その葛藤が、わずかに残っていた生存の可能性をゼロにした。
自動車が、落ちる。
ベビーカーの中に残された赤ん坊は状況を理解していないのだろう。車体を大きく回転させ、太陽光を乱反射させるサイドミラーに向けて、無邪気に小さな手を伸ばしていた。
直後に、破壊音が炸裂した。
ゴッ!! と。
運動量、熱量、電気量。あらゆる『向き』を制御する一方通行の飛び蹴りによって、自動車を横合いへ吹き飛ばす音が。
猛烈な速度で突っ込んだ一方通行の体は、その場でわずかに滞空した。一方、運動エネルギーをまともに浴びた自動車は勢い良く薙ぎ払われ、野次馬のいない方向へと正確に突っ込んでいく。ビリヤードのように、運動量を交換したのだ。
ふわり、と。
重さを感じさせない仕草で、一方通行はフレメアの間近に着地する。
鳴り響いた轟音にようやく危機感を覚えたのか、ベビーカーの赤ん坊が盛大に泣き出したが、彼はそちらを振り返らなかった。
駆動鎧。
黒夜海鳥。
直接的な脅威を与えてくる存在の位置を確認しながら、一方通行はポツリと呟く。
最後の最後で、逃げる事をためらったフレメアを称賛するように。
(……こォいう役目は、本来俺じゃなくてあのクソ無能力者のはずなンだろォけどな)
自分自身と少女の両方に込めて、怪物は告げる。
「ヒーローにゃあ向いてねェな、クソガキ」
その瞬間。
浜面仕上は困惑した。
何故この場面で、学園都市最強の超能力者が出てくる?
浜面やフレメアといった無能力者と、能力開発のトップに君臨する超能力者達は、ほぼ正反対の位置に存在する。浜面としては馬鹿馬鹿しい限りだが、この街では、よほどの事がない限り超能力者が無能力者を助けようとは思わない。彼らがそれだけの『価値』を感じる事がないからだ。
もちろん助けがあるのはありがたい。
浜面が抱えている問題は、無能力者が頭を突き合わせてアイデアを出せば突破できるレベルを超えてしまっている。
彼は第三次世界大戦の最激戦区、ロシアやエリザリーナ独立国同盟などでも一方通行と出会っている。ロシア軍はおろか、学園都市が『戦争』のために本気で投入した最新兵器を、生身で圧倒するような人間の手を借りられれば、どれだけ心強い事か。
だが。
何か、気味の悪いものを覚えているのも事実だった。
エッジ・ビーの大群から『運良く』逃げ切れたのと同じように。
(……使えるか?)
過去に滝壺をテロリストから守ってくれた事はあったものの、『別の理由』から、正直、あの第一位には良い印象がない。
しかし今は選り好みをしているだけの余裕はない。
(……何でも良い。この局面を切り抜けられるなら。あいつは駒場のリーダーをブチ殺した嫌なヤツだけど、だからこそ、あいつにはフレメアのために戦う理由がある!!)
その瞬間。
駆動鎧は、通信を介して同僚の歓喜の声を聞いていた。
『来た来たきたァァァああ!! シルバークロース!! 「接点」は生み出された。あと一押しだ。ここでラインを「確定」させちまえ!!』
「向こうも狙いに気づいている可能性があるが」
『気づいていたってどうにもならないさ。そのために生殺しにしてきたフレメア=セイヴェルンだ! ここまで来れば、もう流れは変えられない。本人達が否定しようとしてもな!! あいつを使えば「確定」できる。チェックメイトだ、シルバークロース!!』
駆動鎧の内側で、舌打ちの音が響いた。
彼は本来、TPOを弁えて着こなす人間だ。
「クソッたれが。ビーランチャーは戦闘向きのモデルじゃないっての!!」
毒づきながらも、駆動鎧は大きく前へ出る。
間にあるガードレールや消火栓などを、建設重機のように蹴散らしながら。
その瞬間。
シルバークロースの巨大な駆動鎧が突撃していくのを、少し離れた所にいる黒夜は観察していた。
オーダーメイドの駆動鎧とはいえ、それだけでは学園都市第一位を粉砕する事はできないだろう。
(……それで問題ない)
ゴッシャアアア!! という金属の潰れる轟音が炸裂した。
重機のバケットより頑丈な鋼鉄の指で地面のフレメアを摑み取ろうとした駆動鎧の腕が、一方通行の能力によって丸ごとへし折られた音だった。
衝撃は根のように侵食し、壊れた腕をさらに引き千切り、外殻に亀裂を走らせ、駆動鎧を動かすために必要な機構へ次々と高い負荷を与えていく。
通常であれば、それで終わっていただろう。
だが違う。
(……この勝負、勝ち負けの定義は力技じゃない!!)
シルバークロース=アルファは、分厚い駆動鎧を『着て』いるのだ。
つまり、
バクン!! と。
突如として、現在進行形で破壊されている駆動鎧の前面が開いた。
その中身を、シルバークロースを排出するために。
中身もまた、生身の人間ではなかった。
アルマジロのような曲線の装甲で構成された、極めて小さな駆動鎧だった。
何らかの装置やセンサーを使って姿勢制御を行っているのだろう。アルマジロは巨大なモデルから飛び出した勢いのまま、空中で勢い良く回転する。
天地逆さまの格好で、地面にへたり込むフレメアの真上を通過する。
いや違う。
彼女の後ろ首を、アルマジロは正確に片手で摑み取る。
無線機に向かって、黒夜は力強く叫ぶ。
「シルバークロース!! そのままさらえ! それで決着がつく!!」
単なる破壊で止まると思っていた一方通行は、わずかに対応が遅れた。
次の一手が来る。
悲鳴と共に、周囲の人混みが左右に割れた。
その間を突っ切って来たのは、後部に巨大なプロペラを備え、四本の脚を『滑らせる』事で時速八〇〇キロを叩き出す高速移動用モデルだ。脚の先端からは『滑走補助』と呼ばれる液体を出して滑らかな移動を可能にするが、揮発性の高い『滑走補助』は、追跡のヒントを一切残さない。
動きは単調になるが、シルバークロースの所有モデルはプログラムでも動かせる。
その前面の分厚いハッチが開く。
フレメアを捕らえたシルバークロースはもう一度空中で半回転すると、四本脚の内部へ綺麗に収まる。
金庫のような分厚いハッチが閉じる。
乗り換えが終わる。
彼はTPOを弁えて着こなす人間だ。
つまり。
状況を鑑み、今は『一刻も早く逃走するのに最も適したモデル』を使っているはずだ。
ブォン!! と後部のプロペラの勢いが増す。
爆風が発せられた。
一方通行が装甲を摑むより早く、駆動鎧は一気に加速を開始する。
その手が空を切った。
そう思った時には、すでに弾丸のように街中を突っ切っている。
黒夜海鳥は気配を消して人混みの中に紛れつつ、通信機に向かってこう話す。
「これで、私達の勝ちだ」
取り残されたように、ベビーカーの赤ん坊の泣き声だけが炸裂していた。
人間の原始的な感情を刺激するその声は、しかし『闇』にまでは響かない。