単に突っ込まれるような個所はないはずだ。
侍従から羊皮紙が、ハイランドの許に届けられる。間近に見るそれは、やはり見慣れた自分の筆跡であり、内容も神を賛美する預言者の言葉に満ちた箇所だ。解釈に大きな余地がある、喩え話や思わせぶりな箇所ではない。
ハイランドも一目見て、その羊皮紙に記されている翻訳が聖典のどこにあたるのか一瞬でわかったらしく、特に読みもせず、こちらに回してきた。
「この個所になにか?」
ハイランドから羊皮紙を受け取り、頭から文字を追っていく。やはり間違いはない。自分の文字を追いかけていると、その部分を書いた時の興奮や喜び、あるいは夜中の作業の眠気や腰の痛みを思い出す。
しかし、突然ミューリに服を引っ張られた。
ミューリは、羊皮紙に顔を近づけ、文字ではなく、羊皮紙そのものを見ていた。
「これ……」
ミューリがそう言うのと、大司教が口を開くのはほぼ同時だった。
「下から四行目は、本来の聖典であれば神への賛美を繰り返す感動的な箇所ではありませんかな」
下から四行目?
上から読んでいた物を、逆から追いかける。
そして、思わず声が出た。
「え?」
ハイランドが振り向くのが気配でわかったが、それどころではなかった。自分の目が信じられず、足元がぐらりと揺れ、吐き気がせりあがってくる。
なんだこれは?
「どうした、コル」
視線を動かすことすらできなかった。ハイランドは椅子から立ち上がり、羊皮紙を奪い取る。直後、びくりと体をすくませて顔を上げた。朝から夕方までに及ぶ、神経をすり減らすような根競べでもなお顔色をひとつ変えなかった人物が、全身で動揺していた。
だが、見たのは自分のほうではない。大司教のほうだ。
「まさか……いや、どうやって……」
その一言で、救われた。そう。どうやって?
これは自分の間違いではありえない。神を賛美する個所に書かれていたのは、神は豚であり、その教えは豚の鳴き声に等しいという一文なのだから。
「まさかもなにも、筆跡は揃っている。そこの若き学僧が、あなたの庇護の許、記したものに間違いあるまい」
大司教の言葉に、ハイランドは手元の羊皮紙を苦しげな顔で見る。確かに筆跡が揃っている。
不気味なほど、完璧に自分の文字だった。
あの夜に悪魔が忍び込み、勝手にこの文字を書かせたとしか思えなかった。
だが、その時だ。
「兄様、職人の匂いがする」
ミューリの囁きで、すべてを理解した。
筆写を頼んだ職人は三人いた。そのうちの一人は文字が読めなかった。それでも筆写職人としてはむしろ腕が良いほうだった。なぜか? それは、文字とはある種の絵画であり、正確に写し取れれば仕事として成立するからだ。
そして、正確に写し取ることができれば、使用した単語を並べ替えることで、あらゆる文章を偽造できる。羊の皮の中に、狐を忍び込ませることができる。自分たちの部屋には、誰かが忍び込んでいた。すべては仕組まれていた。ミューリの警告は正しかった。
もっと真剣に羊皮紙を点検していればと、悔やんでも悔やみきれない。
「コル、責めるべきは汚い手を使う奴らのほうだ」
そこに、ハイランドが声をかけてくれた。目が合うと、うなずかれた。
「それに、休憩中にこっそり入れ替えられたのかもしれない。防御は不可能だ」
確かに前日の内に入れ替えていたら発覚する危険もある。そう考えれば、ハイランドの言葉が正しいのかもしれない。
なお胸の苦しみは残ったが、ハイランドに慰められ、思考に余裕ができた。なんにせよ、自分を責めている場合ではない。
大体、罠にはめられていたのは事実だとしても、こんなあからさまなことに意味があるのだろうか? と思った。技術的には偽造が十分あり得ることなのだから、書いた書かないの水掛け論になるのは目に見えている。しかも、あまりにもわざとらしい一文だ。
これはさらなる時間稼ぎのつもりなのだろうか? しかし、そんなことで揉めているという事実そのものが町の人々に漏れたらどうなるだろうか? 民衆は、ハイランドやその配下の自分がとち狂ったと思うより、大司教が汚い手口を使ったと思うのではないのか。
まったく逆効果としか思えない。
もしもそれがなんらかの効果を持つのならば、それは……。
それは、と気がついた時、血の気が引いた。
「そのような文書をしたため、所持する者は」
大司教が、言った。
「やはり異端ということで間違いないようですな」
「なんということを!」
ハイランドが叫ぶのと同時に、執務室の扉が勢い良く開かれた。
そこにはずらりと町の兵士が並んでいた。
「神妙にしろ! お前達には異端の流布、ならびに禁書の作成と所持の嫌疑がかけられている」
「馬鹿な!」
吐き捨てるようなハイランドの一言が合図だったかのように、護衛たちが剣の柄に手をかけた。抜かなかったのは、神聖なる聖堂で剣を抜けば、即逆賊とみなされるからだ。
異端の嫌疑。