人口およそ二三〇万人、内八割が学生。
東京都の三分の一を占める巨大な学園都市では、周囲をぐるりと囲む壁の外とは全く異なるルールがいくつもある。例えば治安維持は警察の代わりに街全体では教師側の警備員、個別の学校では生徒側の風紀委員がそれぞれ管轄しているところなどが顕著だろう。
つまり体育担当の女教師・黄泉川愛穂は同時に手錠や拳銃を自由に操る権限を持った警備員を兼任している。普段はどんな時も緑色のジャージで出かけては罪を犯した少年少女を透明な盾で笑いながらどつき回し、しかし相手がどんな強大な能力者であっても子供に銃だけは向けないと固く誓っている彼女だが、今日だけはルールの一つが破綻していた。
ジャージではなく、黒のスーツだったのだ。
残りのルールが破られない事を、彼女は強く願っていた。
本当に強く。
「こちらです」
案内の者の冷たい声に促され、黄泉川愛穂は何度も折れ曲がる通路を歩いていった。迷いやすいし、台車なども運びにくいだろう。思想としては大昔の武家屋敷と一緒だが、刀や槍を振り回しにくくするためではない。目的は屋内戦闘用ドローンの自由な移動を妨げるためだ。あちこちに電波や赤外線を乱反射させる障害物がそうとは見えない形で織り込んであるし、床には無意味な段差などもある。おそらく善意からまとめられたバリアフリー用の資料を逆手に取って、車輪や履帯では乗り越えにくい設計にしてあるのだ。
技術だけなら簡単なように聞こえるかもしれないが、現実の建築は推理小説のナゾ館のようにはいかない。車椅子や松葉杖での通行をわざと困難にさせるような設計など国が許すはずもないのだ。つまり、ルールを踏み倒してでも襲撃に備えなくてはならない『何か』がこの先に眠っている。
防犯カメラはなかった。
逆に、乗っ取られて外部に情報をばら撒いてしまうリスクを避けているのかもしれない。
複合装甲の大扉の前には、案内の者とは別に見張りの男が佇んでいた。彼は、日がな一日ここにいるだけの人間なのだろうか? 扉の横にパイプ椅子が置いてある。
黄泉川は眉をひそめて、
「……見た事ない顔じゃんよ」
「でしょうね。あなたにはその権限がありませんから」
「となると、一二人しかいないとかいう統括理事辺りのお使い?」
貝積。
親船。
亡本。
潮岸。
薬味。
……その他、数々の『伝説』の保有者の話であれば黄泉川も断片的には聞き及んでいる。地球上の科学技術の全てを掌握している学園都市、その権力の頂点グループに君臨する一二人の怪物達。ただ彼女の知っている話が本当に本物なのかどうかは分からない。どれもこれも宇宙人とコンタクトを取っている黒服と同程度の荒唐無稽さであり、しかも黄泉川としては、真相はそれ以上だと身構えている。警備上最も重要なVIPのくせに、誰が死に、誰が代替わりしているのかさえはっきりとしていないときた。
「いいえ」
しかし、じっと機械的に待機していた男は否定した。
その上で、
「一人しかいない、統括理事長です。それ以外のご命令は受け付けておりません」
「……、」
次元が。
さらにもう一つ繰り上がる。
無言の黄泉川に対し、男は起伏のない声でこれだけ口に出した。
それは半ば命令であった。
「ボディチェックを」
「入口でもしたじゃんよ……」
「お早く」
銀行のATMよりも言葉が少なかった。学歴、技術、健康状態の他、徹底的に身辺や素行の調査も行われているはずだが、『何を命令されても疑問を持たない』という項目が必須事項として並べられているに違いない。
黒いスーツ姿のまま黄泉川が軽く両手を上げ、待機していた門番が何か棒状のものを取り出した。道路工事で車を誘導する時に手で振るカラフルな誘導灯に似ているが、違う。テラヘルツ波を使った探知機だ。合成樹脂のお仲間を使う3Dプリンタでサブマシンガンやアサルトライフルが誰でも気軽に作れる世の中になってから急速に普及したもので、これなら金属製品以外でも服の中の異物を『透視』できる。
能力だけが学園都市の恐ろしさではない。
この街に住むわずか二割の大人達は次世代技術を用いて、それら八割に及ぶ異能を手にした子供達を御する立場にある。
「携帯電話は預からせていただきます」
「勝手にするじゃんよ」
「ネクタイピンは一度外してください。こちらはスカートのサイドファスナーですか」
「ブラのホックまで没収するつもり?」
正面も背中も全部なぞられて、それから男は無機質に述べた。
「結構です」
大仰な扉が開いていくが、中には何も待っていなかった。もう一つ、全く同じ扉が待っている。わざわざ二重扉にしてあるのはセキュリティ上の都合の他、見張りをしている男達でさえ『中』を覗くのは許されないからだろう。
黄泉川が狭いスペースに踏み込むと背後の扉が閉められ、それを確認してから二枚目の扉のロッドが外れていった。
奥にあるのは狭い部屋だった。それで相手は満足しているらしい。
あるのは透明なテーブルと安っぽい椅子が二つ。
そしてこの部屋には窓がない。
「……お久しぶりじゃん」
黄泉川愛穂はそっと息を洩らすような格好で、それだけ呟いていた。
色の抜けた白い髪の持ち主は椅子に体を投げ、テーブルの上に放り出した足を気軽に組んでいた。その赤い瞳でもって、来訪者をジロリと見返す。
「で、わざわざこんな私をご指名してくださるとはどういう風の吹き回しじゃんよ?」
歳については一〇以上離れているかもしれない、しかもその間には成年と未成年の壁すらある。だが敬意を払うべきは黄泉川愛穂の方だった。慣れないスーツがそれを端的に示している。
畏怖。
そして残念がるように。
黄泉川愛穂は相手を役職付きで、こう呼びかけたのだった。
「学園都市新統括理事長・一方通行さん?」